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十字架の道

毎週日曜日、目まぐるしく主の働きを見せられている。

先週は初めて教会に来た女性が救いを受け入れた。
でもたくさんの問題を抱えているなか、その女性をフォローしていたご夫婦の問題も浮かび上がる。
「そうか、神さまはその女性を導くと同時に彼らに対してもチャレンジを与えてるのだな」とわかった。
いわゆる“進級テスト”だ。

神さまの働きをするためには100%捧げなければいけない。「この部分だけ残す」は無い。

それが見えてきたなら、祈りの方向は一つだった。

「憎しみを手離す」

状況を聞けば誰でも、許すことなど簡単ではないとわかる。

でも神さまの声は「離しなさい」
もちろんどちらも自由意思。

それを握って得られる目に見える益と、それを遥かに上回る目には見えない恵み。
これは信仰でしか進める事が出来ない。
祈る私たちだって、彼らの先の生活がどうなるのかなどさっぱり分からない、けれど曖昧に濁す事は出来ない。し、主は必ず応えられる。という確信を持って支え祈った。

彼は悔しくて泣いて泣いて、、

けれど手離す決断をした。
イエス様と一緒に十字架の道を進んだのだ。試練の道のり。
これは本当に親しい関係ゆえに与えられるイエスキリストのシェア。
恵み、祝福よりももっと深い愛。

彼は、その後も苦しみを受けた。過去の暗闇からの攻撃は夜もずっと続いていた、戦いだった。妻が一緒に支えた。
御言葉、賛美、御言葉、賛美、御言葉、賛美
この剣と盾で一晩中。

そして、イエスキリストの御名によって宣言。

朝、心にあった苦しみがすっかり無くなっていた。
きれいさっぱり。
何回も言ってるかもしれないけど、決して人間には出来ない。

そして、同時に祝福が流れ込んで来た!

全く予想していなかった大きなプレゼントが与えられた!

その報告を仕事の合間にラインで受け取り、歩きながら主に感謝を捧げた。
主は真実。

彼らを実質的にサポートする必要があるだろうかと考えたりもしていた私こそ神さまを小さく見積もっていた。

勝利の主。

彼らは、天の裁判で勝利を得た。

サタンの名前の意味は「訴える者」
私たちの中に少しでも罪を残して置くなら、それを喜んで天に持っていき訴え祝福をストップさせようと必死だ。「絶対に罪を捨てさせるものか」と。

けれどイエスの御名、そして愛は遥かにそれを越える。

憎しみからの解放、自由を得た。
自分だけでは留まらない恵みと溢れる祝福が家族に周りに流れる。

"主は遠くから、私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。"
エレミヤ書 31章3節

御言葉は真実。
主の愛は誠実。

私たちは日々の選択によって将来を決めている。

罪と仲良くして苦しみと混乱を抱え込むか、十字架の道を主を歩み、恵みと祝福を受けるか。

一つ一つを勝利していく。負けて倒れても悔い改めて立ち上がる。

私たちの中に御言葉と賛美がある。
そして一緒祈る神の家族がいる。

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