染、色──深馬の真未人格


 染、色を語る上で欠かせない深馬と真未の関係について今回は述べていきたい。


原作小説『傘を持たない蟻たちは』に収録されている「染色」では2人は違う人間として登場し、壁に一緒に絵を描き、時には体を重ねてもそれ以上のことはなかった。脚本家・加藤シゲアキがこの小説を舞台脚本に仕上げる間に2人の人物はより濃密に関わり、挙句同一人物と成り上がったのである。



 結末から書いてしまうと私の考える【真未人格の発生条件】は「放棄」だ。その根拠は以下の二つである。理由づけとしては少ないが筋は通っているはずだ。



①キャンバス

作中、二度深馬の作品が修復不可能になるが本人はその事実に呆れ、簡単に放棄する。深馬が作品を作り上げることができないのは途中で放棄するからだと真未や滝川から言われていたようにこれは彼の逃げ癖の一部だろう。

そうして創作活動を放棄したとき、真未の人格が出現し深馬がしたくてもできなかった描き直す、という原点に戻していくのだ。


②壁画

制作に息詰まった深馬がスプレーで歪な曲線を描き、酔ったままその場で寝てしまう。これも中途半端なまま投げ出すという意味での放棄と捉えればそこから起き上がって恐竜に仕立て上げたのは彼に眠る真未人格である。恐竜に限らず胎児も花も山羊もここに含まれる。終盤、種明かしのように深馬が1人で様々なシーンを振り返るときに眠るところまで再現したのは放棄の表現を入れたかった制作側の意図だとすれば至って自然である。




 さて、ここからは【彼が真未人格になっている間はどれくらい長かったのか】について考えたい。もちろん二重人格というものは人格を行ったり来たりを繰り返すものであるが後半はあまりに真未が登場する場が多いのだ。 

思いがけず標準語が馴染む正門くんに見惚れていると会話の矛盾を逃してしまうが病院で目を覚ましたシーンと卒業式のあと3人で飲み交わすシーンでは北川と原田の言い分が異なる。


病院ではギクシャクした友人関係を思い出して不器用に謝り合い、壁に絵を描いて退職に追い込まれた滝川を可哀想だと言って笑い合った。それまでの流れと一致しているので作品にのめり込んでいる身としては何ら不思議な点はない。

しかし、3人で最後に酒を交わすシーンでは壁に絵を描くのはロランスあかりの企画の一環であり、そこに深馬も参加していたこと、滝川は自身の画家になる夢を追ってフランスに行ったこと、終いには深馬の作品は自分で壊したことまで知らされた。ここで2人は「まだ駄目みたいね」と力なく顔を見合わせる。


ここで私たちは深馬同じように頭の中に沢山のクエスチョンマークが浮かぶ。なに、どうなってるの。いつまで飛んでいるの。そこでこの考察に至り、最初に飲んで眠ったときから病院で目を覚ますまで説、後に恐竜になる線を描いて寝転んだときから病院で目を覚ますまで説、単純に1週間倒れ込んでいた説、どう考えても最後の飲みの件とは合致しない。


そうして私がたどり着いたのが「全て真実だった」という結末である。深馬は二重人格で、義指を使って街中に絵を描き、それを滝川に乗っ取られ、滝川は退職した。

真実をデータとして掴んでいた原田が、滝川や北川と話し合って辻褄があうように編集し世に放ったのではないか。ロランスあかりも結託してくれるだろう。大人同士で金銭も動いたかも知れない。 それでも滝川は自分の生徒のために犠牲を払ったという考えである。


 やはりこの作品に出てくる人物は互いの大切さや才能を気付かせてくれる、かけがえのない人達なのだ。







 前回の桜について考察したときにも感じたが北川と滝川の名前が近いことや原田が何かを知りすぎてはいないかを考えてしまう。深馬と真未の名前が近いことにセリフで触れていたし、深馬の油絵、北川の粘土、原田の写真。原田だけが真実を切り取る記録媒体を専門に扱っていることと関わりがあるのだろうか。 原田が誰とも似ていないことは……?桜のことを聞かれて吃る原田が、滝川に一目置かれた原田が、最後にオールバックで現れた原田が、少々不自然である。というのはまたどこかで、書いてみようと思います。


また、カトシゲ作品に、正門くんのお芝居に触れる機会がありますように。










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