あらかじめ決められた、家族にはなれなかった恋人たちへ

 この“須賀原みち”というペンネームを使うようになって、「同性愛者が見た『ズートピア』論 多様性と偏見を巡って」という記事で初めて公的なカミングアウトをして以降、書いてみたいことがたくさんある。一人の同性愛者として、極私的な目線を通じて今、この世界について、私がどうやって過ごして、いろいろな物事をどのように見て感じて考えているかを読んでくれた人に伝えて、それが何かのきっかけになればいいと思う。だから、本稿もそういったものの一つだ。以上、前説終わり。


 私には、これまで付き合ってきた同性の元恋人が何人かいる。その中で、最も大きい存在となってしまっているのは、ゲイコミュニティの外で知り合って足掛け10年くらい付き合うことになった人だ。

 当時、学生だった私は日常生活の中でその人と出会った。そもそもその人のジェンダーは男性(性的指向は異性愛)で、いわゆる同性愛者ではなかったが、私があの手この手で籠絡して、二人の間で明言はなかったものの、何年も恋人といえる関係にあった。だから、その人と共通のコミュニティにいる友人たちと同席した時も、友人にこちらから密かにカミングアウトをしていない限り、二人は単に「極めて親しい友人関係にある」と認識されていたと思う。

 その後、私たちは友人として、あるいは元恋人としてのつながりを保持したまま、恋人関係は解消され、いつしかその人は妻を娶り、子を成した。その人は、自分の家族を作ることが出来た。

 そこでふと気づいたのは、その人と恋人関係にあった時でも、私はその人から苗字で呼ばれていたということだ。

 もしゲイコミュニティで誰かと出会う場合、大体は偽名(例えば、二丁目での通名など)で知り合うことのほうが多い。近しくなる中で本名を開示し、世間の恋人たちの多くがそうであるように、恋人関係になる時には下の名前でお互いを呼び合うことになる。それが親密さのひとつの表れとでもいうように。ただ、ゲイコミュニティ外の友人関係において苗字で呼ばれることの多い私は、やはりその人からはずっと苗字で呼ばれ続けていた。友人たちとの席で、普段苗字で呼ばれている私を下の名前で呼べば、必然二人の関係を訝しむ人も出てくるだろうから、当たり前といえば当たり前だ。第三者の目がある場所と二人だけの空間で呼び方を使い分けるということはなかった。

 もちろん、それはただの偶然だったのだろうけれど、その呼び方をもってして、私とその人は“あらかじめ家族にはなれないと決められた恋人”だったようにも思えてくる。私がその人の苗字を冠することはなかったし、その人が私の苗字を引き受けることも、ついには訪れなかった。

 私と別れた後、その人は伴侶と出会い、自分の苗字を分かちあった。原因が同性愛的な関係に端を発するのかどうかはわからないが、私たち二人には出来なかったことを、その人は別の誰かとすることが出来た。私はそれを祝福したいと思う反面、羨望と劣等感にひどく苛まれてしまう。

 夫婦別姓の議論が喧しくなることからもわかるように、苗字を引き継いでいくこと、家族を持つということは、これから作っていく未来に深く関わっている。それは、私には出来ず、その人には出来たことだ。原発事故などを契機に大きく取りざたされた“サステナビリティ(持続可能性)”という概念は、未来への視線を内包していて、私にはその概念を理解することはできても、血肉を持って自分の中に根付かせることができない。だって、私がいくら恋人とセックスをしたところで、子どもという未来が生まれてくることはないのだから。少なくとも自然的には。

 最近、LGBT関連で「同性パートナーシップ制度」が世間的にも話題になっている。日本では東京の世田谷区と渋谷区に導入された制度で、両者には条例と要綱という違いなどはあるが、大まかにいうと同性カップルにもある程度、婚姻関係に準ずる権利を認めようというものだ。具体的には、「賃貸住宅の契約」「面会や医療同意といった医療機関での対応」「遺産相続などの財産管理に関する委任契約」「職場での福利厚生」などがある。【参考:『渋谷区「同性パートナーシップ条例」の解説』(アンパサンド法務行政書士事務所)『同性パートナーシップ 世田谷区と渋谷区の4つの違い』(ハフィントンポスト)】特に、「面会や医療同意といった医療機関での対応」は、パートナーが重篤な状態にある時、公的な婚姻関係を認められていない同性のパートナーが面会を拒絶されてしまったり、医療行為への同意が出来ないという現状に対する問題意識が前提にあって盛り込まれた。

 話を私に戻すと、これから先の未来、その人の今際の際に立ち会うのは多分その人の家族で、私がそこにいることはきっとないと思う。私たちが過ごした10年を超える時間を、その人は自分の家族と共に過ごしていき、その時間を共有した家族に看取られてこの世を去っていくだろう。そうであることを、私も願っている。ただ、それでも私は少し寂しく思ってしまう。これからその人が歩んでいくであろう未来を一番傍で見られるのが、私でないことに。

 これはただの未練のようにも聞こえてしまうだろう。でも、今、私にも恋人がいて、その恋人とこれからも幸せに過ごしていきたいと思っている。では、私はこの恋人と、どんな未来を、どんな家族を作ることが出来るのか。同時に、“あらかじめ決められた、家族にはなれなかった、恋人にしかなれなかった”その人と、この先どんな未来を作ることが出来るのか。この答えを、私はいまだに探している。
<了>

――最後に断っておくと、この記事のタイトルのパロディ元であるバンド「あらかじめ決められた恋人たちへ」の楽曲を、不勉強ながら私はあまりしっかりと聞いたことがない。ただ、このバンド名は最初に知った時からすごく気になっていたので、今回記事のタイトルに我田引水させていただいた。

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