思い出せないけれど、心が覚えている

今日から一週間、夏休み。

高知県の実家に帰省しています。

地元で大人気のうなぎ屋さん、「かいだ屋」は長蛇の列。11:30に名前を書いて、料理が出てきたのは14:30だった。それだけの価値がある美味しいうな重です……。年に1回、家族四人の贅沢。


今読んでいる本は、筒井康隆さんの『残像に口紅を』。
なんとこの小説、言葉が1文字ずつ消えていく。

「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい……。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。


いやー、すごいな。めちゃくちゃおもしろい。

言葉が消えても、物語は続く。最初に消えるのは「あ」。その瞬間から、小説の文体の中にも「あ」がつく言葉は登場しなくなる。それと同時に物語の中の世界も「あ」がつく概念は存在していない世界になっている。そしてひとつ、またひとつと言葉が消えて、認識できなくなり、言葉が表していた存在すらも消えてしまう。


小説の中で、主人公の佐治が「文字が失われた瞬間」に立ち会うシーンが幾度となく描かれる。うるさく吠えていたはずの動物が消滅して、辺りが急に静まりかえる。見晴らしの良い、高台の上に建設中だったはずの建物は、言葉が失われたことで工事が止まってしまう。そして、5人いたはずのテーブルには3人しか座っていない。自分の家族の会話はこんなに静かだっただろうかと違和感を抱えるものの、それがなぜなのかは認識できず、分からない。

言葉が失われた瞬間、その記憶も失ってしまうのだが、「これまであったはずの何かが失われた」という違和感は残っている。だから主人公はその残像が完全に消え去る前に、ぼんやりと輪郭を思い出す。もうはっきりと認識することはできないその人の印象を、静かに心に焼き付ける。


帰省し、私が生まれ育った町に半年ぶりに戻ってきたとき、奇しくも佐治と同じような体験をした。

自宅からすぐ近くの、交差点。その一角が、広い駐車場になっていたのだ。
昔ここは駐車場ではなかったはず。その瞬間にぱっと、記憶の中の交差点が復元されそうになるが、はっきりと思い出すことができない。たしかに何かが違う。でも、ここに何があったのかまでは思い出せない。

思い出そうとすればするほど、記憶の中の交差点の情報がどんどんおぼろげになっていく。そして現在の駐車場のイメージに書き換えられてしまいそうになる。


実家のトイレに入ったときにも、まったく同じ体験をした。

ドアを開けるとすぐに、正面に小さな窓がある。その下には母がトールペイントをあしらった小さな丸い鏡が飾られている。私の記憶の中ではそうだった。でも久々に入ったトイレの窓の下には、小さなドライフラワーのブーケが飾られていた。

その瞬間、私の脳は「あれ?何かが違う」という違和感を捉え、「本当はここに何があったか」を記憶の中から探し始める。交差点のときとは違って、今回は「ここには丸い鏡があった」ということを思い出すことができた。

でも記憶の中の鏡のデザインはぼんやりとしていて、色や形はなんとなく再現できるものの、トールペイントの細部までは思い出すことができない。


意識的には覚えていなくても無意識に覚えていることや、心は覚えているのに、どうしても頭では再現できないことがある。

交差点には昔何があったのか、私はもう自分一人では思い出すことができないし、トールペイントの細部を再現することはできないと思う。
「もう思い出すことができない」という、記憶のピースが失われた感覚は、気づかなければなんてことはないのに、意識してしまった瞬間、寂しくて切なくなる。


『残像に口紅を』は、物語が進めば進むほど、記憶や認識のピースが抜け落ちていく構造になっている。私はまだ100ページほどしか読めていないが、一体最後はどうなってしまうのだろう。

物語を最後まで読み進めるのが、ちょっと怖いような気もする。


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コメント2件

とても共感する!その本も読んでみよー
ありがとう〜!
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