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第六の粘土板 天牛グガランナ

 ギルガメシュとエンキドゥは、周壁持つウルクに帰還した。フンババの森の杉の木を持ち帰ると、ウルクの民は沸いた。大通りに花を敷きつめ、二人の英雄の凱旋を歓呼で迎えた。そのまま王宮まで行くと、長老と臣下が左右に並んで、出迎えた。
 「――おめでとうございます。ウルクのエンシにしてルガルたるギルガメシュよ。見事、務めを果たされましたな」
 長老がそう言うと、ギルガメシュはただ右手を挙げて、鷹揚に応えた。
 「エンシの助け、お勤めご苦労様です」
 エンキドゥにも声を掛けると、いきなり杉の木を渡されて、長老は下敷きになってしまった。慌てて衛兵が助け出して、事なきを得た。エンキドゥは、上機嫌に鼻歌を歌いながら悠々と立ち去った。ギルガメシュも微笑みを浮かべながら、そのまま王宮に入った。
 「――留守の間、何も変わりはなかったか」
 ギルガメシュは寝室に入ると、近習に訊いた。
 「ございません」
 侍女を呼ぶと、すでに沐浴の支度が出来ていた。ギルガメシュは身の汚れを落させた。髪の毛を洗い、全て後ろに垂らした。沐浴が終わると白い衣を纏い、ベルトで締めた。エンシの正装の上衣だ。持っていたミッタは、全て近習に磨かせた。
 ――ギルガメシュよ。
 不意に心の裡で、声が響いた。聞き覚えがある。女神イシュタルだ。
 ――何でございましょう。
 ギルガメシュは心の裡で、神々に対する礼を守った。すると芳醇な薔薇の香りと共に、清純なる天上の調べが聞こえた。そして乳白色の光に包まれた性愛と金星を司る女神イシュタルが、降臨した。その姿は裸身に近いが、柔らかく、妙なる後光を照らされ、輪郭しか見えない。
 だが金髪碧眼の顔だけはよく見えた。その恍惚とした表情は、頬を上気させ、細くて長い目に、長いつけまつげが乗っており、その唇には真っ赤な果実の様な紅が引かれていた。そして額には、ラピスラズリで飾られたサークレットが輝いていた。長い金髪はリルに揺れている。
 確かに美しい。だが好みではなかった。ギルガメシュはもっと初心で、恥じらいを持つ生娘が好きだった。そういう意味では、神殿娼婦シャムハトと大差ない。
 ――ギルガメシュよ。わらわの夫になって下さい。
 一瞬、動きが止まったが、なお女神イシュタルは語った。
 ――わらわがそなたの妻となり、そなたがわらわの夫となるなら、ラピスラズリと黄金で飾られた車を送りましょう。その車輪は黄金で作らせ、その笛は真鍮で作らせましょう。(注4)
 武器ではないが、恐らくミッタの類だろう。天上を奔る神々の二輪戦車か。
 ――そして杉の木の香りのする家を送りましょう。わらわの家に入るならば、敷居も玄関も、すでに足下に屈している王侯貴族の様に、そなたの足に平伏しよう。彼らは野山で採れる産物を納めに来るでしょう。さらには、そなたの山羊も羊も多産に仔を産み、荷を背負うロバはラバにも勝り、二輪戦車の一角神獣は、その燃え上がるが如き輝きを見せましょう。(注5)
 ギルガメシュは薄く口元を歪めた。
 ――女神イシュタルよ。貴女を妻として迎えるのにどんなものを用意すべきですか。香油ですか。衣服ですか。ニンダや料理ですか。神々に相応しい食物や飲物ですか。(注6)
 ギルガメシュは、さらに姿勢を低くして、片膝を突いた。
 ――いや、女神イシュタルよ。きっと貴女はそんなものはでは満足しない。貴女を迎えるのに、そんなものでは、冷えた竈も同じだ。役に立たない。(注7)
