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華果成就御書

華果成就御書(けかじょうじゅ ごしょ)

日時: 弘安元年4月
年齢: 57歳
宛先: 浄顕房・義浄房   
場所: 身延

【御文】

  その後なに事もうちたへ申し承わらず候。

  さては建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候。

  たとえば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎ・かくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるべからず。

  日蓮・法華経の行者となつて善悪につけて日蓮房・日蓮房とうたはるる此の御恩さながら故師匠道善房の故にあらずや。

  日蓮は草木の如く師匠は大地の如し。

  彼の地涌の菩薩の上首、四人にてまします。「一に上行と名づけ 乃至 四に安立行菩薩と名づく云云」。末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか。

  さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる。故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり。

  日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべし。あらたうと、たうと。

  よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくわいぬれば師弟・地獄におつといえり。師弟相違せば、なに事も成べからず委くはまたまた申すべく候。

  常にかたりあわせて、出離生死して、同心に霊山浄土にてうなづきかたり給へ。経に云く「衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子はかくのごとく、方便もて衆生を度す」云云。前前申す如く御心得あるべく候。あなかしこ、あなこしこ。

   弘安元年 戊寅 卯月   日         日蓮花押

   浄顕房

   義浄房


【通解】

  その後は一向にご様子もうかがわないが、お変わりありませんか。

  去る建治のころ、故道善房聖人のために報恩抄二巻を書いて送って差し上げたのを、嵩が森で読まれたことを、悦んでいる。

  たとえば根が深ければ枝葉は枯れず、源に水があれば流れは止まることはない。火は薪がなくなれば消える。草木は大地がなければ生長することができない。日蓮が法華経の行者となって、善悪につけて日蓮房、日蓮房と呼ばれるようになったことは、この御恩さながら故師匠道善房のおかげである。

  たとえば日蓮は草木のようであり、師匠の道善房は大地のようなものである。

  法華経従地涌出品で出現された地涌の菩薩に四人の上首がいる。経には「第一を上行菩薩と名づけ(乃至)第四を安立行菩薩と名づく」と説かれている。末法の世に上行菩薩が出られるならば安立行菩薩も出現されるはずであろう。

  稲は花を咲かせて果を実らせても、米の精は必ず大地に還る。故に一度刈り取った後に芽が出てふたたび花や果を結ぶのである。

  日蓮が南無妙法蓮華経を弘める功徳は必ず道善房の身に帰るであろう。まことに貴いことである。

  よい弟子をもてば師弟はともに成仏をし、悪い弟子を養えば師弟ともに地獄に堕ちるといわれている。師匠と弟子の心が違えば何事も成就することはできない。くわしくは、そのうちに申し上げる。

  つねに語り合って生死を離れ、同心に霊山浄土に行ってうなずき合って話されるがよい。法華経の五百弟子受記品第八には「衆生に貧・瞋・癡の三毒があることを見せ、また邪見の相を現ずる。我が弟子はこのように方便をもって衆生を救済する」と説かれている。前々に申し上げたとおり、よく心得ていきなさい。あなかしこ、あなかしこ。

       弘安元年戊寅卯 月 日                日蓮花押

     浄顕房

     義浄房


【言葉の意味】

道善房聖人(どうぜんぼう しょうにん)
 (~1276)安房国清澄寺(千葉県鴨川市清澄)の住職。日蓮大聖人幼少の剃髪の師。日蓮大聖人は天福元年(1233)12歳の時、道善房の弟子となり、16歳で出家剃髪。以後、鎌倉に数年間修学、さらにいったん清澄寺に帰られて後、京都に出て比叡山・奈良・高野山に回って研学に務められた。建長5年(1253)32歳の時、故郷に帰り、4月28日、清澄寺の諸仏坊の持仏堂の南面で、初めて南無妙法蓮華経を説かれて立教開宗された。その時、念仏の強信者であった地頭・東条景信の迫害にあって、清澄寺を脱出され、鎌倉で布教を開始された。道善房は大聖人を思いながらも東条景信と争うこともできず、大聖人に帰依することもできなかった。文永元年(1264)11月14日、小松原法難の直後に西条・華房で、大聖人は道善房と再会された。その時、道善房は大聖人に対して成仏できるかどうかを質問している。それに対して道善房が阿弥陀如来像を五体も造ったことから、五度無間地獄に堕ちると答えられ、真心込めて正法への帰依を勧められた。その後、道善房は少し信心を起こしたようだが、改宗までに至らず一生を終わった。

