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『龍馬史』ノート

磯田道史著
文春文庫
 
 私は学生時代を含め11年ほど、長崎に住んでいた。観光地として有名な南山手にある日本最古の洋風建築であるグラバー邸はイギリス貿易商のトマス・グラバーが建てたものであるが、このグラバーが坂本龍馬と商売上も含め交流があったのを知ったのは学生時代であった。
 日本で初の商社である「亀山社中」(正式には「社中」。亀山に本拠を置いたので「亀山社中」と一般に呼ばれている。後の土佐海援隊)を設立したのも長崎の地である。伊良林町にある「亀山社中の跡」の地には、いま長崎市が建てた「亀山社中記念館」がある。
 
 風頭公園には長崎の町並みと長崎湾を見おろすように袴姿でブーツを履いた龍馬像が建っている。長崎丸山にいまもある創業380年の史跡料亭「花月」は、勝海舟や坂本龍馬、岩崎弥太郎などが訪れた有名な料亭であるが、ここの2階の大広間「竜の間」には、龍馬が酔ってふざけて切りつけたと言われる刀傷が今も床柱に残っている。また龍馬直筆の「イカルス号事件嘆願書」の下書きが所蔵されている。この丸山の入口にも龍馬像が建っている。
 ほかに「龍馬通り」と名付けられた坂道もある。寺町通りにある深崇寺と禅林寺の間から亀山社中跡を経て、風頭公園へと続く石段まじりの細い坂道で、龍馬をはじめとした亀山社中の同志達がいつもこの坂道を上り下りしていたという。(思わず長崎の観光案内になってしまった。)
 
 5月の連休に京都に行った。その目的のひとつは、坂本龍馬終焉の地を訪れることにあった。龍馬は慶応3(1867)年11月15日、33歳の時に京都の醤油商「近江屋」の二階で中岡慎太郎と歓談中に、京都見廻組に暗殺される。犯人は、これまで新選組ではないかとか、薩摩藩や紀州藩や土佐藩の黒幕説があったが、この本で磯田道史は、坂本龍馬自筆の139通の手紙という一次史料をまず読み解くことからはじめ、最初に龍馬が襲われた「寺田屋事件」や、見廻組の武士たちの証言、龍馬を巡る政治状況や襲撃の動機の観点からそれまでの通説を論理的に否定し、坂本らを襲ったのは会津藩が務めていた京都守護職配下の京都見廻組であると論証しており、襲撃の実行犯(複数)の氏名も特定している。
 
 坂本龍馬とはどんな人物だったのか。これまで多くの書物で触れられているものと重複するかも知れないが、あらためて『龍馬史』を繙いてみよう。
 
 龍馬の実家は郷士株を取得して商人から下級武士になった家柄で、商人といっても豪商であり、龍馬は500坪もの豪邸に住んでいた。しかし、江戸に剣術修行に出たときに、仮寓した土佐藩の下屋敷で、代々の武士である上士とは歴然たる身分の差があることに龍馬は愕然とする。
 当時、郷士の身分で武士として名をなすには剣術か学問に秀でている必要があり、龍馬は江戸に二度も剣術修行に行く動機はそこにあったようだ。
 また龍馬は筆まめで、父親や姉の乙女宛を含め現在139通もの手紙が残っている。家族宛の手紙には、自分の最近の動向や活動の内容、自分が知りえた政情の内幕などを書き留めている。手紙に、今どこにいて何をしようとしているかを書いてしまうので、居場所が敵に簡単に知られることになったのだと磯田はいう。
 妻となったお龍(おりょう)と日本初の新婚旅行をしており、この旅行の様子を姉の乙女宛絵入りの手紙を書き残している。それほど筆まめであった。
 
 龍馬は、運が良いから自分だけは死なないと過信していた。その根拠なき自信のもと、無防備な人生を送ってしまう。龍馬の最大の長所であり、欠点だろう。それらが剣術に秀でた龍馬が簡単に謀殺される遠因となった。
 また龍馬の人柄は公明正大で明るく、人をすぐ信用する警戒心のなさや開けっぴろげな無邪気さと行動力が龍馬の人並み外れた求心力と敵味方を超えた豊富な人脈づくりを可能にした。友人たちは、龍馬は一見粗暴にみえるが繊細で優しく、気遣いの人であったという。
 
 実家が豪商であったので、武士に対しても臆せず、商取引や金銭への忌避感がなかった例として、海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が紀州藩の「明光丸」と衝突して沈没した事件を挙げている。
 徳川御三家の一つの紀州藩相手に龍馬は賠償交渉をする。交渉は長崎の聖福寺で行われた。龍馬は万国公法を持ち出し、「国際法では自分達が正しい」と主張し、御三家として体面を重んじる紀州藩から多額の賠償金を巻き上げる。それも積み荷を偽って現金を何万両も積んでいたと主張し、8万両(現在の価値に換算すると240億円。後に7万両に減額)をせしめるというタフネゴシエーターの面も見せる。
 
 龍馬は、勝海舟との出会いから「海運立国・海軍立国」に目覚め、浪人の身分にもかかわらず、巨額の費用(薩摩藩が拠出)がかかる軍艦を手配して、「坂本海軍」(亀山社中)を創設し、商社のような形態に発展させるとともに、長幕戦争では戦争の請負までするなど先見性があった。
 有名な「船中八策」やそれに続く「新政府綱領八策」などで、幕藩体制をこえて近代的な新しい政権の枠組みの構想などを描く周到な戦略家でもあった。河田小龍によって世界を知り、勝海舟によって海軍を知り、横井小楠によって将軍なき政治形態を知ることになる。それが結実したのが「新政府綱領八策」であったといえる。
 龍馬は戦略家であるとともに、物事を自ら果敢に実行する実践家としての側面もあり、平和裡に大政奉還を進める一方で、武力での倒幕も覚悟していたと磯田はみる。龍馬は単純な平和論者ではなく、時代の大変革の過程では、ある程度の犠牲はやむを得ないというリアリストでもあったのである。
 
 磯田道史が坂本龍馬の一生を通して、幕末の体系的な歴史を描いているという意味で、この本を『龍馬史』と名付けたのがいい。

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