 女神イシュタルは黙って、ギルガメシュの声を聴いていた。
 ――貴女の寵愛を得るのに、どんな男が長続きしたのか。その名を挙げてみましょう。
 それからギルガメシュは、女神イシュタルに求愛された複数の人物の名を挙げ、全て殺されるか、動物の姿に変えられてしまった事を指摘した。
 ――故にもし貴女が我を愛するならば、我も彼らと同じ運命を辿る事でしょう。
 ギルガメシュが鼻の上に右手を置いて、静かに顔を上げると、女神イシュタルは姿を消していた。怒って帰ってしまったらしい。だが事実を指摘しただけだ。礼儀を尽くしている。
 「香を焚け、女神イシュタルのお帰りだ」
 ギルガメシュは近習にそう命じると、高笑いと共に寝室を後にした。
 
 怒れる女神イシュタルは、大いなる天に帰ると、父である天空神アヌと母である大地母神ニンフルサグの前に行って、泣いた。
 「父よ、ギルガメシュはわらわを侮辱致しました。ギルガメシュはわらわの行いを、悪行として数え上げました」(注8)
 天空神アヌは、輝かしき娘に向かって言った。
 「だがまさにそれはお前がやった事ではないか。だからギルガメシュも指摘したのではないか。それはお前が招いた事ではないか」(注9)
 怒れる女神イシュタルは、父である天空神アヌに向かって言った。
 「あの憎いギルガメシュを滅ぼすために、天牛グガランナをお貸し下さい――」(注10)
 天空神アヌは、大地母神ニンフルサグを見た。彼女も彼を見た。
 「――もし天牛グガランナをお貸し頂けないのならば、わらわは大いなる地から死者を蘇らせ、この大地を生者よりも死者を多くしてみせましょう」(注11)
 天空神アヌは、輝かしき娘に向かって言った。
 「もしそんな事をすれば、七年間の不作が続くだろう。お前は人々のために、作物を集めた事があるのか、獣達のために草を茂らせた事があるのか」(注12)
 怒れる女神イシュタルは、父である天空神アヌに向かって言った。
 「もし七年間の不作がやって来るとしても、人々のために作物を蓄えました。獣達のために草を集めました」(注13)
 天空神アヌは、輝かしき娘に向かって言った。
 「よかろう。では会議にかけよう。天牛グガランナは重大だ。一度、地上に放てば、壊滅的な災いになる――それでもよいか」 
 怒れる女神イシュタルは、父である天空神アヌに向かって言った。
 「当然です」
 女神イシュタルの眼は碧く光り、その細い眼は刺す様に冷たかった。
 
 大いなる天で、運命を定める七柱の大神が集まって緊急会議を開いた。すなわち、天空神アヌ、大気神エンリル、水神エア、性愛と金星の女神イシュタル、太陽神シャマシュ、月神シン、大地母神ニンフルサグだ。
 「天牛グガランナを大地に送り、ギルガメシュを討伐すべきです」
 会議の冒頭、性愛と金星の女神イシュタルは提案した。
 「――如何なる理由で」
 水神エアが尋ねた。
 「神々に対する造反です――」
 性愛と金星の女神イシュタルは答えた。
 「――大地の自然を守るため、神々が配置した森番フンババを斃し、杉の木を刈り、あまつさえフンババの首を晒した――これ以上の造反がありますか」
 水神エアは、大気神エンリルを見た。
 「ギルガメシュに森番フンババが斃された事について、どう考えているのか」
 大気神エンリルは点頭すると、一同を見渡した。そして言った。
 「……会議で決まった事に従おう」
 すると天空神アヌは言った。
 「今回の経緯に、太陽神シャマシュが、ギルガメシュを援助したと報告がある――」
 会議の席上、神々はざわついた。
 「――本当か」
 「本当だ」
