今更リア充の定義を考えてみた

リア充の定義って何だろうか。
私はリア充を、誰にでも納得のいくように表現するのは難しいと思っている。
でも、それでもあえて表現するとしたら、
リア充とは「世の中と自分との間に違和感を感じたことのない人」であると思う。

リア充というのは元々、2ちゃんねるのネット民が作り出した言葉だ。自分たちが足りないと思っているものを持っている人、つまりはネットに対しての「リアル」が充実している人を描いた上で、「それがない俺ら」として連帯するための言葉だったのだろう。
でもそのための言葉さえ「非」リア充という、「〇〇ではない」としか言い得なかったところに、自分と「リア充」なるものとを比較する目線の強さを感じるのだ。

そもそも、「足りない」「欠落している」と感じるからには、何かしらの比較対象がある。
自分と周囲の世界との区別がつくようになったとき、何か違う、うまくいかないと感じると、日本のような均質社会では居心地が悪い。加えて空気でものが決まっていくわけだから、その空気に自然になじめないことはデメリットしかない。だから世界との違和感をマイナスに解釈してしまいがちで、違和感はコンプレックスとなり、いわゆる「こじらせた」状態になってしまうのだ。人をそんなに単純に二分できるはずもないのに「リア充・非リア充」二元論に落ち込んでしまうのも、こじらせの一種だ。

一方、自分と世界との間にそういった違和感を感じなかった人は、そもそもそんなことを意識する必要がない。比較するまでもなく、その世界に自分がフィットできているからだ。だからこそ、彼らは自然に集団になじんでいき、時には涙しながらも、それなりに満足感のある人生を送ることができる。
つまり、リア充的な人々は、自分の人生を楽しんでいるかもしれないが、非リア充が思うような「リア充」だと自認しているわけではないのだ。往往にしてリア充的な人々と非リア充とが相容れないのは、リア充的な人々からすると、非リア充は自分たちには認識し得ない問題を抱えて何やら悩んでいる「奇妙な人」に見えるからである。

そう考えていくと、リア充とは世界の認識のしかたのことであり、しかも非リア充が自分自身のコンプレックスの姿をつかむために描いた人物像のため、非リア充の認識の中にしか存在しないことになる。
だから、なろうと思ってなれるものではない。たとえ非リア充が努力してコンプレックスを乗り越えたとしても、リア充になれるわけではない。もっと言えば、一見リア充のように見えても、「非リア充のようにはなりたくない」というモチベーションで動いているとすると、それは所詮非リア充の延長でしかないわけだ。

こんなことを言うのは、努力を否定したいのではない。コンプレックスを克服しようとすると「どこまで頑張ればいいのか問題」に必ずぶち当たるからだ。どんなに頑張ったとしても、コンプレックスと同じベクトルで努力している限り、戦い続けていないと自分に価値を感じられなくなってしまう。
世界の認識のしかたを変えて、終わりのない土俵からは降りてしまう方が建設的なように思える。「〇〇である・〇〇ではない」の二元論から自由になると、人生の選択肢が突如として広がる。もし、リア充と自分とを比較して落ち込んだことが今までにあるなら、それ以外に自分を規定する言葉を自分で見つけてしまうほうが、幸せ感は増すのかもしれない。

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