嵩が森
  
清澄寺境内にあった。現在の旭日の森にあたる。

法華経の行者
 法華経の教えどうりに如説修行する行者のこと。正像においては釈尊・天台・伝教がそうであり、末法においては日蓮大聖人およびその門下。別しては大聖人ただお一人。「末法の仏」をさす。御義口伝には「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(0752-06)また「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(0760-第廿五建立御本尊等の事)とある。

地涌の菩薩
  
法華経従地涌出品第十五に「仏は是れを説きたまう時、娑婆世界の三千大千の国土は、地皆な震裂して、其の中於り無量千万億の菩薩摩訶薩有って、同時に涌出せり」とある。この地涌の菩薩の出現は、釈尊の滅後の布教を誓った本化の菩薩のこと。滅後末法の弘通を勧める釈尊の呼びかけに応じて、大地から湧き出てきたゆえに、地涌の菩薩という。

末法  
  
正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

ひつぢ

 刈り取った稲株からまた生える稲。

法華経を弘むる功徳
 功徳とは功能福徳の意。福利を招く功能が善行の徳としてそなわっていることを功徳という。徳は得の意で功を修めることによってえるところの功徳をいう。安楽行品には「我が滅度の後に、若し比丘有って、能く斯の 妙法華経を演説せば(中略)其の人の功徳は、千万億劫に、算数譬喩をもって、説くとも尽くすこと能わじ」と、法華経を説き弘める功徳が説かれている。

仏果
 成仏の果法・果位のこと。衆生が仏道修行をすることによって得る証果をいう。

地獄
 十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。

出離生死
 生死を出離すること。生死は苦しみ・煩悩・迷いのこと。出離は迷い・苦しみを明らかにしていくこと。三界六道の迷いや苦しみから出で離れ、涅槃・菩提の境地に至ること。生死即涅槃と同義。

霊山浄土
 釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

三毒
 貧・瞋・癡をいう。貧は貪欲、貪り・瞋は瞋恚、いかり・癡は愚癡、愚かなことをいう。慢と疑を合わせて十使中の五鈍使になる。

邪見の相
 因果の道理を無視する妄見を「邪見」という。低級思想・邪宗教に迷う姿のこと。

方便
 悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。一に法用方便、二に能通方便、三に秘妙方便の三種に分かれる。
①法用方便
衆生の機根に応じ、衆生の好むところに随って説法をし、真実の文に誘引しようとする教えの説き方。
②能通方便
衆生が低い経によって、悟ったと思っていることを、だめだと弾呵し、真実の文に入らしめる方便。

この二つは方便品に「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」と説かれる方便で、42年間の阿弥陀経、大日経、蘇悉地経等の権教で説かれている方便であるがゆえに「方便を捨てて」となる。
③秘妙方便
秘妙門ともいう。秘とは仏と仏のみが知っていること。妙とは衆生の思議しがたい境涯であり、長者窮子の譬えや衣裏珠の譬えによってわかるように、末法の衆生は種々の悩みや、凡夫そのままの愚かな境涯に住んでいるけれども、その身がそのまま、久遠元初以来、御本仏日蓮大聖人の眷属であり、仏なのだと悟る。これが秘妙方便である。悩んでいるときのわれわれも、仏であると自覚して、折伏に励む時も、その体は一つで、その人に変わりはない。これは仏のみの知れる不思議である。