 太陽神シャマシュは居心地が悪そうに答えた。
 「なぜギルガメシュを援助して、森番フンババを斃す事を助けた」
 天空神アヌが追及すると、太陽神シャマシュは答えた。
 「あのままではギルガメシュは勝てなかった。負ければ死んでいた」
 「――しかしあの森は、人間達から守ろうと会議で決めて、森番を配置したのではないか。大気神エンリルが提唱した大地の自然を守るべきという意見に従って――」
 天空神アヌがそう指摘すると、太陽神シャマシュはますます席上で小さくなった。
 「――重ねて問うが、なぜギルガメシュを助けた」
 太陽神シャマシュは沈黙した。すると月神シンが助け舟を出した。
 「誰だって守りたい人はいるだろう」
 だが水神エアは言った。
 「いや、その理由を知りたい。なぜギルガメシュを守る」
 太陽神シャマシュは沈黙した。すると天空神アヌは動議を掛けた。
 「――答えられないなら、こうしよう。今後この会議で決まった方針に、ギルガメシュが逆らった場合、太陽神シャマシュは、ギルガメシュを助けてはならない」
 「それは……」
 太陽神シャマシュは驚いたが、それ以上何も言えなかった。
 「異議なし」
 性愛と金星の女神イシュタルは答えた。他の神々も異議を唱えなかった。
 「では天牛グガランナを大地に送り、ギルガメシュを討伐する――異論はないか」
 性愛と金星の女神イシュタルがそう言うと、太陽神シャマシュは反論した。
 「それはやり過ぎだ。ギルガメシュは人間達のために森を開拓しただけだ」
 水神エアが指摘した。
 「そうかも知れない。だがそうでもないかも知れない」
 「――どういう事だ」
 太陽神シャマシュが問うと、水神エアは答えた。
 「彼ら二人は腕試しがしたかっただけだ。だから杉の森で森番フンババと戦った」
 太陽神シャマシュは再び沈黙した。
 「だがその後で、ギルガメシュに婚約を申し入れた女神がいる――」
 水神エアは、性愛と金星の女神イシュタルを見た。
 「――違いはないか」
 「違いはない」
 性愛と金星の女神イシュタルは答えた。
 「娘を弁護するつもりはないが、ギルガメシュは婚約を断わった」
 天空神アヌは言った。すると水神エアは言った。
 「そしてギルガメシュを討伐せねば、地上を死者で埋め尽くすと言った女神がいる――」 
 水神エアは、性愛と金星の女神イシュタルを見た。
 「――違いはないか」
 「違いはない」
 性愛と金星の女神イシュタルは答えた。神々の間では、嘘は吐けない。
 「では天牛グガランナを大地に送り、ギルガメシュを討伐すべきとは、怨恨ではないか――」
 水神エアが指摘すると、性愛と金星の女神イシュタルは沈黙した。神々の間では、嘘は吐けない。だが名誉の沈黙を守る事はできる。
 「――無論、その一方で、ギルガメシュとエンキドゥは、太陽神シャマシュの助けを得て、大気神エンリル配下のフンババを討っている。そして許可なく、無断で杉の木も持ち帰った」
 「それは違う。ちゃんと二人には杉の木を神殿に奉納させている」
 太陽神シャマシュが反論した。だが会議の席上で失笑が零れた。水神エアは言った。
 「エンリルよ。ギルガメシュに杉の木を奉納された事について、どう考えているのか」
 大気神エンリルは点頭して、一同を見渡した。そして言った。
 「……会議で決まった事に従おう」
 天空神アヌは言った。
 「我が娘にも落ち度がある。だがそれ以上にギルガメシュの行動は目に余る。天牛グガランナを大地に送り、ギルガメシュを懲らしめる事に意味はある」
 「天牛グガランナは強過ぎる――森番フンババの比ではない――」
