クイズを挟みながら、ユヴェントスの歴史を振り返る。(1976-1986) #1
Storia di un grande amore
1897年に創設された、イタリア・ピエモンテ州の名門クラブ、ユヴェントス。無敗優勝を成し遂げた2012-13シーズンからセリエAで9連覇を果たし、2015年や2017年にはチャンピオンズリーグ決勝に進出した、欧州屈指の「強豪」として知られるクラブである。
本テキストではそんな「強豪」ユヴェントスが活躍した1976-77シーズンから1985-86シーズンまでの10シーズンについて、クイズを挟みながら、振り返っていく。しかし、なぜ1976-77シーズンからの10シーズンに着目したのか疑問に思う人もいるだろう。
ではここでさっそく最初のクイズ。
答えは今回私がこの10シーズンに着目するきっかけとなったユヴェントスの黄金期を築いた人物、ジョバンニ・トラパットーニである。
選手としては1962-63シーズンと1968-69シーズンの2度、ネレオ・ロッコ監督率いるACミランでビッグイヤー獲得に貢献した名選手で、監督としてはカテナッチョ戦術でユヴェントスに14のタイトルをもたらした、イタリアを代表する名将である。
本テキストではジョバンニ・トラパットーニが監督を務めた10シーズンの間のユヴェントスについて紹介する。
1976-77シーズン セリエA
トラパットーニは1976年7月にユヴェントスの監督に就任した。彼が就任した当初のユヴェントスは、前シーズンのセリエAで2位に輝いたメンバーにアントニオ・カブリーニやロメオ・べネッティ、ロベルト・ボニンセーニャを加え、充実した陣容を誇った。
ではここで当時のユヴェントスのメンバーに関するクイズ。
マリアーノ・デル・フリウリ出身であり、ウディネーゼでキャリアをスタートさせ、マント―ヴァやナポリを経て、ユヴェントスに加入したイタリア屈指の名選手といえばディノ・ゾフ。
当時のユヴェントスはゾフに加えて、アタランタユース出身のガエターノ・シレア、トリポリ出身の名手クラウディオ・ジェンティーレ、ユヴェントスで右サイドバックから中盤にコンバートされたマルコ・タルデッリなど、1982年のワールドカップ決勝でイタリア代表選手として活躍する人物がすでにプレーしていた。
さらにユヴェントスの選手に関するクイズをもう1問。
トリノ出身で、身長は184㎝。1969-70シーズンは、ニルス・リードホルム監督率いるセリエBのヴァレーゼにレンタルされ、同クラブで13ゴールを挙げてセリエA昇格に貢献した。
跳躍能力を生かしたヘディングでの得点や足元も武器であったのはロベルト・ベッテガ。ウンベルト・アニェッリに要請され、1994年から2006年にかけてユヴェントスの副会長をしたことでも知られる人物だ。
ディノ・ゾフやロベルト・ベッテガを擁し、セリエA優勝を期すユヴェントスにとって、1976-77シーズンに最大のライバルとなったのは前シーズンの王者である。
ではここで4問目のクイズ!
1940年代には、「スペルガの悲劇」を迎えるまで、5度のセリエA優勝を果たした名門であり、ユヴェントスとは「ダービー・デッラ・モーレ」を繰り広げることでも知られるクラブ。
答えはトリノFC(当時はACトリノ)である。ジュゼッペ・フリーノがキャプテンを務めるユヴェントスにとって、トリノにいかに勝利するかが2シーズンぶりの優勝を目指すうえでの課題であった。
ユヴェントスは1976-77シーズンの第1節、スタディオ・オリンピコでのラツィオ戦に勝利してからセリエAで7連勝し、好調なスタートを切る。そして第8節で対戦することとなるのがトリノである。
1976 年12月5日にコムナーレで行われた「ダービー・デッラ・モーレ」ではクラウディオ・サラが獲得したフリーキックをグラッツィアーニが頭で合わせて先制する。後半にはパオロ・プリシが浮き球を押し込み、無失点に抑えたトリノが首位攻防戦を制した。
ユヴェントスはそこから3節にわたってトリノに首位の座を明け渡すも、第12節のナポリ戦に勝利して再び首位に返り咲く。
3-1で敗北した第14節やジェノヴァと引き分けた第17節には再び首位の座を明け渡すも、第18節のフォッジャ戦で勝利を挙げて以降、5節にわたって首位の座を守った。
ここで5問目のクイズ!
