〔小説〕 猫 (一)
部屋に帰ると猫がシャワーを浴びていた。鍵を探しているあいだ、鼻歌が窓の向こうから聞こえていた。
小さなアパートだから脱衣室なんてない。僅か四畳足らずの板の間が、玄関兼、台所兼脱衣場だ。床に無造作に投げ出されたバスタオル。僕は磨り硝子の扉の向こうへ向けて「ただいま」と声を掛ける。
猫は扉を細く開けて、おかえり、と鳴いた。僕は濡れた猫の頭を撫でてやる。
ネクタイを外しスーツを脱いで、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。何をつくろうか。昨日買っておいたキャベツを、とりあえず刻むことにする。
猫が風呂から出てくる。バスタオルにくるまって、包丁を持つ僕の手元をのぞき込む。
「お腹空いた?」
訊くと、ちいさくうなづいた。
猫がドライヤーを使う音が部屋から聞こえてくる。僕は刻んだ野菜を炒める。なんの変哲もない、野菜炒め。
飲みかけのビールを持って部屋へいくと、猫は炬燵で本を読んでいた。いつか僕が、猫の為に買ってきた画集。黒目の大きな、でも何処を視ているのかつかめない、おんなたちの絵。本屋で目に留まって、猫を思い出したから。
野菜炒めから立ち上る湯気に鼻をひくつかせる。ひとくち頬張り、目を細める。
「美味しい?」
うまい、うまいと、猫はビールを舐めながらぺろりと一皿平らげた。
僕はパソコンをつけて、今日の出来事に目を通す。二本目のビールをあける。空腹を充たした猫は、僕の膝の上で丸くなっている。柔らかな背中を撫でると、ごろごろと喉を鳴らした。やがてそれは、微かな寝息になる。
僕は猫を起こさないように、そっと布団に運ぶ。布団の上に転がされて、猫は寝ぼけたまま全身で伸びをする。
電気を消して、猫のとなりに潜り込む。猫の体に腕をまわす。ふかふかの首筋にキスをする。(了)
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