2018-01-25 考え方の変化

通ってきた道のすべてが愛おしいよ。

でも、若い頃の私を今でも私だと思って愛されることもあるのかなって考えると、恐ろしい。

騙しているみたいで。


考え方の変化

まとめ

19歳頃

「つらさを見つめ、そのしくみやかたちを明らかにして、楽になろう」

現在

「つらさを無視し、頭の中を特に関係のない光で満たし、楽になろう」

以上です。

生きることのできる時間には限りがあるのだから、美しいものをたたえ、美しいものを伝え、美しいものを見つめて過ごしましょう。

年末に部屋の掃除をしていたら古い作品が大量に出てきた。死や遺影、血や刃物をモチーフにした絵、アクセサリー。

古い言葉や絵、制作物は古い考え方に根付いているので、その当時の結論として愛おしいとは思うけれど、若いとも思うので、それがまるで今の私でもあるかのように代表作と言われ続けることは正直しんどい。

デザインは気に入っているので前向きだった時期に新しくピアスを作ったりもしたけれど(私にとってピアスは特別なモチーフで、革命のメタファだ。話が長くなるのでここではカットするが)、その根底にある思想が今の私とは相反することを考えると、若いころの作品はすべて終わりにしてまったく新しい作品だけに注力するべきではないか、とも思う。そして、今でもすばらしいと思う過去の部分は自由にリプレイすれば良いのではないか、過ぎたからと切ることは過去の私を黒歴史にする行為ではないか、とも思う。

私を黒歴史にしないで、という絵を描いたのは19歳の頃だったか。絵を描かなくなってずいぶん経った。

伝わらなきゃ死ぬことがなくなったから。

メンヘラのファッション化が大嫌いで、散々批判したし、同時に救いだった。

私よりは多い友人と私よりは幸福だろうに素敵なお顔素敵なコーデで死にたいを合言葉にして仲間と楽しく笑ってる連中が憎かった。苦しくないのに苦しさをペッティングに使って気持ちよくなろうなんて、「ずるい」から。

同時に、死にたいなんてそのぐらいどうでもいいありふれた普通の話なんだよって言ってくれてるみたいだった。お前は本当はそんなものに縋ってるんだよ、「本当に死にたい私」に。そんなものに縋るなよって。

普通に生まれられなかった私にとって、人生は自分が特別であることを証明するための戦いだった。

特別じゃなかったら、落ちこぼれだから。

でももうそんな必要ないんだよな。学校を一歩出てみたら、狂ってたのは私じゃなくて学校だった。

古い絵は捨てた。もう飾ることはないから。もう見せることはないから。でも、若い私のそばにあって、若い私のそばにいた人が見てきて、それで存在したことの意味は確かにあったんだと思う。

思想が変わったのだから絵も変えたい、と新しい私を紙の上に探している、もう2年ぐらい。見つけろよ!吉祥寺のエイブルアートの店で見た時計の絵にショックを受けて、その模写を延々とやっている。

新しい私をなんとか見つけるでしょう。古い私との付き合い方も、なんとか見つけるでしょう。それまで。

生きてる いのちって最高♪