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代表取締役引退…好きな事だけして生きてます。

簡単なプロフィール
現在67歳。妻と二人暮らしです。
映像&画像制作とWEB関連の仕事をメインとする小さな会社を経営しており
ましたが、約1年半前に代表取締役を引退しました。
健康状態良好ですが、一種一級の身体障害者です。
心臓に人工弁(私の場合はアメリカ製の、なんと!牛の弁)が入っています。
あとひと月位で娘にベビーが誕生する予定。
お爺ちゃんになる心構えは、まだ出来ていません。
仕事は、一応フリーランスの映像&画像クリエイターということになると思います。
株式は保有したままなので会社オーナーとしての責任は残っています。

以下、私が社会に出てから、ようやく好きな事だけやって生きていけるようになるまでの人生のプロセスを要約してみました。

会社員時代から最初の起業独立~バブル崩壊で倒産

会社員時代は、日本最大手の人材関連総合企業R社に勤務していました。最初は企業の人材採用をお手伝いする仕事。
その後、管理職になってからは営業部門、制作部門、映像部門他いろいろ経験させていただきました。
R社は企業風土が大学のような会社だったので、楽しい思い出が多いです。
今はどうか知りませんが、
私が在籍していた頃は、若い世代への権限委譲がダイナミックで非常にやりがいがあり、貴重な経験を積むことが出来ました。
経営目標達成のために苦しむことも当然ありましたが、やはり楽しい思い出が多いです。
最終学歴は大学ではなく、R社卒という感じです。

その後、取引先にヘッドハンティングされ、取締役という職務を生まれて初めて経験させて頂いた後に最初の起業独立をしました。
事業内容は、主にR社の代理店業務と独自の組織活性コンサルティング業務でした。
1988年…バブル突入の年です。
超高度成長経済下での人材ビジネスは、言うまでもなく会社スタートと同時に絶好調。創業時から5名の社員を抱えてのスタートでしたが、業績の伸び方は計画をはるかに上回り、1年後には11名体制でアメリカ人も一人採用していました。
起業後3年余りは、よく言われるバブルの天国を経験しましたが、やがてバブルは崩壊、地獄も経験しました。
会社は倒産。一応?当然?一文無しになりました。
個人の預金は3年で5000万円を超えていましたが、会社を守るためにつぎ込んで2年ほどでゼロに…その頃は、お金のことを考えるだけで吐きそうになって、友人からも「人間の顔をしてないゾ」と言われ、自分的には地獄でした。

バブル崩壊

バブル崩壊後は、地味~に、でも趣味もささやかに楽しみながら、プレッシャーから解放されて意外と気楽に生きておりました。
過度な不動産投資や株式投資をしていなかったので、会社は倒産しましたが傷は致命的ではなかったのです。

経験分野と特技を活かして再び起業

サラリーマン第2章を生きていましたが、元々私が目指していた映像分野はインターネットの発達とそれに伴うテクノロジーやソフトウェアが急速に発達しR社に勤務していた時代とは違い、大きな資金が無くても取り組める分野に変貌していました。
そうした情報や成功事例に触れて、「たった一度の人生。好きな分野で生きてみたいとい」という虫が体中を動き回り、映像制作&WEB関連&各種マニュアル制作事業をメインに再び起業しました。

もちろん大手取引先などは獲得できるはずもありませんでしたが、幸運にも自作のWEBサイトから某携帯電話会社のマニュアル制作のオファーが入り、継続的でボリュームのある仕事だったので、会社の経営は安定しました。

贅沢な悩み

携帯電話のマニュアル制作は、実に細かく、しかもクリエイティブな仕事とは言えません。仕事量は膨大で、納期も厳しく文字通り睡眠時間との闘いでした。
深夜作業も当たり前(深夜作業料金は制作費用とは別で請求させていただけました)で、再起業した当初の目標である「映像制作の仕事」にさける時間はほとんどありませんでした。まさにマニュアル制作専門会社といっても過言ではない状態でした。
しかし、小さな会社を選んでいただいた有名携帯電話会社のお仕事です。途中で投げ出すことなどできませんし、経営的には非常に有難いお仕事でした。

スタッフは全員外注!

