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10年経って思うこと

2011年3月11日、当時高校1年生だった私は、東日本大震災のことを忘れないと思う。


震災のちょうど1ヶ月前、精神的に参ってかかりつけの内科で安定剤などを処方してもらっていた。現在まで続くこの病気、きっかけは些細なことだったが、些細なことが積み重なり、頭がパンクしたように記憶している。そんな中舞い込んできた、天災。もしかしたら調子崩す予兆だったのではないかと思うのは思い上がりだろうか。


元来、未来に起こる可能性のある恐怖(雷や地震、戦争など)に異様に怯える性格だった。幼少期には天気がどんよりし始めると雷が鳴らないか心配になり友達そっちのけで窓に張りついたり、道路沿いの家のために車が通るとガタガタっと揺れるのが怖くて耳栓をして寝たり、地震雲や赤すぎる夕焼けなどを見たら大地震が来るのではと異様に怯えたり、北○鮮と戦争になったらどうしようと不安になったり…いっそのこと起きるなら起きてくれ!と、未来に不安を抱きやすい性格ではあった。それも収まってきた高校時代、天災は忘れた頃にやってきた。


最初は「ついに関東大震災が来たのか!?」と思ったが、震源地は東北、私の住んでいる埼玉県は大した被害は無かった。一晩だけ停電があっただけであった。


《余談だが、この頃は病気の不安を振り払うように絵をがむしゃらに描いたり、コロコロ作品(昔は児童漫画家になりたかった)を漁ったり、そんな風にして過ごしていたと思う。》


しかし、そんな中テレビから衝撃の映像が飛び込んでくる。かかりつけ医には「あまり見ない方がいい」と言われていたが、見てしまうのが性だというものではないだろうか。


津波と、原発の爆発である。


帰省していた姉がテレビを見ながら原発の水素爆発(とされていたもの)に対して「うそでしょ?」と言っていたことを鮮明に覚えている。あれは果たして現実だったのだろうか。なんだか、病気もあいまって、離人感というか、映画の中に居るような気がした。


計画停電の対象区域だったため、時々停電を味わいながら、私は高校2年生になって、病気と闘いながら卒業して、ニートを経験して、10年が経った。


24歳にして大学生をやり直すことになった私は、とある漫画と出会う。Twitterのフォロワーさんから教えてもらった『Shrink~精神科医ヨワイ~』という作品である。その中のPTSD編という内容は、災害後PTSDと向き合う内容であった。


その中で私は知らなかったことをたくさん知ることになる。「がんばっぺ福島」という励ましののぼりにすらトラウマ的体験を思い出してしまうこと、福島から来た、それだけでガソリンすら入れてもらえないこと、「賠償金いくら貰ったんだろうな」そんな心無い言葉が突き刺さること…漫画の中のことではあるが、私にとっては衝撃的な内容であった。


この章は患者が無事PTSDを乗り越えることで幕を閉じる。しかし、現実はどうなのだろうか。


私は福祉学科に進学して、来年度からゼミが始まる。社協の取り組みの動画を見てから地域福祉に興味があったこと、地域福祉の授業で震災時の石巻赤十字病院で行われていたトリアージの動画を見たときに、地震の映像に恐怖心を覚えたこと、そして被害の少なかった埼玉県民の私ですら若干トラウマのようになっているなら被災者はどれだけの恐怖を感じたんだろうということから、そういったことを卒論のテーマにしようと考えている。


もう10年も経つのか、というのが素直な感想である。

私達が出来る3.11を忘れないとは、お涙頂戴の映像を流すことでも、南海トラフや首都直下型地震の恐怖に怯えることでもなく、東日本大震災が教えてくれた教訓や防災意識を忘れないこと、そして今も苦しむ人々の心に向き合うことではないだろうか。


過去は変えられない。変えられるのはいつも未来である。そのために私は、私の出来ることをやろうと思う。

#それぞれの10年

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