 太陽神シャマシュは言った。天牛グガランナは、天空神アヌの配下の自然神だ。それは、大規模な災害を地上に起こす時に使われる。言わば、神々が使う生きたミッタだ。
 「――それに天牛グガランナを大地に送れば、無関係の者も巻き込まれる」
 ウルクの民も多く死ぬ事だろう。罪もない人間達が死に、大いなる地に送られる事になる。
 「では太陽神シャマシュは、どうしろと言うのか。何か考えはあるのか」
 天空神アヌは言った。太陽神シャマシュは、今にも席を立とうとした。だが月神シンに目線で止められた。すると水神エアは言った。
 「天空神アヌよ。今回の目的は大規模災害ではない。あくまでギルガメシュの懲罰目的だ。そうであれば、人間達に大きな被害を与えるのは忍びない」
 だが天牛グガランナに、そんな器用な事ができるとは思えない。一度、地上に放てば、物が全てなくなるか、力尽きるまで暴れ回る。水神エアは大気神エンリルを見た。
 「ギルガメシュ懲罰のために、天牛グガランナが放たれる事について、どう考えているのか」
 大気神エンリルは点頭して、一同を見渡した。そして言った。
 「……会議で決まった事に従おう」
 すると天空神アヌは言った。
 「では決まった。天牛グガランナを地上に放ち、ギルガメシュを懲罰する」

 夕暮時の王宮でギルガメシュは、大皿に盛られたナツメヤシを摘まみながら、足元に寝そべる雌ライオンの顎の下を撫でていた。テーブルの上には、フンババの首と血染めの風呂敷が、広げられていた。エンキドゥは中庭で、槍投げに精を出していた。
 不意に遠くから、人々の叫びの様なものを聞いた。心の声だ。どうやら町で何かあったらしい。見ると、エンキドゥも動きを止めて、宙の一点を見つめている。ギルガメシュは、右手を鼻の上に置くと、太陽神シャマシュに呼び掛けた――応えはない。
 「――エンシに申し上げます」
 衛兵が駆け込んで来た。
 「天牛グガランナがウルクに攻めて来ました」
 ギルガメシュは、凄絶な笑みを浮かべると、血染めの風呂敷を掴んで立ち上がった。
 「衛兵は下がらせろ。我とエンキドゥで迎え撃つ――」
 エンキドゥが中庭から歩いて来た。全身滝の様な汗を流している。準備運動は万全だ。
 「――聞いたか。エンキドゥ。大いなる天が攻めて来た」
 「何故」
 「女神イシュタルの求婚を断わった」
 「分かった」
 エンキドゥはいつだってシンプルだ。だからこちらの心もクリアーになる。
 「戦の支度だ。ミッタを持て」
 ギルガメシュは近習に命じた。遅れて臣下や長老がやって来た。
 「ルガルにしてエンシたるギルガメシュよ――これは一体何事ですか」
 ギルガメシュは、黄金の鎖帷子を装備すると、血染めの風呂敷をマントとして付けた。
 「どうやら機嫌を損ねたらしい――げに恐ろしき女の恨みよ」
 すでに王宮にも火の手が上がっていた。町は天牛グガランナに破壊されている。
 「よく分かりません。誰の話をされているのですか」
 「女神イシュタルだ。求婚を断わったら、天牛グガランナを送り込んで来た――」
 長老と臣下は驚いた。
 「――人間であった父の様に、女神と結婚して、大いなる天に連なる事を望むか――」
 長老と臣下は互いに顔を見合わせた。彼らに答えられる問題ではない。
 「――我は望まん――それでは死の恐怖を乗り越えた事にならない」
 確かに神になれば、死の恐怖は乗り越えられよう。神は永遠だからだ。だが人間の身でありながら、死の恐怖を超克した者がいる。友を得て、互いの想いを託せる相手がいれば、死の恐怖も超克できる。少なくとも独りで死んで逝く事なく、大いなる地に旅立てる。
