八重の桜 八重と尚之助の結びつき。

今更だけど、八重の桜をみている。

これ結構考えさせられる。
内戦経験者になんでキリスト教が浸透するのか、とか。
八重の生き方って、女が戦争にどうやって関わっていくのかということに触れすぎていて危ういなと。八重が少年兵を率いて内戦に出るという要素は、ベトナム戦争以降の、市民戦やら、女性兵士の問題を考えさせられる。それに、身内の男性の死を家族愛と結びつけ、家族愛や愛郷心によって純粋に戦争に女子供が駆り立てられるという構図を疑問なくドラマにしちゃってるけどいいのかなあ、これ、とか。会津戦において、城下の武士階級の女が自決したのも、それが国民全体に適用された物語が沖縄の女たちなんだろうし、八重が国民国家における女性が、どのように戦争に関わっていくのかということを作ってしまった明治以降の、看護婦として戦争に女性を関わらせる国家体制を構築していった責任があったと思うし(だからこその叙勲だろうし)、ここに問題提起なくドラマにしてしまっていいのか、という気持ちにさせられる。
維新後のキリスト教との出会いにおける、内戦の傷をキリストの教えによって自己救済する、というストーリーは理解できるのだが、受洗後に日赤で看護を、という流れがどうしても気に入らなくてモヤモヤ。受洗しちゃったから当時の女子教育には関われなかったのかもしれんが、そこがどうしても引っかかる。まだ三十話くらいまでしか見てないのでこの後をドラマがどう描いているか見てみないことにはちょっとなんとも言えんけど、第二次大戦期の日赤の看護婦の戦場の送り出し方ってそれこそ軍事的な流れなので、彼女の生涯だけ見ていれば、女の戦争責任を考える、その最初期の人という気がする。あと、穿ち過ぎかもしれんが、福島の原発臨界直後に急遽放映が決まってるのも鑑みて、もし会津戦争位後の新政府による会津冷遇の流れがなかったら、原発は果たして福島に作られていたのだろうか、とか。
この番組、視聴率悪かったのもわからんでもないのだよなあ。現代的課題に触れすぎていて。福島出身の、家老役の西田敏行の「これでは会津が、、、!」というのは、どうしても今の福島につながる悲鳴のように聞こえてしまう。

長谷川博己のファミリーヒストリーを見てからどうも長谷川ブームなので長谷川さんばかりを目で追ってしまうが(顔が好みなのよ。あと尚之助の人格が好き。)、八重と最初の旦那さんである長谷川演じる川崎尚之助さんって、くっつくべくくっついてそして別れたというか、そんな感じがしてこの二人は見ていて切ない。八重と尚之助って、どうも男女の性愛の関係性というよりも、覚馬(八重が敬愛する兄。象山塾において尚之助と覚馬は思想的に濃厚な結びつきを得る)を紐帯として成立できた夫婦という気がする。覚馬を経由して見ていた互いの夢が見られなくなった時に、もう一緒にいる理由がなくなったという感じがするのだよな。近代化された軍備を行う研究環境を覚馬は尚之助に与えたし、八重は家芸である鉄砲と共に生きる道として尚之助が必要だったし。
ドラマでは、会津戦争後、米の詐欺の引責で尚之助は八重を離縁する。ドラマでの八重と庄之助の描き方は、私結構好きなんだよな。
八重は、「あの人はいつも勝手で一方的」というけれど、配偶者に断りなく、自分の生き方を決めちゃう勝手さは内戦にゲリラ的に参戦し、猪苗代について行こうとした八重も一緒なんだよな。維新後、二人は東京で再開するも、藩の米の買い付けに絡む詐欺の被告として裁判中の尚之助は、すでに京都で自立した生活と仕事を有している八重の復縁を跳ね除ける。この二人の関係性って、元々男女の情愛がベースなんじゃなくて、互いの人生の目的が合致して、それを最大に活かすための結びつきの上に立っていた情愛だったから、互いへの尊敬心がありながらも別々の人生を、相手の存在だけ感じながら別に生きるというのがベストだったんかなと思う。男女間のケアの相手としてだけだったら、互いに別々にいた方が、自分の人生を生きられた気がする。肺病抱えて長屋で寺子屋やりながら、近所の人の世話になりつつ書き物をして一人で生きた尚之助の最期の時間って、結構しあわせだったんじゃないのかな。
オダギリジョー演じる新島襄との関係性は、この後ゆっくりと見てみようっと。
しかし尚之助さんいいな。理知的で自分の限界を知る男って好きよ。#八重の桜 #長谷川博己博己

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