衆生
 梵語サットヴァ(sattva)の音写。薩埵と訳す。この世に存在するもの、生けるもの。主として人間をさす場合が多いが、感覚をもつ生き物すべてをいう。


浄顕房

 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで義浄房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。のちに御本尊をいただいている。

義城房
 清澄寺の住僧。日蓮大聖人の清澄寺修学時代の兄弟子。建長5年(1253)の大聖人立宗に際しては、地頭東条景信の迫害に対し、大聖人が清澄寺をでられるまで浄顕房とともに、大聖人を守った。その後も音信を交わしていたようである。

【講義】

 本抄は、日蓮大聖人の清澄時代の旧師・道善房が死去してから2年後の弘安元年(1278)4月、浄顕房と義浄房に出されたお手紙である。道善房、浄顕房、義浄房についてはすでに清澄寺大衆中に触れられているので略すが、道善房の死去については、建治2年(1276)3月との説がある。また同年7月26日の報恩抄の送文に「道善御房の御死去の由・去る月粗承わり候」とあることから、少なくとも6月以前であることがわかる。

 したがって、本抄を著された弘安元年(1278)4月は道善房の3回忌にあたるところである。たぶん大聖人は師の3回忌を営まれ、十分に回向されて、その際、浄顕房と義浄房にあてて本抄をしたためられたものであろう。

 報恩抄における師恩・報恩の御心は、本抄にもそのまま拝せられる。

 報恩抄にいわく「されば花は根にかへり真味は土にとどまる、此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」と。

 本抄にいわく「さればいねは華果成就すれども必ず米の精・大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮が法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと」と。

 この部分が本抄の題号の由来でもあるが、まさしく報恩抄の最後の部分と表現を同じくされている。また道善房生前中の善無畏三蔵抄にも「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生・本師道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり何に況や人倫をや、此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す」とある。道善房は心中では大聖人に帰伏しながら謗法を断つことができず、その謗法に対しては「阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし」と、厳しく断訶されているが、その旧師としての恩については終生変わらぬ感謝の念を披歴されているのである。

 のみならず、本抄においては「末法には上行・出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか」と、道善房を安立行にも配されているようである。これは前の「日蓮は草木の如く師匠は大地の如し」とある御文をうけている。すなわち御義口伝に「火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり」とあり、安立行は草木を生ずる大地にたとえられているからである。したがって、道善房が地涌の上首四菩薩の一人・安立行であるといわれているというよりも、上行を世に送り出した大地のごとき働きをしたという意味からいわれていると拝すべきであろう。

 とすれば、日蓮大聖人が自ら上行菩薩の最誕であることを述べられるところに、この御文の元意があると拝すべきである。日蓮大聖人は内証は久遠元初自受用報身如来の最誕であられ、外用は上行菩薩の最誕であられる。したがって、上行菩薩であられること自体、末法の御本仏であることの、明確なる宣言であると拝されるのである。

 道善房は謗法を捨て切れず一生を終えているのであり、その意味では地涌の上首の一人であるとは考え難い。しかし、かりにも末法の御本仏との師弟の縁を結んだということは、深厚なる宿縁であり、その功力によって、かならず未来において仏道を成ずるであろう。そのことは大聖人の「にひつぢおひいでて二度華果成就するなり」の御文で明らかである。大聖人という稲を生み出した道善房の大地には、大聖人の米の精がおさまり、そこからふたたび苗が出生するのであり、道善房が成仏することは疑いないとの御心と拝することができる。

 また「建治の比・故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候」とあるのは報恩抄であるが、報恩抄送文に「御まへと義成房と二人・此の御房をよみてとして嵩がもりの頂にて二三遍・又故道善御房の御はかにて一遍よませさせ給いては 此の御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ」とあるところから、大聖人は「此の御房」すなわち民部阿闍梨日向に読んでもらいなさいといわれたのを、実際には二人で嵩が森で拝読したのではないかと思われる。その真心を深く喜ばれているのである。

 なお、本抄については、偽書説もあるが、報恩抄との合致から、仏法の重要な法理が述べられた書であることに疑問はない。

よき弟子をもつときんば師弟・仏果にいたり・あしき弟子をたくはひぬれば師弟・地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず 