 ――我は人間。神ではない。だが英雄として、むざむざやられはしない。
 「行くぞ。エンキドゥ」
 ギルガメシュが声を掛けると、エンキドゥは短く応とだけ答えて、黄金の槍を持った。その後ろに近習が続き、予備のミッタを大量に積み込んだ台車が引かれた。相手が相手だ。持てる武器は全て投入するつもりだった。出し惜しみはしない。全力で行く。
 一行は王宮を出て、大通りに出た。町は無残に破壊されていた。老若男女問わず人々は折り重なって斃れていた。黒焦げの焼死体が在るかと思えば、膨れ上がった溺死体も在った。またバラバラになった死体が散乱し、何かもの凄い力で引き裂かれた事を伺わせた。
 通りを進む一行に暗い影が射し、心が暗くなった。恐怖だ。恐怖が沸き起こって来る。ギルガメシュは、ズィの鼓動が速くなるのを感じ、額から流れる汗を拭った。西の空にシャマシュが赤く輝き、町や人々の影を、黒く細長く塗り潰した。
 「――あそこだ」
 エンキドゥが指差した方角に、天牛グガランナがいた。翼が生えた牡牛だ。桁違いに巨きい。その二本の角に紅い光と碧い光を宿していた。黒い全身には時折、紫電が網目の様に奔り、漲る巨体を震わせていた。口から何か吐いている。紅い光だ――炎となって広がる。
 「フンババと同じだ。角を狙え」
 ギルガメシュは言った。だがあの巨体で、角を向けて突進して来るのだ。生半可な攻撃ではない。まともに突進を喰らえば、一溜りもないだろう。だが突進さえ凌げば、攻撃のチャンスはある。ギリギリで躱して、一撃を当てればいい。問題はその方法だ。
 ――実戦で編み出すしかあるまい。
 武者震いをした。ギルガメシュは黄金の鎖帷子を着ている。フンババのミッタで、強力な防具だ。黄金の兜こそ被っていないが、黄金の盾と合わせれば、ミッタの完全装備と言える。重さは感じないので、思ったより動ける。これならば、囮役は自分がやるのがよいだろう。
 「我が囮役をやる。その間にミッタで撃て」
 ギルガメシュは、油断なく黄金の槍を構えるエンキドゥに言った。
 「分かった」
 エンキドゥがそう答えると、ギルガメシュが前に出た。天牛グガランナがこちらを向いた。黄金の盾を構えると、そのまま突進して来た。最初は躱そうとしたが、躱せないと判断して、盾で受けた。次の瞬間、もの凄い衝撃と共に視界が何回転もして、吹っ飛ばされた。
 ギルガメシュが木の葉の様に吹き飛ばされたのを見て、一同は唖然した。天牛グガランナは、突進を終えて立ち止まると、倒れているギルガメシュに再び向きを変えた。
 だが次の瞬間、エンキドゥの投げた黄金の槍が直撃した。ミッタだ。さしもの天牛グガランナにも刺さったが、傷は浅い。大したダメージは与えていない。それでも、ギルガメシュを回収する隙は作れた。血まみれではあったが、致命傷はない。黄金の鎖帷子のお陰だ。
 「大丈夫か」
 エンキドゥが手を貸すと、ギルガメシュは立ち上がった。
 「……無論だ」
 だが鎖帷子がなければ死んでいただろう。躱すのに専念するなら、盾は邪魔だった。ギルガメシュは立ち上がろうとしたが、よろめいて膝を突いた。頭がくらくらする。
 「少しの間、役回りを代わってくれ」
 エンキドゥは頷いた。その間にふらつく頭を、何とかしないといけない。ギルガメシュが黄金の槍を持ち、エンキドゥが天牛グガランナの前に出た。両手を広げて威嚇する。エンキドゥは防具を一切着けていない。まともに体当たりを喰らえば、助からないだろう。
 「――そっちに行った」
 エンキドゥが叫んだ。天牛グガランナは、真っ直ぐこちらに向かって突進してくる。
 ――何故だ。狙われているのか。
