見出し画像

劇場版から2年、久しぶりに #おっさんずラブ の話

ハードディスクを整理していたら、書いたことすらすっかり忘れていた文章が発掘された。保存履歴を確認したところ、2020年2月に作成したらしい。

当時、こんなことを思っていたんだな……というのが懐かしく、大好きだった劇場版おっさんずラブの公開から2年経ったこの夏に、備忘録としてアップロードしたいと思う。


***********

なにかおっさんずラブの話がしたい。とてもしたい。

と思ったけれど、今新しく語れるほどの何かが無かったので、ひたすら妄想の話をすることにする。

おっさんずラブの感想を書くときには、自分の中では何かしらの一貫性というか、ロジックを持たせたいと思うのか、一応映像の中から「根拠」のようなものを見つけようとする。

“のようなもの”なんて回りくどい言い方をするのは、それがあくまで私がそう感じるという、ただそれだけだからだ。

例えば表情、あるいは声のトーン。明確な言葉にならないものについては、人によって当然受け取り方はそれぞれだ。

誰もがその「根拠」から同じように考察できない、考察に再現性が無い時点で正確には根拠になり得ないのだけど、それでも文章を書くうえで、私ではない誰かに自らの考え方の筋道だけは伝えたいと思うらしい。

一方で、それは裏返してみると、自分の中には「このキャラはこうだろうな」という解釈が肥大化し、「こうだったらいいのにな」という願望レベルになっているものも多いと感じることも少なくない。

前置きが長くなったけれど、要はそういう「こうだったらいいのにな」という、つまり考察ベースではなく願望ベースで牧凌太のことを語りたい。

なお、これはあくまで、私の中のイマジナリーなおっさんずラブや、牧凌太の話である。

***

なぜだかよく分からないけれど、ドラマの頃から私の中では牧凌太は一貫して「ヤバい奴」である。

当初は「かわいい」という感想も抱いていたと思うのだが、気が付いた時には「ヤバい奴」になっていた。心が優しい青年だとも思うのだけど、それだけではない。いつ見ても牧の中に「優しさ」だけに留まらない、溢れ出んばかりの激情を見出してしまう。

私にとっての牧凌太はいわゆる「スパダリ」や単純な「王子様」ではない。

かと言って一歩下がって旦那様を見守るような、「大和美人」や「良妻」でもない。優しいけれど、それだけではない。誰かを支えて、誰かの幸せを願う。心根が素直で、真面目。そういう人間だけれども、でも他人を支えて生きることだけで、満足できるわけでもない。その心の奥底に野心があって、競争心もあって、そして他でもない彼自身がそれをうまくコントロールできそうに見えて、溺れている。そういう、すごく人間らしく泥臭い、アンビバレントな二面性に溢れたキャラクターだなと思っている。

そういう意味では、私にとって、劇場版の牧凌太は割と初回から割と解釈が一致していたと思う。

ジーニアス7のスタートミーティングでの、瀬川と黒澤の「そういえば牧くん、忘れたけどエリートだったわね」「ああ、営業所に来たのも経験を積ませたかったわけだし」というやり取りなんて、解釈と一致しすぎてて初回の映画館でひとり喜んでしまいそうになった。

今でも忘れられないのが、映画を初めて見たときの「わんだほう」のシーンである。忙しさのあまり身体を壊さないかと心配する春田に対し「でも俺、今が一番生きてるって感じがするんです」と牧は嬉しそうに語る。私はこのたった一言に、これでもかと心を持っていかれそうになった。

ドラマの時のように、自分の想いを我慢していた牧はそこにはいなかった。

まるで牧凌太という人間の、颯爽とした人生のスタートを見届けたような気持だった。この一言に、牧凌太というキャラクターの広がりを一番に感じた。これまで何十回も見返していたドラマ「おっさんずラブ」と連続性を感じさせながらも、そこには一歩階段を上った、別次元の牧凌太がいたのである。


おっさんずラブはある種、春田と牧の幸せを願うコンテンツでもある。

しかし、「幸せを願う」とは簡単に言うけれどとても難しい。

なにをもって「幸せ」なのかはまた人によって様々だからだ。

「幸せを願う」とは、ある意味、おっさんずラブを視聴する一人一人の心の中を鏡のように映しているとも言える。その人の思う「幸せ」の形を、春田と牧、あるいはおっさんずラブというコンテンツに投影する。だからこそ、物語の結末も、理想的なハッピーエンドも、視聴者の数だけ存在する。