選手としてはACミランで活躍したニルス・リードホルム監督のもと、アゴスティーノ・ディ・バルトロメイやブルーノ・コンティを擁して、のちにユヴェントスとタイトルを争うことになるクラブといえば、ASローマである。
そして迎えた第23節、ふたたびコムナーレでの首位攻防戦となったトリノ戦。この試合では、試合開始後6分にロベルト・ボニンセーニャのアシストからフランコ・カウジオが得点し、ユヴェントスが先制する。しかし2分後に単独で持ち込んだパオロ・プリシが同点弾を挙げ、トリノも追い上げる。同点になって以降は両クラブの選手の好守もあって、同点のまま試合が終わり、ユヴェントスは首位の座を維持することとなった。
残りの7試合では、ペルージャ戦での引き分けを含む6勝1分けでユヴェントスが首位の座を明け渡さなかった。トラパットーニ監督率いるユヴェントスは51の勝ち点を挙げ、勝ち点差1の僅差でのタイトルレースを制し、クラブにとって2シーズンぶり、通算17度目となるセリエA優勝を果たした。
1976-77シーズン UEFAカップ
前年度2位であったユヴェントスは、1976-77シーズンにUEFAカップにも出場した。64チームが争うホーム&アウェー方式のリーグ戦で、決勝までに5クラブに勝利する必要がある。
ではここで6問目のクイズ!
既述の選手以外にもデニス・トゥアートやジョー・コリガン、コリン・ベルなどがプレーし、メイン・ロードを本拠地としたクラブといえばマンチェスターシティ。ユヴェントスはアウェーでの初戦では負けたものの、コムナーレでの2戦目ではシレアとボニンセーニャの得点で勝利し、次のラウンドへと歩を進めた。
2回戦の相手はシティと同じ都市をホームタウンとするマンチェスターユナイテッド。ゴードン・アレック・ヒルの決勝点で敗れるも、2戦目でボニンセーニャの2ゴールの活躍もあり、レッド・デビルズに勝利した。
3回戦の相手は当時ソヴィエト・トップ・リーグに所属したシャフタール・ドネツク。ユヴェントスは本拠地コムナーレでの初戦で3-0と圧勝し、ドネツクで行われたアウェー戦では1-0で敗れるも、準々決勝進出を決めた。
マクデブルグと対戦したUEFAカップ準決勝ではアウェーとホームの両試合で先制点を挙げたアントネッロ・クックレドゥの活躍もあり、ユルゲン・シュパルヴァッサー擁する対戦相手に勝利した。
準決勝の対戦相手はギリシャの雄・AEKアテネ。コムナーレで行われた初戦では再びクックレドゥが先制点を挙げるなどの活躍もあり、4ゴールを挙げたユヴェントスが勝利した。アウェーのAEKスタジアムで行われた第2戦でもユヴェントスが0-1で勝利し、決勝にコマを進めた。
ではここで7問目のクイズ!
ホセ・アンヘル・イリバルが活躍した、サン・マメスを本拠地とするクラブといえば、もちろんアスレティック・クルブ。当時のアスレティック・クルブではのちに「スーペルデポル」の監督を務めることとなるハビエル・イルレッタも選手としてプレーしていた。
コムナーレで行われたアスレティック・クルブとの初戦では右サイドからのクロスにタルデッリが頭で合わせ、イリバルの頭上を越えて決勝ゴールが決まり、ユヴェントスが先勝した。
ビルバオのサン・マメスで行われた第2戦では、7分にタルデッリが挙げたクロスにロベルト・ベッテガが頭で合わせてユヴェントスが先制。11分にハビエル・イルレッタがボールを押し込み、79分にはセットプレーからカルロスがアスレティック・クルブの同点弾を挙げるも、アウェーゴール差でユヴェントスが勝利した。
ジョバンニ・トラパットーニはユヴェントス就任初シーズンであった1976-77シーズンにセリエA優勝とUEFAカップ優勝の2冠を達成した。コッパ・イタリアでは第2ラウンドでインテルに敗れてしまったものの、その後10シーズン率いることとなる同監督にとっての最高の船出となった。
おわりに
もう少し短くまとめるつもりだったのですが、想像以上に長くなってしまったので、これ以降のシーズンは何回かに分けて出していきます。読んでいただきありがとうございました。
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