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私は誰かの下位互換だけど希望はある

上には上がある、という言葉がある。
文字通り、上だと思ってもそれには更に上があるという言葉で、要は自惚れるな、思い上がるな、みたいな意味。

この言葉を人に使うのは、本当によくないと思う。
少なくとも、この言葉は人を選ぶ。

この言葉が合うのは、自惚れたり思い上がったりする人。
つまり、自己肯定感が高い人だ。
そういう人に対して「確かに良いが、世間に目を向けてみれば、より良い形を求めることは出来るよね」みたいな教訓になる。
「井の中の蛙大海を知らず」は類似している諺だと思っている。
いうなれば、自己肯定感を抑制する言葉だ。

しかし、この言葉は自己肯定感が低い人に対して効き過ぎてしまう。
ただでさえ低い自己肯定感は抑制されすぎてしまい、過剰な悲観的感情は加速する。
これが行き過ぎれば鬱になる。
この言葉自体は真実に感じやすいのも大きい。
誰だって自分より上がある経験はするものなので、体感してしまう。


実際私は今でも自分より上には上があると思っているし、私は誰かの下位互換だと思っている。
ただ、最近少しだけ考え方を変えることにした。

まず、上には上があるけど、それがどうしたって話。気にしないことにした。
自分より上がいて自分が劣っていることを自覚はしているが、努力して更に「上」を目指そうと思うことをやめた。
目指したいのは自分のなりたい自分で、得体の知れない「上」とやらではない。
大体、この言葉が正しいなら、人生はどこまで行っても終わりがない山登りってことになる。
終わりがないなら走り続けるのは無理だ。せめて歩かないといけない。

それともう一つ。
複合的に見た時に自分の上位互換はいないと考えた。

人間は色々な面を持っていて、そのそれぞれに上がいる。
例えば、私は麻雀をするけど、私より麻雀が上手い人がいる。
ラジオを聴くけど、私よりラジオを聴いていて投稿もしていて採用されるような人もいる。

ただ、麻雀とラジオを掛け合わせたら、両方とも私より上な人って大分絞れるはずだ。
そういう感じで絞っていけば、最終的に私が残るはず。

理屈として考えても、全ての上位互換なんてないってことだ。
何かにおいて人類で一位の人だって、部屋が汚かったりするかもしれない。
人間には長所と短所があるなんて、当たり前だけど意外と気付けないことだ。

私のような悲観的な人間は、そもそも人との争いに向いてないし、誰かと比較して「上」になりたいという概念自体が肌に合っていない。
せめて山登りなら、登る山は自分で決めたいね。自分の人生だから。

ここまで書いて気づいたけど、これアレでしょ。

「ナンバーワンにならなくてもいい。元々特別なオンリーワン」ってことでしょ。

改めて歌詞を読んだら、もう全部書いてあったんですけど。
槇原敬之すげー。

ここで一曲。

vivid  - 花鋏キョウ

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