[書評]又吉直樹『劇場』

又吉直樹の小説第二作。前作で又吉の文体に魅了された人は本作も間違いなく「買い」。

期待を裏切られることはない。作者の文章はますます磨きがかかり、演劇論を通して語られる感性のきらめきは本書の随所に見られる。前作と合わせて、広く芸術論としても読めるし、クリエータを目指す人が読んでもきっと得るところがあるだろう。もちろん、劇団周辺の多彩な人物群像が織りなす愛憎半ばする葛藤はそれだけでおもしろい。何より主人公の永田と沙希の泣き笑いに包まれた関係が、愛おしくなるくらい純粋な男女の恋の物語で、読者はいつまでも二人を見守りたくなる。

ただ、実際は第一作『火花』より先に書き始めていたという。まず、出だしが『火花』と違う。『火花』は

大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。

と始まる。重厚で密度が濃い文章だ。一方、『劇場』の出だしはこうだ。

まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。

やわらかい。ほのかに光の存在も感じられる。薄日が差してきそうなのに、はっきりと見えないもどかしさもある。感覚がみずみずしい。

両者を比べると、『火花』が重低音と鋭い高音の組合せで鮮烈な音像を響かせるのに対し、『劇場』は見えそうで見えない世界と薄い皮一枚で隔てられた存在が希求する映像を見せる。どちらも、震える心をもつ人間のしなやかさが感じとれる。


『劇場』から見る又吉直樹の演劇観

主人公の永田は売れない劇作家。「おろか」という劇団を率いている。相棒は中学生の頃から活動を共にしている野原。

永田が語る演劇観は本書のあちこちで展開され、物語のプロットとはべつに、ひとつの演劇論として読み応えがある。その一例。上演後の打ち上げの席で、脚本の都合で劇的な人生を与えられる登場人物たちについての議論を吹っ掛けられ、永田は考える。

劇的なものを創作から排除したがる人のほとんどは、作品の都合で平穏な日常を登場人物に与えていることに気づいていない。殺人も戦争もある世界なのに馬鹿なんじゃないかと思う。

好みの問題と創作の問題は別だとして、永田はこう考える。

簡単なものを複雑にすることを人々は許さないけど、複雑なことを簡単にすると褒める人までいる。本当は複雑なものは複雑なものでしかないのに。結局、自分たちの都合のいいようにしか理解しようとしていない。それを踏まえたうえでなら簡単と複雑の価値が対等なように、劇的なものと平凡な日常も創作上では対等でなければおかしい。

ある意味でラディカルな演劇観をもつ永田だが、その永田にも自らの脚本を超えていると思われる存在が沙希だった。沙希の表情には主張と感情と反応が混ざって同時に出ている。そういう人間の複雑な表情に永田は惹かれる。


主人公の永田と沙希の出会い

永田と沙希の出会いは変わっている。あとで沙希が「殺人鬼に殺されると思ったの」と述懐するほどの怖い体験だった。

永田が外を歩いていると反射する強い陽射しに視界が霞む。立ち止まったところは画廊だった。ガラスの向こうを覗くと月の下で歯を剥き出す猿の絵画がある。それに見入っていると、ほかにも画廊を覗いている人がいる。若い女の人のようだった。通行人が何人も背後を通り過ぎるなかで永田とその女性だけが動かない。

永田は、この人なら、自分のことを理解してくれるのではないかと思う。その人をじっと見ていると、視線に気づいたその人が数歩後退すると背を向けて歩き出す。永田はその人の背中を追って歩きだしたようだった。その人はあきらかに永田を警戒して速度を上げる。永田も速度を上げたようだった。

その人の横に立った永田は、「靴、同じやな」と変なことを言う。永田は知らない人に話しかけたことがない。その人は「違いますよ」と言った。

知らない人に変なことを話しかけられれば誰でも不審に思う。その人は不安気な表情をうかべる。永田は言葉を発する。

「あの、暑いので、この辺りの、涼しい場所で、冷たいものでも、一緒に飲んだ方が良いと思いまして、でも、僕、さっき、そこの古着屋で、タンクトップを買ったので、もうお金がないので、おごれないので、あれなんですけど、あきらめます。また、どこかで会いましたら」

どうだろうか。変人扱いされて一度も想いを伝えられないのは残酷過ぎると意を決しての永田の言葉だったが、これではますます変人扱いされないだろうか。

読者が男性であるか女性であるかによって受取り方は違うだろうけれど、この会話のあとでふたりが恋人同士になる展開はとても想像できない。しかし——。続きが気になる方はぜひ本書でお楽しみいただきたい。

又吉直樹『劇場』(新潮社、2017年)


[初出: https://kindou.info/88279.html ]

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