 ギルガメシュは黄金の槍を捨てると、寸での処で横に転がって躱した。マントが角に掠って裂けた。今のは危なかった。ミッタで一撃を狙っていたら、確実に間に合わなかった。
 ――ダメだ。一人で囮役と攻撃役の両方はできない。二人で分担しないとやられる。
 エンキドゥと目が合った。近習から黄金の槍を渡されていた。役割を交代すると、ギルガメシュが天牛グガランナの前に立った。すると突如、口から碧い光が射して、水が発射された。直前で見切って躱したが、鎖帷子に掠った。すると鋭利な刃物で斬られた様な跡が残った。
 ――水圧で斬ったのか。こんな能力もあるとは……。
 天牛グガランナは、雄叫びを挙げた。腹の底から震える様な重低音だ。そしてその黒くて巨きな身体に、網目に紫電を奔らせ、口から炎を撒き散らしながら、突進して来た。
 ――これは……躱せるか。
 天牛グガランナは、全身竜巻の様になり、その雷と炎と暴風の範囲を膨らませながら、突進して来た。とんでもない爆発力を孕んでいる。巻き込まれるだけでも大ダメージだ。
 ギルガメシュは覚悟を決めた。敢えて受け止める。その隙に、エンキドゥにミッタを打たせる。これだけの大技だ。発動した直後に動きが止まる筈だ。それが最大のチャンスとなる。
 「エンキドゥ!」
 ギルガメシュは叫んだ。それだけで通じた。エンキドゥは投擲の姿勢を取った。全身の筋肉が膨れ上がり、血管が弾けた。全力でミッタを投擲する構えだ。見た事がない。
 ――いいぞ。やれ。やってしまえ。
 迫りくる死と隣り合わせの恐怖の中、ギルガメシュは生の絶頂を感じた。これが恐怖、これが生だ。神々の永遠なんて要らない。友と共に戦いの刹那を駆け抜ける。これが生だ。
 ギルガメシュは、自らを包み込まんとする天の怒りを前にして、仁王立ちした。天牛グガランナの角が当たる前に、暴風圏に入った段階で、大ダメージを受けた。だが退かない。下がらない。このまま受け止める。もう、どうにでもなれ。
 次の瞬間、激突した。眩い閃光と共に、衝撃波と爆発音を浴びた。だが身体に痛みがない。痛覚が飛んだのか。あまりの威力に、身体が木っ端みじんに弾け飛んだのか。
 ――ズィを粗末にするな。あまりに無謀過ぎる。
 見ると、腕長きシャマシュが腕組して傍らに立っていた。ギルガメシュは驚いた。
 ――何故ここに。
 ――今は戦いだ。集中せよ。
 太陽神シャマシュは、全力で見えない壁を展開して、天牛グガランナの突進を防いでいた。力負けしなかったが、天牛グガランナの勢いは止まらず、見えない丸い壁に沿って、黒い巨体が流れた。そのまま奔って行く。その後ろからエンキドゥがミッタを投げた。
 天牛グガランナの後ろ足の右の太ももに刺さり、勢いを殺した。
 ――浅くはないが、不十分だ。もっとミッタを当てないと斃せない。
 腕長きシャマシュが言った。ギルガメシュも口を開いた。
 「どうすれば斃せる。何度も凌げるのか。あの突進は……」
 ――今は同じ事を繰り返すしかない。作戦は間違っていない。
 太陽神シャマシュは言った。全身から血を流したエンキドゥが歩いて来た。右手に黄金の槍を持っている。台車を見ると、まだ予備のミッタはあった。だが周りの者は全て倒れていた。
 「ギルガメシュを狙っている」
 エンキドゥは指摘した。確かにそうだ。理由は分からない。だが囮役はやるつもりなので、不都合はない。しかしエンキドゥに目もくれず、ギルガメシュばかり狙うのはどういう訳か。
 「よほど女神を怒らせたと見える」
 ギルガメシュは、余裕さえ見せて、白い歯を見せた。
