見出し画像

「カムバック・マイ・フューチャー」というMVを視聴した

ファンタジーをファンタジーで終わらせたくない」という病を抱えた者の独自解釈です。自分宛の記事。

buzzG feat. 夏代孝明の新名義 "Akisame" のMVが2019年8月4日、すなわち本日に公開されました。

 この楽曲にはストーリーがあって、「妙に飛行機に詳しいおじいちゃんと一緒に飛行機を作っていたら、実はおじいちゃんは未来から来た自分で、事故で飛行機乗りを諦めた日の自分を止めるために50年後から遡ってきていたのでした」という話。

流星が落ちてきてその炎を鎮火したらおじいちゃんが出てきたり、おじいちゃんは当の事故の日まで記憶を失くしていたり、直前に気付いたけど事故を止めることは結局できなかったり、とか色々あって、
事故後の病床で飛行機を諦めようとする自分を引き留めて「飛行機乗りを諦めない世界線に移行する」という話。

タイムパラドックスを世界線の移動と置き換えている一見ご都合な話です。
夢を諦めた50年後の自分が過去に干渉して諦めない時間に巻き戻るなんて流石にチートすぎるでしょ。って正直思いました。

ただ、個人的には真逆の意味があったように思えた次第です。

と言うのも、MVのラストの歌詞のシーンから「飛行機に憧れた頃の自分」が再び登場したり、

(サムネイルですね。かわいい)

"Comeback My Future"のロゴが最後に登場するシーンでは、3人が横に並びつつ2人が消えていき、最後に「事故直後の自分だけが残る」。
彼は胸に手を当てて、2人は中央の彼に迫りながら薄れていきます。まるで「彼の中に二人が宿る」みたいに。

中央の彼が一瞬光り輝いて、二人が消えていきます

で、アウトロではその自分が再び飛行機の案を描き始めている……というところで曲が終了します。

モノクロに戻るのは「初心に戻る」の意味なのかなあ、と思ったり……

いささか妄想が過ぎるとは思いますが、
「未来から来た50年後の自分と一緒に飛行機を作る」なんていうのは全部空想で、
「もし50年後、飛行機乗りを諦めた自分が戻ってきたらなんて言うだろう」
「もし飛行機乗りに憧れた頃の自分が、もう一度飛行機乗りを目指す自分を見たらどんな顔をするだろう」
これを想像した結果「やっぱり諦めちゃダメだ」と結論付けて、もう一度飛行機乗りとしての道を歩みだした、という話なんじゃないかと。

だって50年後の自分が少年の自分にきっかけを与えるなんてご都合が過ぎるというか、原動力までもがタイムパラドックスになってしまったら、「この熱意は誰から始まった?何から始まった?」という話になるじゃないですか。
未来の自分が人生の始まりさえ書き換えてしまうのはSFでもご法度が過ぎるでしょう。

「だからこのMVの物語はクソだ」「ファンタジーはファンタジーで現実に応用性なんてない。ただの物語だ」ともし言われたら僕はたぶん怒ります。
現実に応用性がないから物語に価値がないなんて言われたらブチ切れます。構成がご法度だからクソだと言われたらこういう解釈はどうですかって言います。

たぶんこんな強い語気で言ってしまうのは、ふとした時に「創作に意味なんてあるのか?」と考えてしまう自分に、このMVの50年後のおじいちゃんみたいに否を突きつけたいからなんだと思う。
あとは、一瞬「この話に意味ある?」って思った後に「もしかしたらこういうことかも」と考えを改めさせてくれる話が好きなのかも。

話を戻すと、
MVは少年が飛行機の翼を描き始めるところから始まります。彼が憧れを抱いたのも未来の自分が起こしたことでしょうか。それはたぶん違う。彼は自分の意志で飛行機乗りにまで行き着いた。たぶん「50年後の自分」の手助けなんて借りないで。そんな人は存在しなくても彼はそこまで歩めた。
ただ、事故というかなり大きな挫折を味わって、彼はきっと架空の自分を想像した。
「もしここから50年間、飛行機乗りを諦めた自分はどんな思いをするだろうか」
「もし始まりの自分が今の自分を見たら、どんな態度を取るだろうか」

「50年後の自分だったらタイムリープしてまで止めに来るだろうな。こんな展開で」ということをあまりにリアルに想像したから、MVでは物語として描写されただけで、
実際にはこのMVの中で現実に起こっていることは「飛行機乗りに憧れた始まりの自分」と「病床でもう一度飛行機の絵を描き始める自分」しかないんじゃないかと。思います。

「50年後から遡ってきた 取り戻すための世界線 それが現在の僕らだよ」
なんだか語り聞かせるようなこの歌詞は、「挫折を味わっている今が分岐点だよ」「50年後の自分が挫折を止める様を想像してごらん。過去の自分の表情を想像してごらん。その二人の意志が宿っているのが今の君だよ」と言っているように聞こえます。

大きな夢がある人間って言うのは、諦めて50年間関係のない人生を歩んだとしてもずっとその夢を諦められずずっと摩耗するもんだと思いますし、
50年後の自分をイメージしてもその様がありありと想像できる人だと思います。

だから夢を諦めそうな人。
摩耗して「現実を見よう」なんて言葉で本心をごまかそうとする人。
50年後の自分を想像してみなよ。
「現実を見る」のは、ここで諦めることと諦めないことのどっちなの?

と自分に言い聞かせながら、なんか色々諦めそうな時にこのMVを見返したい所存です。本心を見つめるのも現実を見ることと同義だと思います。だってどんなに客観的に輝かしい現実を築いていても夢を諦めた事実からの精神崩壊で全部台無しじゃないですか。現実を見てください。あなたは夢を叶えるしか幸せになる方法がないんです。だから諦めて生きるなんてバカな時間を過ごさないでとっとと夢への時間に戻ってくださいね。っていう。
本心でそう思わない人は全然それでいいと思うんですが、僕は本心でそう思うので、だからこのMVと自分の解釈がリンクしてしまった次第です。彼みたいに自分の本心と向き合ってもう一度夢に立ち向かえるくらい強い人でありたいと思う。

あとは少年が再登場するシーンの「過去の君も連れて行こうぜ」という歌詞がめちゃくちゃ好きです。いやもちろん、それ以外の歌詞の「火が付かないまま溶けていった蝋燭」意味とか「分不相応な絵空事が焦がした分だけ宿るなら」とかの比喩もめちゃくちゃハイレベルな歌詞ですげえ大好きって思うんですが。

ふとした時幼い自分や拙い自分を捨ててしまいがちですが、最初の熱意も一緒に捨ててしまったら、夢を諦め摩耗した50年後の自分しか残らないっていうことで。
だから過去の自分と未来の自分を取り込んで生きていこう、だって現実に人生は一度きりしかないんだから。そういうSFなんじゃないでしょうか。



お読みいただきありがとうございます。
普段は歌詞の和訳に自分の解釈を載せる活動をしたり自分でも音楽活動したくて唸ってます。よろしければ他の記事等からそちらもどうぞ。