  この御文が前の「日蓮が法華経を弘むる功徳は 必ず道善房の身に帰すべし」をうけて述べられていることはいうまでもない。

 道善房は師ではあったが正法を究めた師ではなく、念仏の邪法に迷い、信心弱いままで生涯を終った。しかし、日蓮大聖人というすぐれた弟子をもつことにより、大聖人の広大な功徳の回向を受けて、やがては仏果に至ることができる。すなわち、よき弟子をもつことによって、師弟ともに仏果にいたることができるのである。

 しかし、逆に、弟子も邪法に迷った“あしき弟子”であるなら、正法の功徳が回向されないばかりか、悪法の回向を受けることになって、ますます地獄の苦に沈むのみであろう。

 仏法をともに求める師と弟子の関係は、師自身が仏法の極理を究めることができなかったとしても、その志を継いだ弟子によってそれが成し遂げられらば、弟子からの回向によって師弟ともに仏果にいたることができる。このように相い扶け、相い補って仏道を求めるのが師弟であり、それが相違すれば、仏道の成就はできない。故に「師弟相違せばなに事も成べからず」と仰せられているのである。

 その意味で、ここにいわれている“師”とは、まだ正法を究めてない一般的な立場での師である。すでに正法を究めている師の場合は、その弟子がかりに迷って“あしき弟子”になったとしても、そのために地獄に堕ちるということはない。なぜなら、成仏の可否が決まるのは、信受する法によるからである。

 さらに、ここで師弟の重要性について、令法久住という観点から考えてみたい。

 法華経の説法の座において諸仏が来集した理由として「令法久住」とある。法華経の説法は在世衆生の記別もさることながら、滅後の弘法を期することに一層の重点が置かれている。そしてそれは、地涌の菩薩の出現によって成就されるのである。ただ、地涌の菩薩が釈尊の久遠からの弟子というのは文上でおいてであって、地涌の菩薩の本地の内証は久遠元初自受用報身如来であり、釈尊はかえって迹仏になるということはいうまでもない。

  仏法それ自体勝れている故に、それが後世に永く伝わっていくことは当然としても、具体的に釈尊が神力品において別付嘱し、嘱累品において諸菩薩に総付嘱して初めて、釈尊の教えの滅後久住が確実とあったのである。

 この意味からすれば、師匠の重要さはいうまでもないものの、弟子の使命もまだ計り知れないものがあるといえよう。妙楽大師いわく「子父の法を弘む世界の益あり」と。師の教えが弟子によってたんに受持されただけでなく、空間的には一閻浮提に弘められ、時間的には永遠に伝えられ、ますます盛んならしめてこそ、令法久住といえるのである。

 よい弟子をもつか否かによって、師弟ともに、将来が定まるということは、それだけ師がいかに弟子を薫育するかの責任が重いということもあろう。師は弟子のために存在することであり、自らの解脱のみを求めるのであっては師とはいえない。「衆生にこの機有って仏を感ず。故に名ずけて印と為す。仏は機に乗じて応じたもう、故に名づけて縁となす」と仏とは衆生のために、応じて出現したのである。

 なかんずく、釈尊の法華経の説法は、滅後の弘法、令法久住のためであった。もし滅後に弘通するものがいず、仏法を断絶してしまったならば、釈尊は何のために出現したかという「一大事因縁」が失われてしまう。しかるに、仏滅後、厳密に法華経の教えどおりに弘教した人は、日蓮大聖人以外にないといってよい。なぜなら、天台大師や伝教大師は、怨嫉を受けたが「況滅度後」ではなかったからである。すなわち、末法の御本仏日蓮大聖人の出現によって、初めて釈尊の説いた法華経は、真実となったといっていいのであり、その意味では、釈尊は初めて実語の人となったといえる。

