ひらいて──微笑みかけてみろよ



 そろそろ映画の感想を書いても許されるだろうと誰もが思っているこのインターネット上で、わたしは誰よりも遅い感想を書こうと思います




 愛の狂気は愛自身から沸き上がり、言葉にするよりも早く体が動くため"わがまま"で"向こう見ず"な愛像が目立っているが、劇場と原作を往き来したわたしはこの狂気の根源はたとえにあり、美雪にあるのだと考えている。


 教室を行き来したり、一緒に帰ったり、休みの日に出掛けたり、友達に相手のことを話したりする所謂高校生カップルたる動きがたとえと美雪にはないから、

 愛が美雪に手を出しても怒らないたとえだからこそ、愛が奪える余地がありそうだからこそ、手に入れられない悔しさが狂気になっていったのだろう。



 たとえは美雪が手を"握る"以上の行為に興味を持っているのを知っているだろうか。「触れられる喜び」を美雪に与えるべきは愛だったのか。

 美雪の前だけでにっこりと笑うたとえは、美雪は誰にでも同じ笑顔をすることを知っているだろうか。「一度くらい俺に向かって微笑みかけてみろよ」と言うが、木村愛のいつもの笑顔を向けられたらたとえの心が揺らいだのか。


 たとえが口にした少ない言葉の行間に怒りや困惑があるのは言うまでもないが、愛が言う他人を「嫌っている」ようにも思えなかった。

 皆が集まって鶴を折っているあの教室にすっと溶け込んでいき、愛に頼まれて夜まで残り、クラスメイトに勉強を教えるたとえは本当に他人を嫌っているのだろうか。


 様々に考える余地があるからこそ、ひらいては面白い。原作を読んで理解するシーン──わたしの場合は美雪の勘違いを愛が理解する場面──もあるが愛もたとえも美雪も、多田以外の人が余白を以て人と接するばかりに

たとえと美雪の間にある愛が割って入ろうとした余白を、わたしはこの作品全体に感じている。



 わたしは狡い人間です。本人の意に反して、また作間龍斗くんに綿矢りさ作品が舞い込んでくることを願っています。 酷くて醜い、リアルな女の子達の間で息を潜める作間くんにまた会えますように。










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