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『廃市』ノート

福永武彦著

小学館刊


 書店で久しぶりに福永武彦の名前を見つけた。戦時下の青春を描いた『草の花』や、男女間の苦悩と本質を描いた『死の島』や『海市』などを随分前に読んだことがある。

 本を見つけたときに装丁を変えた『海市』なのかなと思って手に取ってよく見ると『廃市』であった。奥付をみたら初版が2017(平成29)年7月16日となっている。福永武彦は随分前に亡くなったはずだが、と思いながら、著者の「後記」(単行本では珍しい)があったので読んだ。日付は昭和35年6月となっている。

 元の版は1960(昭和35)年に新潮社から刊行されていることが分かり、合点がいった。別の出版社からの復刊本であった。

「廃市」を読み進めていて、そこに描かれている町中を網の目のように流れる大小の掘割や堀沿いの白壁の蔵、風にしなう柳の枝などの風景や空気感から、筆者の母親の生まれ故郷の水郷柳川を思い描いていた。本作を読み終えて、この短文を読んでやはりそうだったのかと思った。

「廃市」のあとに「筑後柳河――作者の言葉」という女性雑誌に寄稿した作者の短文が収録されていた。作者は福岡県出身ということは知っていたが、柳川市には行ったことがないそうだ。作者は次のように書いている。

「作者の知らない町を舞台にした小説が、作者の知らないうちに、あれは柳河を書いたものだと言われるようになったのは、作者にとってこの上もない名誉」だと。

  表題作の「廃市」は、大学生である主人公が卒業論文に専念するために、叔父から九州のある町の旧家を紹介され、そこでひと夏を過ごしたときの物語だ。それも、たまたまその町の街並みがほとんど焼けたという記事を読んで、10年前の霧の滲んだような記憶の底にある一つの鮮烈な出来事を思い出す。

  その町は、掘割の多い田舎の町だった。主人公は、あらかじめ手紙で先方の意向を聞いていたのだが、その昔風の大きな家屋を見たときは足がすくんだ。

 名前を通じると、若い女性が出てきて、すぐに離れのような二階の部屋をあてがわれた。縁側から庭を見下ろすと川が流れていた。

 主人公がその家に着いた夜のこと。傍を流れる川の緩やかな音は気にならなかったのだが、枕に付いてからはそれが途方もなく大きく聞こえはじめ、夜が更けるにつれて頭がいっそう冴えてくるのだった。仕方がないので、蚊帳から出て、雨戸を静かに開けぼんやりと外を眺めているときに、遠くで女の泣き声らしいものを聞いた。その声は母屋からと思われたが、悲しげに喘ぐような声は、細く長く続いていた。月が中空にかかっていた。

 この家に住まうのは、媼とその孫娘の安子という女性だ。この娘が彼の日常の世話をしてくれていた。雇人のほかには、安子の姉の郁代とその夫でこの家に養子に入って家業を継いだ直之も住んでいるはずであったが、姉夫婦の姿が見えないことを彼は不審に思っていた。

 あるとき彼は、小舟で出かけようとする安子を見つけ、母親の墓参りにいくという彼女になかば強引に付いて行った先の菩提寺に姉の郁代がいたのだ。

 ある夜、酔いを覚ますために散歩に出た彼の耳に、安子と直之の秘密めいた話が聞こえてきた。

 郁代は、夫の直之が本心で愛している女性は、自分の妹の安子だと思い込み、妹が幸せになるために自ら身を引いて寺に籠もってしまった。そのことがきっかけになり、継いだ家業も思い通りに行かない直之は、養子に入ったこの家には住み辛くなり、安らぎを求めて別の女性と住むことになった。そして直之とこの女性は、この町の水神様の祭りの晴れの船舞台で見事な踊りを披露したあと、二人して睡眠薬で自死してしまう。部屋には郁代と安子への遺書が残されていた。

  郁代と安子という性格が異なる姉妹と、秀という名の直之と住んでいる女性が絡んでの互いの愛情の在り方や誤解、諦念、因習による呪縛や世間体、そして滅びへと向かう町の空気がこの物語に漂っている。そしてそれらを購うためにか水神様の祭が盛大に催され、堀に浮かべた舟舞台での義太夫狂言「弁慶上使」での脇役を務める直之と秀の様子が描かれる。ふたりが最後に演じた演目は人間の情愛を描いたものである。

 しかし、直之が本当に愛していたのは最後まで判然としない。郁代は棺に縋って、あなたが好きだったのは一体誰だったのかと問いかける。

  この作品を読み終えたとき、30年くらい前に読んだ『風の盆恋歌』(高橋治作)という越中八尾町(現在は富山市に編入)の「おわら風の盆」という祭りをテーマにした小説を思い出した。

 この本には、表題作のほか、沼にある島に渡ろうとして沼に吸い込まれてしまう少年が主人公の「沼」、入院している男の幻想を描いた「飛ぶ男」、自分の人生を生きたいと願う妻の、貧しい絵描きの夫との別れを描いた「樹」、結核療養所に長くいる男が妻から離婚を切り出される「風花」、人生に退屈している少年が、父親の書斎で見つけた拳銃で、運命と賭けをしてロシアンルーレットをする「退屈な少年」が収められている。

 私が愛読する作家のひとりである池澤夏樹が、作者の長男ということを初めて知った。

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