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21/1096 憧れをあきらめないで

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で21日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

三週間が無事に過ぎた。これまでに何人かの方から教えていただいたことによると、21日、3週間というのは一つの節目となるらしい。それを過ぎると楽になるそうだが、3のつく周期で人は何かを更新していくものなのだろうか。明日からの自分の変化でそれを知ることができるのが楽しみだ!
 
気分としては、投稿するのがとりあえず当たり前となっているのが未だ喜ばしい。ただ、綱の上に立ってしまったような緊張感がある。後ろを振り向けば出発地点から21日分進んだのがわかるが、まだまだ綱の上で安定していない自分を感じるのだ。
綱を降りてしまえば、また前のようにでろ~んと寝転がれるのだが、もうあそこには戻らない。この綱の上で寛げるようになりたいのだ。
 
ひとつわかったのが、日課を当たり前のようにやっている人は、それが簡単だから続けられるのだと思っていたのだが、一定の緊張感を持ち続けているのではないかという有力な仮設が立ったこと。
身を持ち崩していないのだ。つまり、絶対にやらなきゃダメ、という感覚をちゃんとキープしているということ。
これが緩みすぎて自堕落になってしまうと、それはドラッグのようなもので、なかなか抜け出せなくなる。そして自分のやりたいことすらやれなくなってしまうのだ。
そこから抜けるには自力で努力しなくてはならなくて、それは誰にも代わってもらえはしない。その努力に踏み切るのは至難の業だとも言えるが、決意というのは、絶対にやらなきゃダメ、というデッドラインをぶち込む唯一有効なトリガーだと今は思う。

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今日の話題は、自分を幸せにする、ということについて、思うところを書いてみよう!
憧れや夢があっても、最近よく言われる、「好きなことをする」というのと「楽しいことだけをする、無理はしない」、というのを混同してしまうと、穴にハマったみたいになる、ということについて。
 
わたしの自分で実感することなのだが、わたしがこれまでに、したいことができなかった、というときがあるとすれば、それはいつも、
 
「勇気がない」
「継続力がない」
「自信がない」
「実績がない」
「時間がない」
 
などなどの、いわばすべて言いわけ、と言える理由によるものであった。
大それたことを思いついてしまって、それを伝えたいけど、そんなことを自分が言ってもなあ・・・とか、やってみたいけど、とてもじゃないが継続できる気がしないしなあ・・・とか、憧れるけど、魅力も能力も伴ってないわー・・・・とか、そんな気持ちで諦めてしまうのだ。
 
しかもそういうときに、楽しいと感じることだけをしておこう、嫌なことはしないでおこう。と考えてしまうと、そうしよそうしよ、いいのいいの、無理する必要ないし。ゲームでもやっとこ。
と、自分の不満を覆い隠してごまかしてしまう。
 
こんな自分を覆したいと思ったのは、秘行で自分が大事になったのがベースにあるが、やりたいこと、というのが何を意味しているかということに気がついたのがもうひとつの要因だ。
 
どういうことかと言うと、「やりたいこと=楽で楽しいこと」、だけではなく、「やりたいこと=今の自分には無理なこと」だということ。
やりたいことをやっている、その「なりたい自分」は、その時の自分とはかけ離れているのだ。だからこその希望だが、だからこそ、その時の自分には無理だとしか思えないのだ。
 
わたしは自分のことを可哀想だと思った。せっかく己を大切にしたい気持ちになったのに、かけ離れた自分になるのを鼻っから諦めていて、楽だけしていようなんて、「夢を見なくなった大人」じゃないか!!と・・
 
そんなのは哀れだ。寂しい。心のメタボっ腹だ、歯石の溜まった歯だ!動脈硬化だ、高血圧だ、糖尿病だ・・・!!
わたしは隠れて生きていたくなんかなかった。それが最大の望みならもちろんいい。だが、そうではなかったのだ。
秘行の素晴らしさを伝えたかったし、自分の気づきをシェアして他の人達と楽しみたかった。

しかし、現実の自分はと言えば、意識のことを勉強してきたとは言っても平均的なスピ好きの人と知識量は同じだし、これまで長いこと肉体労働ばかりをしてきたただの主婦であった。特技は目で物の長さを図ること、手先を使うこと、それしかない。
そんな自分が「自分の事を見ている感覚でいたら夫婦仲良くなりました―」などと言って、誰が聞くものか。発信するだけで怖いし、やり方もわからない。SNSについて勉強しなきゃならないだろうし、知ってもらえるまで地道な発信の継続も必要だろう。このやり方について説明しろと言われてもあがり症のわたしにはできやしないし、名乗りを上げたあとに自然に消えても恥だ。無理をせず、手を付けないのが一番無難だ。

何度も、こんな風に考えた。楽だ。そしてゲームをしていればたしかに楽しい。しかし、心はいつも曇りだった。

もし秘行を伝えられたらどんなにいいだろう。人の心には、自分が冷静に受け止められないことを冷静に見る力が、そこからただ自分を許してしまう機能が、さらにはこんなにも自分を愛しいと思うだけの愛が、もう備わっているのだ。わたしだけではなく、このやり方が合う人が他にも、もしかすると大勢いるのかも知れない。わたしがこれを伝えて、一緒に感動することがあれば、もうたまらずに感泣するだろう・・!!そう想像するだけで、涙が滲んだ。
 
わたしは自分を捨てておけなかった。そして、自伝の執筆中に、自分の希望に付き合ってやることを決めた。どうせ自伝で恥をすべて晒そうと思って書いている途中だ!ダメだったら派手にぶっ転べばいい。少なくとも、曇った心でゲームをやっているよりいいじゃないか!
そう思って、意を決して連載の途中でいきなり秘行を知った経緯を伝え、その後もできることから始めて今に至る。

その間、楽なときなどなかったと思う。ブログを書くたびに怖かった。公開の1クリックが恐ろしかった。お話し会も、講演会も、トークショーも、光栄で最高に嬉しいのに、清水の舞台から飛び降りるような感覚だった。
ただ、その清水の舞台から見る空は、いつも晴れているのだ!

わたしがただただ楽な方を選んでいたら、自分に圧も負荷もかけなかったら、今の心の晴れた自分はない。やりたいことが、もし今の自分には不可能に思えることなのだとしたら、ただ楽なほうを選んではならないのだと思う。
自分の恐怖と対峙する場面ばかりだろうし、ときには地味な努力が必要な日もあるだろうが、それらはすべて、他でもない、自分のためなのだ・・!

憧れを諦めている人に、これが届きますよう。
あなたには、あなたしかいないのだ。
他の人は、どうしたってあなた本人にはなれないのだから。
あなたは、たったひとり、あなた自身を頼るしかない。
だからじっと、あなたが動いてくれるのを無償で待っているのだ。

わたしからの希望。
どうか、あなた自身を幸せにしてあげて。
病める時も、健やかなる時も、
富める時も、貧しき時も。
あなたを愛し、敬い、慈しんでほしい。
のどが渇いたら何かを飲ませてあげて、今は無理したい、と言っていたら付き合ってあげたっていいじゃないか!そういうひとつひとつのことを、がむしゃらにやってあげるしかないんだ。

任せたよ。頼んだからな。

これを読んだが百年目で、
NOって言っちゃダメなんだからな!!!

自分のために、はい、誓います。と言ってあげて欲しい。

それではミユ牧師は寝ます、、、また、明日!
 

 










 
 
 

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