保守化する若者、って、私のことかもしれない

最近叫びたいことがない、ということが気がかりだ。
高校生の時、それこそ叫びたいことが体中に溢れかえっていて、「叫べその名を」なんて、青春の縮図みたいな脚本を書いたりもした。
(内容は忘れたけれど、群衆にまぎれた無個性から個を取り戻せ的な内容だった気がする)
学校と家庭という、あまりに狭い世界の中で息苦しさを感じて声をあげたのだけれど、今となっては、思いこみに縛られていたからこそ、あんなことを書いたんだなと実感する。

あの時できないと思ったことは、その実、やろうとしなかったからできなかっただけだ。お金がないから海外留学はできない、お金がないから大学受験はできない、そう思っていたけど、本当にしたいなら、私の場合はなんとかなったと思う。だけど、人生にはたくさんの道が開けていることに、学生の私は気付けなかった。
今は違う。多様な選択肢があることを、やれることがたくさんあることを知っている。

けれど、それに気づいたにも関わらず、いま私がしていることといえば「自分のペースを死守すること」だ。
昔から「マイペースな子」と言われて育ち、
確かに納得しなければ動かないところがあって、そのせいで色々な機会を失ってきたように思っていた。
だから、会社員になってからは、誘われたものにはできるだけ応じ、多くの人と関わろうと決めた。
今でもぼちぼちそれは続けているけれど、無理をした反動か、その後疲れ切っていることが多い。そう、ペースを乱される、時間のコントロールができないというのが、自分にとってかなりのストレスになっているようなのだ。

私は今、自分の手元のささやかなことがとにかく幸せで、学生のときからの友だち、家族、会社の同期やお世話になっている人、彼氏、私の手に届く人たちが幸せで、私も穏やかにいられるなら、それでいいと思っている。できるならこの幸せがずっと続けばいいのに、とも思っている。
でも、私も家族も年をとるし、世の中は変わる。会社も変わる。この変化の時代に、何ができるわけでもない私が、このささやかな暮らしをこのままのんびりと続けられるわけがない。そんな危機感はあるから、積極的に色々な人と関わり、荒波に飛び出していかなければならないとは思うのだが…なかなか行動にうつらないのだ。若者の保守化、などと言われることがあるけれど、まさに私はその層なのかもしれないなと、ふと思ってしまった。

でも、「若者の保守化」と称される事象は、本当に悪いことばかりなんだろうか?
そうでない人の多い環境にいるだけに、罪悪感があるけれど、そこに何か新しい生き方のヒントを見出すことはできないだろうか。
これまでの価値観が通用しない時代に生まれたのは私たちのせいではないし、「お先真っ暗」みたいなことばかり言いたくないので、せめて自分は、自分たちの世代を前向きに見つめていきたい。

#日記

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