スタッフは自分以外全員外注で!

昔経験したバブル崩壊の時、従業員の人達に十分なことが出来なかった経験から人は採用せず、必要な専門スキルを持った外注の方達とスクランブルスタッフ的な契約をして仕事を進めました。
このスタイルはとても良かったと思っています。
外注スタッフの方達は、他の仕事も受けることが出来ますし「今、仕事受けれます!」というスタッフに絞って発注できるので、喜んでやっていただけますから。

病気、緊急入院、手術…大動脈弁が石灰化

約5年前、心臓の病気が発症しました。
ある日、自宅で深夜にトイレに起き、寝室からトイレまで行ってベッドに戻るだけで1キロ走を走ったような状態になりました。
私自身は「相当疲れているのかな」と思いましたが、私の異変に気づいた妻が迷わず救急車を呼んでくれて…「そんな大げさなことしなくても」という私の声に耳を貸さなかった妻に今は感謝しています。
救急車はすぐに来てくれて、受け入れ病院もすぐに決まりました。大きな国立病院でした。
救急治療の後、様々な検査を受けて救命救急の先生から「このまま入院しましょう。手術になると思いますが、専門担当医から改めてお話ししますので…」と言われました。

実はこの時、ちょうど例のマニュアルをデータ納品した直後だったのが幸運でしたが、「今夜は救急処置だけして頂いて、気になる仕事の処理をして明後日くらいに改めて入院ではダメですか?」と先生にお願いすると「ダメです。死にますよ。」と言われ、事の重大さを理解したのでした。

入院後すぐに手術かと思っていたら、私の体はその時点でとても手術に耐えられる状態ではなく、まずは手術可能な体づくりの治療を行っていくという説明を受け、約20日後に手術と決まりました。
私の病気は「心臓の動脈弁が石灰化していて開いたままになっており、体に送る血液がほぼ逆流している」…病名は「心臓弁膜症」で状態は重度ということでした。

手術

行った手術は「大動脈弁置換術」といって、石灰化して動かなくなった私の動脈弁を切除して人工弁を埋め込むという手術です。
最初にも書きましたが、先生と相談した上、私の心臓にはアメリカ製の「牛の弁」が入っています。はじめ聞いたときは「え?牛の弁ですか?!」って感じでしたが、実物を見せてもらうと直径約2.5cm位のバイクのパーツのようで驚いたのを覚えています。

ただしこの手術を受けると、体内に人工のモノが埋め込まれ術前の状態に戻ることは生涯無く、機能に不具合が発生すると死亡する可能性があり自動的に一種一級の身体障害者に認定されます。現在は常に身体障害者手帳を携帯しています。
おかげ様で手術は成功し、術後10日間ほど経過観察的に継続入院し、その後無事退院しました。
現在は、嘘のように元気になりました!(^^)!

引退準備・人生再起動!

手術から2年位経った頃から、少し早いけど会社の経営はほかのスタッフに任せて一度きりの人生、好きな事だけをして暮らしたいと思うようになりました。信頼できる人たちと話し合い、株式はそのまま保有してお金に関する責任は持ったまま実務からは引退するという道を選びました。
取締役にも残らず、役員報酬も取らず、必要な時は外注クリエイターとして支援するというスタイルでフリーランサー&会社オーナーということです。

コロナ禍なので、いろいろ創意工夫が必要ですが、元々それぞれのスタッフがMacやPCと取っ組み合いながらオンラインで進めるというスタイルなので比較的やりやすい仕事かなと思います。
でも受注は減っていますね。

ようやく好きな事だけして生きています!(^^)!
無理のない範囲で、YouTubeにも挑戦しています。

https://www.youtube.com/channel/UCkzsm2VGzNcRggiUKpRhW1A

最近、noteも始めることにしたので頑張って発信しようと思っています。
今回は、noteという面白い世界の住人のみなさんにご挨拶代わりに「社会人になってからの経緯」を書いてみました。
今後、よろしくお願いします。

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