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123/1096 その女不審者につき

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で123日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

123日目、まだ熱で寝込んでいる。わたしは以前からちょこちょこといろいろなところに書いてきた通り、風邪をひくのがなぜか好きだ。
苦しいには苦しいし、苦しみはそのまま苦しみなのだが、身体が「やるときゃやるぜ感」に満ちていて、普段眠っている何かが発動しているのが好きだ。風邪はドラマティックだ。浄化であり必然であり秩序であり戦争だ。我が身体よ、暴れるがよい!と思う。

こんな中で投稿するのは大変だ。けれども、こんな時にしか書けないことを書きそうな気もする。毎日書くことをしていると、自分の山あり谷ありが反映されるのが嬉しい。

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風邪の面白いところは「こじらせる」ことがある、ということだと思う。こじらせるというのは、解決を難しくするということだ。
でも、問題を最小限にしか発露しないようにしようとか、問題は解決しなければならないという現状保守派の考えを捨てると、こじらせる方がずっと良いのかもしれないと思う。

問題がさらに大きくなる、というときは、もともとその人にこじらせるポテンシャルがあるからこじらせるのだと思う。病み上がりなのにふざけて裸で雪にダイブしたってなんともないこともあれば、こじらせないようにストーブの前で毛布にくるまっていても悪化することもある。

あんな無茶するからこじらせたのよ!と言われるとき、無茶しなくたってこじれたんだよ、今こじれなくたってそのうちこじれたんだよ、と思う。
原因と結果はそんな風には結びついていないと思う。

もしくは、なぜか病み上がりに無理をしたいときは、こじらせるポテンシャルを発揮したいからそんな衝動が湧くのかもしれないと思ってしまう。

そして、膿を出しきるほうに進んだことを、勝手にひとりで「俺は満足だ…!」と思う。
要は、本人の満足というのは、他者には決められないし、わからないことだと思うのだ。

風邪をこじらせた人に、「〜をしたのがダメだったんだ」「〜が悪かったんだ」「次からは同じ失敗をするな」と言うのは余計なお世話かもしれない。
身体は満足しているのかもしれない。だから、「ちゃんと悪くなれるのは健全な証拠でもあると思います!」と言いたい気がする。

二日前、坂爪さんに「ミユさんの不審者感がすごい」と言われた。わたしはハッとした。
ハッとしたのは、確かにそうなのだろうという気がしたからだった。わたしは多分、挙動不審なのだと思う。

坂爪さんにそう言われて、数々の「不審だね」と言われた場面が走馬灯のように思い出された。
近所のデパートに行って、夫がフラフラと家電を見ていたりすると、夫に見つからないように信じられない速さで買うものを揃えて驚かそうなどと思い立つ。
わたしは売り場をそろそろと移動して隠れながら進み、パンチェッタのパックを手に入れて見つからないように戻るミッションに当たっていて、物陰から夫を凝視して隙を狙っているときに、娘に背後から声をかけられ、何をしているんだと、あからさまにおかしいぞと言われたりする。不審者でいるとき、わたしは自然体であり、自分の本領を発揮しているのだと思う。

坂爪さんはそんなわたしを笑った。わたしも笑った。

ひろ子さんの家にいても、何かの目的でモソモソしている時に見つかって、ミユちゃんあなたこんなところで何してるの、と言われることがある。わたしはそんなとき、暗闇でアイラインが引けるかどうか、を試していたり、単にその位置に居たいだけだったりする。
ひろ子さんはいつも、そんなわたしを追求しない。可愛いわねあなた、などと言って笑ってくれる。

風邪をこじらせるポテンシャルのように、わたしにはもうそもそもの不審者のポテンシャルがあるため、それを無理に抑えて生きるとどこかに歪みが出るのだと思う。だから、不審者感をこじらせて発揮しているときに、それをどうやって隠すのかをアドバイスするより、わたしのことなど笑ってほしい。

今日はこのことを思い出して、わたしは何かに溶け込もうと努力したことがなかったなと思った。

多分正確には、溶け込もうと努力してもそもそも溶け込み方がわかっていなくて無駄な努力に終わったか、もしくはこの色濃い不審者感を隠すとなると、考え方からなにからすべてを変えて、それが神経系統への命令もなにもかもを変えて…ということが必須だなんて途方もなく大変だと直観的に理解して諦めたかのどちらかである。

でも考えてもみると、子供というのは皆不審者だ。
彼らは鼻の下にストローを横向きに挟んでニタニタして歩いていたりする。不審である。周囲から見ると、目的がわからないことをしているから不審なのだと思う。

でもわたしたち大人だって、自分にしかわからない、自分だけの満足のために、何かの得になどならないことをすれば良いと思う。
別にそれで不審に見える必要はないけれど、その満足感たるや、バカにならないものなのだ。
そしてこの宇宙は、その満足感がさらなる面白い満足感を連れてくるようにデザインされている。
次のやりたいこと、が出てくるということだ!

もし人生に満足したければ、まずは目的などなくてもいい、大義名分もなく、なにかを活かしもしない、結果が何かにつながったりもしない、単発で終わる、ただやりたかったことをなんの打算もなくすれば良いと思う。

スピリチュアルなことも、豊かになるためにするとか、人を変えたくてするとか、自分を変えたくてするとか、そんな目的でいる人こそがんじがらめに動けなくなっているように思う。目的はときに人を縛る。そんな不満の募ることより、現実の中の小さな満足を何よりも大切にして良いのだと思う。

タンポポの綿毛を取って、全部土の穴に埋めてみたければすればいい。うるさい営業電話がかかってきて、いきなり歌ってみたければ歌えばいい。それがあなたを満足させるなら。意味などなくていい。あなたが満足する、それこそが最良のことだと思う。
それから、逆に、無理に無鉄砲なことを、無理に大胆で変なことをして自己価値感を高めようとしなくてもいい。そんな嘘を自分につくと、自分が嫌がる。結果、不満足が募ってしまう。

結論を出そうとしなくていい、解決しなくていい。
こじらせても良くて、不審でもいい。
そう思って生きる自由のほうが、効率と要領の良い、立ち回りのうまい、不審に見えない人生よりわたしは好きだ。というか、それを失って生きるなんて、マジで笑えないことだ…辛すぎて、死んだ方が楽な気がする。

不審にならないように制御して、世間に合わせ、尊敬されるように、立派に見えるように、怪しくないように、つじつまが合うように、何かを活かすように行動しようとすると、わたしたちは時にわたしたち自身を失ってしまう。それはこの世界があなたを失うということだ。これを真に望んでいる人は、果たしてこの世界のどこかにいるのだろうか?

きっと、好きなようにすると、恥をかいたり怒られたり笑われたり仲間はずれになったりする。
ワシのようにな…!!
でも、確実に、それを笑って歓迎してくれる人はいる。わたしがこんなに怪しくて気の利かないアホでも、優しい読者さんは存在する。フィレンツェの仲間たちはいつも優しく迎えてくれる。
ごめんねとありがとうでいっぱい。

わたしは今こんな幸せの中にいる。
不審者感が激しくても、どうやらこの世は歩けるようだ…!!

というわけで今日は、わたしは不審者に見えます、でも楽しく生きられています、というお話であった…

それではまた、明日!!

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