 「師弟相違せばなに事も成べからず」と。師一人のみでは令法久住の根本は据えることはできても、成就はできない。それは一に受けついでいく弟子にかかっている。日蓮大聖人は、あくまでも道善房に対して弟子の立場に自らを置かれて、その使命を述べられているが、同時に、この御文をとおして、浄顕房、義浄房にも、仏法伝灯の強い自覚をもつべきことを教えられていると拝される。

  「衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云

 この御文は、釈尊が五百弟子授記品にいて声聞の弟子に対し、内心に尊い生命を秘していることを示したものである。

 「内に菩薩の行を秘し、外に是れ声聞なりと現ず、少欲にして生死を厭えども、実には自ら仏土を浄む、衆に三毒有りと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く、方便して衆生を度す」

 外面においては声聞の姿を示し、生死を離れゆくことを願うようであっても、それは衆生を救うための方便の姿であって、内には菩薩の行を秘しているのであると述べているのである。この文をとおして大聖人は、浄顕房・義浄房の二人に対して、今はいかなる立場にあろうとも、二人が団結して信心していくことが尊い行為であることを教え激励されているのである。

 浄顕房、義浄房は内に大聖人への信を確立してはいたが、外には末だ清澄寺の中にあり、まさしく「邪見の相」を示している。その二人に対し、その中で信心を貫く姿こそ、衆生を救済していく偉大な行為に連なることを教え、その使命の重大さを教えられたのである。

 貧瞋癡の三毒を持っている姿を示し、さらには邪見の相を示すことが衆生を導くための方便であるとは、現実に三毒に沈み、邪見にとらわれている衆生を救うには、自らその姿を示し、ともに打開していく以外にないということである。その意味では、衆生救済のあり方を教えた重要な経文であるといえよう。

 もしも三毒や邪見をもたない姿で法を教えようとしても、衆生はそのような人に対し、自分とは全く違うのだから、縁のないことだと感じ、法を信じようとはしないにちがいない。そうすれば、たとえ尊敬されることはあっても、衆生との間にますます縣隔をつくって衆生救済の目的は達せられなくなるのである。

 三毒強盛な、欠点多い同じ人間として生きつつ、そこから仏道に入っていく姿を示すことにより、衆生を教化することができるのである。人々にこの仏法を教えるためには、自らすすんで泥沼に入り、そのなかから清浄な花を咲かせる姿を示さなければならないのである。

 我々が、邪宗の家に生まれ、三毒強盛の悪人として生をうけたのも、仏の弟子の一分として衆生を化すためであると教えていると同時に日常生活にあっても、自ら求めて困難の中へ、また泥沼の中へ分け入っていく勇気がなくてはならないことを説いているようである。

 これは同苦の姿勢である。いかなる革命であっても、指導者が特権意識をもつたり、差別意識をもっていては、大衆は心服しない。現実社会に渦巻く苦悩の荷物を、ともに担いながら進んでこそ、大衆は胸襟を開くのである。職業革命家が、口にいかなる平等を唱え、自ら大衆であることを標榜しても、いつのまにか大衆と遊離してしまい、民衆の生活実感ほど遠い革命理論に堕してしまうのは、革命を職業とし、自らの生活を特別化してしまう故にほかならない。我々の仏法流布は、最も崇高な社会・生命の変革作業である。である故にこそ、この点に最も留意し、生活に密着した変革を遂行していかなければならない。

 またこの御文は、いかなる外面をもとうと、そのなかには大乗流布の精神を赤々と燃やし続けていかなければならないことも教えている。社会の泥沼の中に入っていくことは重要であるが、そこに染まってしまい、本来の大目的を忘れ去ってしまったならば、いかなる努力も水泡に帰してしまうであろう。大聖人は兄弟子だった二人に対し、謗法の真っ只中に住むからこそ、そこに流されることのないよう、いよいよ信心を強盛に持つべきことを、この文をとおして教えられているようである。蓮華に「於泥不染の徳」と。また「出水の義」と。いかなる所にあっても、大聖人の門下たる矜持だけは厳然とたもたなければならない。

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