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3. 心は自由に

あれダメ、これダメ。現代社会は、なにかと制約が多い。羽目を外すにしても、その加減を間違えると大火傷しかねない。最近特に、不寛容の時代と呼ばれるそうだけど…。実は、昔からずっとそうだった気がする。ネット社会になって、些細なことも表面化し悪目立ちしてしまう。
まぁ、世の中がルールだらけなのは仕方がない。なにもかも自由では、集団生活は成り立たない。国を維持する法律はもちろん、学校や地域社会にも様々なルールがある。交通ルールもそうだ。基本的には、その制約の範囲内で自由が保障されている。

ルールとは違うけれど、僕らを縛る価値観がある。たとえば、将来を考えるような時期になると感じる窮屈さ。おそらくそれは“常識”という価値観。ああなりたい、こうしたい。夢を口にすると周囲の大人達は妙に現実路線を求めてくる。
「なにを夢みたいなこと言ってるんだ!」
あれ? おかしいな。そもそも夢を語っていたんだけれど…。
やっかいなのは、その小言にもそれなりに説得力があること。意志が強くないと、安易に流されてしまう。

幼少期の夢は、じきに不可能だと気づく。僕は、光速エスパーというヒーローになりたいってやつだったな。少し年齢が上がり、夢はより現実的なものに変わってくる。電車の運転手や消防士。保育士や看護師など職業であることが多いね。テレビや漫画の中のヒーローが身近なところに存在するヒーローに変わる。どちらにしても特別な存在への憧れなんだろうね。面白い。
夢という曖昧なものは、その本気度に応じて目標へと具体性を帯びる。周囲の大人達は常識と照らし合わせて、温かく見守ってくれたり修正を求めたり。何も言わずすべてを受け入れてくれる大人は少ないかもしれない。大人はかつて自分が通ってきた道だから、ある程度結末が予測できるんだろうね。少々口うるさいと感じることも、けっして悪意じゃないってのは、わかっているつもりだ。

応援してもらえるものと、そうでないもの。この違いは、なぜ起こるのか。「現実を見なさい!」と入る横槍。平穏な人生を望む親や確実なキャリアアップを願う学校。たとえば僕がカメラマンになりたいと言ったとき、やはり周囲の大人は、反対こそしなかったけれど手放しで賛成という感じではなかった。時代的には十分現実感のある夢だと思うのだけど、なにか全面的支持という雰囲気でもなかった。何故だろう?
多くの場合 “社会に出る=企業に就職” が常識と考えている。大多数が歩む道と違えば、簡単に良し悪しの判断ができない。親も学校も、その領域の実状を知らないのだ。判断する材料を持ち合わせていないから、すんなり賛成とはいかないのだろう。これはこれで仕方がないところだ。
アーティストや芸能人の子供が親と同じ道を歩むケースが多い。それは、その親にとってはリアリティがあり、いわゆる良く知っている道だからだ。つまり彼らにとっては常識の範囲内ということなんだと思う。

親が死んでからも自分自身の人生は続く。どんな反対にあおうが、最終的には自分自身の心の声に従って行き先を決めて欲しい。明解な根拠無しに、希望を封印する必要はない。もし、上手く叶わなかったとしてもチャレンジしてみる意味はあるはずだ。目指すという経験は、必ずどんな場面でも役立ってくれる。
将来、もし心に抱いた夢が少し非常識なものだったなら、常識と同レベルになるまで、そのことをとことん調べつくしたらいい。周囲の大人を説得できるだけの言葉を持つには、知見を積み上げること。またその行動は、真剣さとして伝わるものだ。

広げた大風呂敷に中味を詰めていく作業。これも、まさに人生っということだと思う。制約だらけの世の中だけど、せめて心の中は自由であって欲しい。

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