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「絵を描くこと」=「描いた絵を他者に触れる場所に共有すること」=「自分で自分の命を絶たないようにするための行為」=「愛」=「自我を旅出たせてあげる過程」=「ヨガ」

僕は多分、2019年くらいから沢山絵を描き始めました。それは死なないために。お金を稼ぐためということではなくて、僕は「死にたい」と感じることがよくあったから、自分で自分の命を絶たないようにするための行為の一つとして始めました。

絵を描くことを始めたきっかけは2011年くらいから活動を追ってきている坂口恭平さんでした。彼は自殺者を0にするために、自分の携帯電話番号を公開し「いのっちの電話」という、死にたくなった人がいつでもかけられる電話をお金をとらず10年以上ずっと自発的に続けています。彼自身は鬱状態のときに本気で死にしそうになったことが何度もあり、その時に「手を動かす」ことで、なんとか死なずにいれたといいます。その状態の時に感じる風景、声、音、色など、手を動かして記録する。それはときに言葉だったり、絵だったり、音楽を演奏したり。

僕は中学生の頃までは絵を書いていた記憶があるのですが、授業でヒマワリかなんかの絵、黄色お花の絵を書いていた記憶があるんですけれど、僕はそのときから自分の見えているイメージと手の結びつきがずれていて、自分の見ているイメージを正確に手に伝達できなくて、写真みたいに正確な描写できなく、出来上がる絵は抽象的な絵でした。そのときの美術の授業の教師は、抽象的なものよりも写実的な絵を評価する方だったのかな?ちょっと真意はわかりませが、抽象的になってしまった僕の絵をみて「こんな絵はダメだ」というようなことを言われ、その言動にショックを受けたような感覚が残っているし、そのときの教師の顔も鮮明に見えます。それ以降、ず~っと僕は絵が下手だと思っていて、「自分なんてどうせ絵が下手だから」とよく言っていて、学校の授業以外で自発的に絵を描くことを殆どしていなかったし、今も上手いとは思っていません。

妻のノノちゃんと出会ってから、家でふざけて、二人で交互にお題を出しながら、絵を描いていくという遊びをしたときがありました。始める前は、僕は自分絵が下手だと思っているから、恥ずかしいような気持ちがありました。でも、ノノちゃんだから大丈夫かなと思って、その遊びにトライしてみましたた。そしたら、あまりにも僕の絵がお題のものと違いすぎている故に逆に味があって面白いと、ノノちゃんが愛情を込めて笑ってくれているのを感じました。僕の勘違いかもしれないけれど、僕が下手だと思っていた絵によってノノちゃんが笑顔になって喜んでくれるなら、僕もそれは嬉しいなって思いました。そしてそのときに、絵を描くこと自体は悪いことじゃないんだなって思いました。僕はそんな当たり前のことにすら気付いていなかったのです。「自分が絵を描くこと=悪いこと」だと思っていたんです。そのときに自分の描いた絵でも、自分の視点と他者の視点は違うんだなって気づきました。自分で自分を何かの檻に閉じ込めていたんです。僕もびっくりです。

「絵を描く」=「手を動かす」という行為をしてる間は「死にたい」ということを忘れてますし、紙に絵を描くと「既存の言葉では表せない、でも確かに感じている感覚」が物体となり目の前に現れ、目で見たり手で触れたりすることができるようになります。

「既存の言葉では表せない、でも確かに感じていたり、見えたり、聞こえたりしている感覚」

この感覚は、身体機能としての目や耳といった体で感じているものと、そうでないものが同時に存在しているように感じます。

一般的な言葉で言ったら「心の耳で聞く」「心の目で見る」というのかもしれませんが、僕はそのように捉えていません。なぜならその感じていることは、「心」という誰かが決めた言葉一つで片付けれないほど多様だからです。

書く(描く)ことをしない限りは外に出すことができない、声、見える風景、色など。それを、見えたまま、聞こえたまま、絵で描いたり、言葉で書いたりを試みる。すると、誰かが作った既存の言葉や色の名前などにあてはまらない感覚が沢山あることにも気づいていきました。

その感覚は外に出ていこうとする、または他者に伝達したいと思うのかもしれません。でも出口が見つけられなくて苦しくなってもがき、その結果、「死にたい」という言葉一つに集約されて外に出ていこうとしたり、もっといくと自分で自分を破壊しようとします。

声に関していうと、キャラも違うし、性もバラバラ。ずっといたり、いつのまにかいなくなったり、通過していく声。

絵を描いた後、「こんな下手な絵を書いている自分なんて許せない。こんなダサい絵を人の前に晒してはいけない。お前はダメだ」みたいに変にプライドを高く持っている声も聞こえ、それも自分を苦しめていることにも気付いていきました。そもそも描き続けていないから絵が上手くないのは当たり前なのにw この、人からどう見られるか?ということを過剰に気にし、プライドが高く自分で自分を痛めつける声は、僕が死にたくなる理由の一つだったということを今は認識してます。

この多様な声たちは、無視したり邪魔者のように扱うと声が大きくなり、言動や体にも影響を与えてくるので、むしろ声を聞いて、絵を描くこと、言葉を書くことなどを通して、外に出してあげる。この声に支配されず、その存在をそのまま観て、認めていさせ、旅立ちたいときに旅立たせる。それは「愛」といわれてる感覚なのかもしれません。

僕に聞こえてくる声。それは僕の所有物ではありません。むしろ「自分の心の声」と捉え、その声を所有してしまうからいつまで経ってもいなくならない。そして苦しくなる。だから届いた声は自分固有の声だとは捉えない。声は辿り着いては流れていく。体は声が届き通過していく媒体。届いた声はできるだけ聞こえたそのままの状態で出す。もしかしたらこの、実際は自分の声ではないのに、自分で所有してしまった声が「自我」と呼ばれれているものなのかも。

「自我の存在をありのまま観て、認めていさせ、旅立ちたいときに旅立たせる。」

それは僕がずっと続けてるヨガの練習でも行ってることでした。

だから、

「絵を描くこと」=「描いた絵を他者に触れる場所に共有すること」=「自分で自分の命を絶たないようにするための行為」=「愛」=「自我を旅出たせてあげる過程」=「ヨガ」

でもあるのかもしれない。これを一言で表す言葉は恐らくないですよね?そういうことなんです。一言で表す言葉はないけど、その人がその人を壊さないようにする、自分で自分を癒すための手段。自分を癒すと目の前で困っている他者に手を差し伸べる余裕が生まれる。その流れが沢山生まれていくといいなと思う。

僕に届いて通過してった声や経験から、自分で自分を破壊せず、その人がその人自身を癒すための手段としてヨガを使えるようになれることを目的とし、サステナブルヨガも作りました。いや、僕に届いた声は僕の所有物ではないから厳密にいうと僕が作ったのではないんだと思います。だから僕に届いてきた、一人一人が自分を癒すために使える手段は、ヨガに限らずこれからもっともっと共有し、留めず流していきたいと思います。

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