そうしたなかで、私は牧凌太に対し、彼の幸せは自分らしさを認め、曝け出して、それを誰かに受け止められることではないか、といつしか思うようになった。


私が牧を「ヤバい奴」だと思うのは、おそらくドラマ第1話の風呂場での告白シーンの衝撃があったからだ。あるいは、6話のキスシーンがあったからかもしれない。ドラマを通じて、牧が理性ではなく衝動で動く人間なのだと認知した部分は多分にあると思う。春田は気持ちで動くのに、牧は衝動で動いていく。

これはよくツイートするのだけど、劇場版では春田は牧の気持ちが離れていくことに嫉妬し、牧は春田の身体に触れられることに嫉妬する。ドラマは春田が牧への「恋に気付く」までの物語だと思っているけれど、これは別の見方をすれば、春田が牧に抱いていた気持ちに「恋と名付けた」物語でもある。春田にとっては牧の心が欲しい、だから春田は性別の壁も乗り越えるし、ある意味牧に恋をするのだ。

でもきっと、春田は牧の心が手に入るのならば、それが恋で無くても良かったのではないかと思う。恋でなければ牧を手に入れることができなかったから、だから春田は牧への想いを「恋」と名付けたのかもしれない。もっと言えば、牧を手に入れることができるのならば、春田は自分のその気持ちにどんな名前だって付けたと思う。


一方で、牧は春田に「恋」をした。ここが春田とは明確に違っている部分だと思っていて、最初からそれが「恋」だと理解していた。最初から牧は春田が欲しかった。だから、牧は最初から春田の心だけでは満足できなかったと思う。そこに彼の激情を感じる。優しさの奥にある、優しさだけではない泥臭い何か。好きな人のお弁当を作るけれど、世話を焼くけれど、ただそれだけでは満たされない何か。それを薄っすら感じてしまう。

もしかしたらその「欲」の表れのひとつが、本社で大きなプロジェクトチームを持って、自分の夢をかなえていくことなのかもしれないけ。

でも、彼はそれに気付いていないか、もしくは気付いても見て見ぬふりをしている気がする。「優しい」「自己犠牲に生きる」という自らの理想像と、それだけでは満足できない現実や野心。その狭間で、彼は葛藤する。

だから、牧が自らの奥底にある「野心」であったり「欲」を認められるときに、ああ良かったね、と思ってしまうのだ。

なによりも牧自身が自らの「欲」に気付いていないし、もっといえばそれを肯定していない、もっと言えばうまくコントロールできていない(時にはその「欲」に自ら溺れる)。

だからこそ、牧自身がその「欲」を認められなかったとしても、春田がそれに気付き受け止められるところに一番愛を感じるし、安心してしまうのだ。

例えば、劇場版だったら個人的にはきんぴら橋のネクタイと、サウナが二大牧凌太の「ヤバさ」が発揮されたシーンだと思っているけれど、そういうときに春田は牧の行動を絶対に拒絶しない。

それをちゃんと受け止めて、春田の気持ちを返す。それが当たり前のように見えるけれど、そうした自分とは異なる世界にいる、異なる考え方を持つ牧を、当然のように受け止めていくその積み重ねが私はすごく好きだ。

牧凌太は、イケメンで、春田の世話も焼いてくれて、仕事は真面目で、春田にとっては何よりも気が合う後輩なのだろう。牧のポジティブな要素を上げていけば、好きになるのは当然のようにも思える。

しかし、その裏にある、仕事が忙しいとメールを返す余裕すらなくして、営業所勤務の時すら、内心本社で開発の仕事をしたいと思っていた、「ずっと夢だった」と思う、それくらいの野心はある。倒れたって恋人に言うことを「ぎゃーぎゃー言いたくない」と非難するくらいの面倒くささも持っている。

そういう牧の短所を受け止めて、そこをひっくるめて、むしろその要素すら愛すべき点なのだと感じさせるくらい好きになってくれる春田が私は好きなのだ。


思ったよりも長い文章になってしまった。

劇場版を観ていたら、きっとこの先、牧はもっと自分の「欲」と向かい合わざるを得なくなっていくだろうなと思った。

自分の夢を実現するために、自分の人生を歩いていくために、「真面目」で「優しさ」という自分の長所、受け止めていたい自己認識だけではどうにもできなくなる日がくるに違いない。

気が付けば会社や組織の論理に飲み込まれ、狸穴のように「最初は街の人を笑顔にするために仕事をしていたのに」と振り返る日も来るかもしれない。

春田の隣にいることが当たり前になりすぎて、そこに幸せよりも苛立ちを感じる日だってくるかもしれない。

でも、そのときに、間違いなくそんな牧すら春田は受け止めて、牧の世界を明るいものにしてくれるのだろう。

そう思うと、ますます第2章以降の牧凌太と、おっさんずラブを私は観たいと切望してしまうのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?