 ――あれは何度も起こせる技ではないが、こちらも何度も防げる訳ではない。
 腕長きシャマシュは、二人の傍らに立ち、そう評した。となると、次の突進は通常の突進に戻るのだろうか。そうであれば、まだやりようはある。
 ――なるべく多くミッタをぶつけろ。天牛とて無限の体力がある訳ではない。
 太陽神シャマシュは言った。確かに躱し続けて、ミッタを当て続けるしかない。だがこの曲芸を続けるのは難しい様に思えた。どこかで失敗して殺られそうだ。
 「来るぞ――」
 エンキドゥは言った。天牛グガランナが奔って来る。
 「――躱せ」
 ギルガメシュは寸での処で、横に転がって躱した。赤マントが角に引っ掛り、鎖帷子から外れて飛んだ。天牛グガランナは、それを追い掛けて奔って行った。そこにエンキドゥが、黄金の槍を打ち込んだ。左の肩口に刺さり、血飛沫が飛んだ。
 「何だ――あれは」
 天牛グガランナは、ひらひらとリルに舞う赤マントを追っていた。
 ――そうか。そういう事か。あれを拾え。
 腕長きシャマシュが言った。だがそうは言っても、天牛グガランナに近づかないと、赤マントは取り返せない。ギルガメシュは、歩いて近づいたが、攻めあぐねた。
 ――リルを起こす。巻き上げるから上手く掴め。
 太陽神シャマシュがそう言うと、天牛グガランナの鼻先に舞っていた赤マントが、一陣のリルに吹かれて、舞い上がった。皆の視線が落ち着く先に、ギルガメシュの右手があった。その手にしっかりと赤マントが掴まれている。
 ――何となく分かった。つまり、こういう事か。
 ギルガメシュが、赤マントを両手で持って翳すと、赤い生地が広がり、リルに揺れた。天牛グガランナが反応し、突進して来た。だがギルガメシュはひらりと赤マントを翻し、天牛グガランナを鮮やかに逸らした。そこにエンキドゥが投げたミッタが突き刺さった。
 理由は分からない。だが天牛グガランナはこの赤マントに反応している。元々は森番フンババを退治した時、首を包んだ風呂敷だったが、フンババの血で赤く染まった。人の血であれば、時間が経てば、赤黒く変色するが、フンババのそれは色鮮やかなままだった。
 ――とにかく利用できる物は使わせてもらう。
 ギルガメシュは、赤マントを翳して、天牛グガランナの前に立った。だがまたもや天牛グガランナは雄叫びを挙げた。腹の底から震える様な重低音だ。そしてその黒くて巨きな身体に、紫電を奔らせ、口から炎を撒き散らしながら、突進して来た。
 ――シャマシュ。
 ギルガメシュは、腕長きシャマシュに役回りを代えると、見えない壁を展開して、天牛グガランナの大技を防いだ。障壁と激突した天牛グガランナは、口から水を吐き出した。洪水だ。辺り一面が水で溢れ、ミッタを乗せた台車が流された。
 「エンキドゥ」
 ギルガメシュは声を掛けた。エンキドゥは心得たもので、流れた台車から三本の黄金の槍をどうにか確保した。だが残り三本で天牛グガランナを斃せるのか。
 ――やるしかあるまい。だがどうやって……。
 見ると驚いた事に、エンキドゥが天牛グガランナの間近に接近して、直接手で首筋にミッタをぶち込んだ。大技の直後とは言え無謀だ。だが最大のチャンスだった訳だ。天牛グガランナは、痛みの苦しみから逃れる様に、首を振って暴れている。エンキドゥは身軽に下がった。
 「致命傷を与えた。後は止めを刺すだけだ」
 エンキドゥは言った。だが疲労の色が濃い。全身、血と汗で汚れていた。それでも眼が異様に光っていた。闘志はまだ衰えていない。こちらも限界に近い。早く決着をつけるべきだろう。
 ――あれも使え。
