Cocoに込められた意味―映画『リメンバー・ミー』(原題"Coco")評―

映画『リメンバー・ミー』を公開初日に観た。

事前に公開されたトレーラーの美しさや音楽の素晴らしさもさることながら、なによりあのピクサーが今メキシコを舞台にした作品を作るというところに、大きな期待を寄せていた。

結論から言えば、その期待はまったく裏切られることなく、むしろ大きく上回って余りある映画だった。

主人公ミゲルの家は靴屋。先祖はみな靴職人として働いてきた。ミゲルもまた靴職人の見習いとして靴磨きを行っている。ミゲルの家族は代々靴職人として生計を営んできたことを"Family tradition"と言って誇りに思っている。

しかしミゲルは靴作りよりも音楽が大好きな少年。内側から常にメロディが溢れ、憧れのミュージシャン、デラクルスの映像を真似しながらこっそりギターの練習に勤しむ。

なぜこっそり練習しなければいけないのか。それはミゲルのひいひいおじいさんがかつて音楽の道を選び家族を捨てたことから、ミゲルの家では代々音楽が禁じられてきたからである。演奏はもちろん、聴くことも、楽器に触ることもご法度である。

家族からどんなに反対されても自己の内側から湧き出る衝動を抑えられない、という主人公のあり方は『モアナと伝説の海』に似ている。しかもその衝動が祖先から受け継いだ、自分の血の中に流れるどうしようもない本能だった、というところもよく似ている。(モアナは家族に反対されても海への憧れを抑えられなかった。そしてモアナの海に出たいという衝動は、かつて海を旅しながら船上で生活していた祖先から受け継いだ、抗うことのできないものだったのである)

海へ出てはいけない、音楽に触れてはいけない、という掟は、内に閉じこもるばかりで新しい環境を否定する悪法である。それはまるで、国の周りに壁を築いて他文化との隔たりを作ろうとする、どこかの誰かの政策のようだ。モアナの家族もミゲルの家族も、子を想うがゆえに子供の可能性を阻む過ちを犯していた。それを正し、新たな道を切り拓いていく点で、ミゲルとモアナは同じ使命を背負った主人公と言える。

しかし、先行する世代の誤りを正すことは、決して家族を否定することではない。『リメンバー・ミー』では同時に家族の大切さも描かれる。

昨今のディズニー配給作品では、家族の多様性が描かれることが少なくない。例えばマーベル・コミックを原作とする『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:Vol.2』では、徹底的に血がつながった「だけ」の家族が否定され、信頼関係で結ばれた疑似家族が肯定される。

『リメンバー・ミー』では、何が家族を家族たらしめるのかが描かれる。作中、ミゲルは死後の世界のパーティーでデラクルスの気を引くために "The World Es Mi Familia"というデラクルスの楽曲を歌う。Esは~であるという状態を表すスペイン語。Miは私の。Familiaは家族。訳せば「世界は僕の家族」になる。

死者の国では主に2つのルールが存在する。1つは死者の日に自分の写真が飾られていると生者の世界に渡れること。もう1つは生きている人から忘れられてしまうと、死者の国からも消えてしまうこと。

デラクルスは生前人気スターだったため、今も彼のことを覚えているファンが大勢いる。彼の墓には常に写真が飾られている。死者の日には一人では食べきれないほどの供物が彼に供えられる。

デラクルスにとっての家族とは彼を忘れないでいるすべてのファンだ。血がつながっていなくとも、写真を飾って思い出してくれる存在は、家族なのだ。世界が家族とは、まさしくそういう意味ではないだろうか。

『リメンバー・ミー』における家族とは、単純に血がつながった存在でもなければ、形式だけの"Family tradition"を引き継いでいくことでもない。共通の思い出を忘れず受け継いでいくことが、家族を家族たらしめるのである。

ミゲルの家では、ひいひいおじいさんの思い出が途絶えかけていた。唯一彼のことを覚えていたのは、彼の娘でありミゲルのひいおばあさんにあたるココである。彼女だけが思い出を受け継いでいく架け橋、つまり家族を家族にすることができる存在だった。本作の原題"Coco"は、思い出の継承を象徴しているのである。

エンドロールの最後、メキシコの伝統文化についてもっと知りたければ近くの図書館へ行ってみて、という主旨のメッセージが流れていたと記憶している。本作では死者の日をはじめとするメキシコの文化がリスペクトをもって彩り豊かに描かれている。死者の国へ架かる橋のように、"Coco"は他文化への美しい架け橋になっている。

もちろん、そこに壁はない。


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