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【東京巻き込み育児 #最終回】 東京生活5年目で経験した「3.11」

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■ 東京で体験した、東北大震災


東京生活も5年目に突入した2011年。
長女と次女が通う幼稚園を、夫と私はとても気に入っていました。三女も同じ幼稚園に通い、姉達と同じ行事をこなし、姉達と同じ季節の歌を歌い、姉達と同じように色んな経験をさせてもらえるのだろう。何の疑いも無く、そう思っていました。

そんな私たちの思いと、その土地との結びつきの強さを表すように、私たちは幼稚園のほど近くにいい土地を見つけました。そこを購入して、家を建てることになったのです。

そして次女の卒園式を目前にした3月11日、東日本大震災が起こりました。

■ すぐに屋内退避したわが家と、周りとのギャップ


震災直後は情報がメールで飛び交いました。

テレビで一瞬見た原発の爆発映像に違和感を覚えた私達は、子ども達と家の中に閉じこもりました。正しい情報は後から出てくるはず。直後の今は気をつけるにこしたことはない……という慎重な考えで行動したのです。

もしかしたらここ東京も、非常に危険な可能性があることを幼稚園のママ友数人に流したところ、

「混乱する情報は送らないほうがいい」
「卒園間近で友だちと遊べない子どもの気持ちを考えては」

などの反応が返ってきました。

ほとんどの人が、あの非常事態の最中に“普段通りに行動すること”を選択したのです。

東京でも、震源地に近い場所、津波の被害にあった場所へ、支援に行くチームや、計画などが組まれていました。「被災地へ行く」「被災者の人の気持ちを考えて」などの文言が、ぞっとするほど、薄っぺらく、ウソくさく思えます。

じっとこもりつつ、慌しく動く周りの人々を観察しながら、私はこんな風に思っていました。小さな子を3人抱え、シロウトには難しすぎる判断を迫られている、今の私たちだって、立派な被災者だ、と。

そんな風に私は、孤独と、出口が見えない不安、そして何より、子ども達の健康を脅かす恐ろしい存在を感じていました。その存在が実際に存在していたかどうかは、問題では在りません。そのとき私が感じたこと、それは正誤に関わらず、その感覚こそが私にとっての真実でした。


■ 一路、西へ

震災後初の出勤日である月曜日、テレビを観ていた私は、唖然としました。画面に写っていたのは、計画停電による電車運行ダイヤの混乱で、出勤するために行列を為す人々の映像でした。

こんな事態になってもなお、この国では普段どおりに会社へ行かせられるのだ。その事実に心から驚きました。

その後、結局私達は、なんとかガソリンを補充し、東京から一路、西へ向かうことにしました。当時はガソリンが制限され、ガソリンスタンドは連日行列が出来ていたのです。

東京から西へ向うルートは、山側と海側があります。わたしたちはなんとなく山側を選びました。すると車中で聞いていたラジオは、なんと、海側のルートが通行止めになったと告げたのです。私は夫と顔を見合わせました。海側を選んでいたら、東京へ戻らざるを得なかった・・・。

ホッとする間もなく、今度は山側のルート、私たちが通り過ぎた箇所が、次々と通行止めになった知らせを、ラジオは淡々と流しました。このとき私の脳裏には、漫画のような絵が浮かんでいました。必死に走るキャラクターの、足元からどんどんガラガラと崖が崩れ落ちるような絵です。

もう少し出発が遅ければ、やはりこの山側のルートも、西への道を断たれていたということになります。「事実は小説より奇なり」という言葉が、頭の中をぐるぐると回っていました。

まだ寒い3月、毛布とタオルケットにくるまった3姉妹は、後部座席でそれぞれのチャイルドシートに身を沈め、寝息を立てています。子ども達のひそやかな息づかいは、不安漂う暗闇に存在する確かなものとして、どこか安心感を覚えました。

■ 京都で迎えた、卒園式当日


事故直後、私の脳裏に浮かんだのはチェルノブイリ原発事故でした。

遠い国で起きたその事故の影響はどんなものなのか。原発事故が起きた国のその後、子ども達はどうなるのか。知り合いも親戚もいない西日本を転々としながら、私はインターネットを検索しない日はありませんでした。そして調べれば調べるほど、恐ろしい結末と、まだ渦中の人々の情報が、次々に出てきます。さらにチェルノブイリ原発のそれと、福島第一原発の事故は、全く規模が違うのです。福島のほうが、段違いに深刻でした。

そんな状態でしたので、卒園式当日を迎えても、東京へ帰る決心はつきません。

次女に「卒園式だけど、東京には戻らないほうがいいと思うんだけど、いい?」と聞くと、次女は「いいよ」と二つ返事。旅行気分でアッサリしたものです。

私だけがメソメソと泣きながら、次女に園服を着てもらい、その日は事あるごとに涙が溢れました。

幼稚園での様々な出来事が思い浮かびます。ほぼいつもイライラして怒鳴っていた孤育て環境から救ってくれたのは、幼稚園のママ友達です。幼稚園の空気そのものです。
その彼女達から、非難の目を向けられているという事実は、私をひどく苦しめました。卒園式に出たくないわけがありません。今でもその日を思い出すと、胸がぎゅっと苦しくなります。

■ 震災と原発事故が残した爪跡

日本は基本的に、朱に交わらない人間の行動に対して、深く傷ついてしまう繊細な人たちで構成されていると思います。その事実を私は、このとき身をもって体験しました。

私達は大人になると、自分達が最善と考える方に向かって、次の一歩をどこに置くか決断する機会がいくつも訪れます。自分と家族を守る為の一歩です。たとえそれが、誰かを傷つける決断だとしても。

一度踏み出した場所からは、元の場所には戻れません。消えてしまった街は、もう二度と現れません。

発してしまった言葉は、人々の記憶から完全に拭い去ることはできません。

そんなせつない責任を負って決断した人々が、実はあの頃、たくさんいたはずです。人間関係がめちゃくちゃになってしまった人々も、少なくないでしょう。

当時は声を潜めていた、そのような人々の思いを、少しずつ聞かせて頂き、文字にしたいという夢が、私の中に芽生えています。
そんな風に、5年かけて育んだ東京での人間関係がもろくも崩れ去った後、私達を待っていたのは、夫の仕事の都合による、シンガポールへの移住話でした。


東京と言う、お世辞にも子育てしやすいとは言えない環境で生き抜くために、タフな精神と、共感し合うことの出来る仲間は、命綱のようなものです。

横の繋がりが希薄な環境で、どれだけ繋がりを作ることが出来るか。それは、特に子どもがまだ小さい頃は、都市部、核家族で子育てする方に必須なスキルです。

が、たとえそれを得られたとしても、その繋がりは永遠ではないのだということを、私は震災で知ることになりました。その悲しい事実は皮肉なことに、私が東京で培ったタフさを、より強く頑丈に鍛え上げてくれたと思っています。


■おわりに。

東京巻き込み育児はこれで終わりとなります。
連載を続ける中で、多くの感想を頂きました。一人でも多くの方が、この連載で前向きな気持ちになって下さったら、こんなに嬉しいことはありません。

また、この連載は、note掲載に際して、加筆されています。特にこの最終回は、大幅に加筆しました。皆さんの中で、私と同じように、東京で震災を経験した方々の、体験談を本にしたいと思っています。体験談を聞かせてくださる方は、是非ミカまでご連絡頂けますと、とても嬉しいです。

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