 見ると、太陽神シャマシュが、黄金の斧を指差していた。水が退いた大地に落ちている。ミッタだ。重かったので、台車が流されても残ったのだろう。エンキドゥが拾った。
 「さぁ、来い。天牛グガランナ」
 ギルガメシュは、天牛グガランナの前に立ち、赤マントを翳した。腕長きシャマシュが、リルを起こし、赤マントを揺らした。すると天牛グガランナは、鼻息を荒くし、こちらに向かって突進して来た。だが心なしか、勢いが衰えている。チャンスだ。
 ――エンキドゥ、任せた。
 見事に赤マントを翻すと、天牛グガランナはその下を通り抜けた。エンキドゥは、足元に置いてあった二本のミッタを立て続けに投げた。天牛グガランナに突き刺さり、動きを止めて、立ち止まった。そこに黄金の斧を両手で構えたエンキドゥが奔った。
 ――勝ったな。
 腕長きシャマシュが、腕組をして傍らに立った。見ると、エンキドゥの渾身の一撃が、天牛グガランナの右の後ろ足に入り、足が切断されて、天牛グガランナがバランスを崩して倒れた。あとは一方的な殺戮だった。血祭だった。エンキドゥは叫びながら、叩き殺した。
 頭と胴体を切り離し、心臓を抜くと、天牛グガランナの活動は完全に止まった。そして取り出した心臓を、太陽神シャマシュの前に置き、二人は鼻の上に右手を置き、礼拝した。
 そして疲れ切った二人の兄弟は、その場に座り込んだ。
 天牛グガランナは斃された。角こそ折られなかったが、全身を黄金の斧でなます切りにされた。天空神アヌの配下で、何らかの意図があって、ウルクに送り込まれた自然神だったが、ギルガメシュとエンキドゥ、そして太陽神シャマシュの支援もあって、退治してしまった。
 ――何という事を。天牛グガランナを殺してしまうなんて……。
 性愛と金星の女神イシュタルが、ウルクの周壁に上に現れた。
 ――呪われよ。ギルガメシュ。わらわを侮辱し、天牛グガランナを殺した者よ。(注14)
 エンキドゥは、女神イシュタルの言葉を聞くと立ち上がって、天牛グガランナの右後ろ脚のもも肉を掴み、彼女の顔に向かって投げつけた。
 「もしお前を捕まえる事ができるなら、この天牛の様にしてやる」(注15)
 性愛と金星の女神イシュタルは、投げつけられたもも肉を見ると、悲鳴を上げて消えた。

 ギルガメシュは戦いが終わると、生き残った人々を呼んだ。そして天牛グガランナの首を高く掲げて、勝利を宣言した。ユーフラテス川で、天牛グガランナの首を洗い、角を切り離す作業を職人達にさせた。職人達は、その角の見事さと太さに驚きの声を上げた。
 ギルガメシュとエンキドゥは、ユーフラテス川で手を洗い、身体を洗った。そして互いに手を取り合い、肩を組んで、ウルクの大通りを凱旋した。ウルクの人々は、二人を見ようと殺到した。ギルガメッシュは、ウルクの民に向かって言った。
 「英雄の中で誰が一番か、人々の中で誰が一番か」(注16)
 ウルクの民は答えた。
 「ギルガメッシュこそ英雄の中で一番だ。エンキドゥこそ人々の中で一番だ」
 ギルガメシュは大いに満足すると、王宮に向かった。そして臣下と長老を集めて、祝宴を挙げた。深夜になると、二人の英雄は寝台に横になった。エンキドゥも横になり、夢を見た。エンキドゥは起き上がり、ギルガメシュを起こして夢を語った。
 「なぜ神々は会議を開いているのか」(注17)

                          第六の粘土板 了

『我が友エンキドゥ~いつかのどこかの誰かのための物語~』
第七の粘土板 エンキドゥの死 7/12話


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