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1086/1096【往復書簡】無防備で、奇抜で、神々しく、怖ろしく芸術的なあなたへ

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1086日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。点線以下が本日の話題です

1086日目。残10日。残りの日数が二桁なのも今日が最後。明日からは一桁になってしまう。できることは限られていて、決まっている。ただただ幸せな、嬉しい、楽しい、ド感謝の思いを込めて、読者さんと自分との境界線を忘れて、喜びのうちに書くこと。そう在ること。それしかないのだ。

ただそこに向かえばいいとわかっているこの安心感よ。わたしには他にやることなんてないのだ。そしてこんなにルンルンと嬉しいこともないのだ。

わたしは読者さんのことが大好きだから愛を込めて書くけれども、読者さんじゃない人のことも大好きだから地球人に愛を込めて書く。でも自分も地球人だから、わたしはなにに向かって書いているのかな。愛が愛に向かって書いているのかな。宇宙はいつも自分を愛しているんだね。

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圭吾さんの記事へのお返事です。

圭吾さん、おはようございます!こちらヴェネツィアは夏日が続いています。わたしは居場所や毎日していることにあまり変化はありませんが、心は激変の中を過ごしております。毎日が薔薇色です。平々凡々の奇跡の中にあり、自分は幸せです。今日わたくしめは、この星の暦でいう西暦2021年の9月の15日の、地球上に実際に滞在しております。たった今この惑星の陸部にある、自宅として慣れ親しんでいる建物内で過ごしておりますが、それが今日もとてもフレッシュでとても面白いことだと感じております。

こうして改めて今のなにもかもを新たに受け止めてみると、当たり前のことがなにひとつなくて驚きます。わたしには、自分が人間で女性で地球にいて親がいて家があって食べ物を食べたり寝たりして生きていることを、至極当前だと思っていた時代がありました。しかしその幻が解けてみると、日常とはまったく、なんたる奇跡なのだろうかと思うようになりました。

先日家族で海に行ってきたのですが、海面を見ていて、このエメラルドグリーンの水が暗い宇宙空間に存在する惑星の表面にあることを改めてどえらい事だと思い、「ちょっとみんな大変だ!!みんなはこのことをどう感じてるのっ?!ねえ水があるよ!!惑星の表面に水があるよォオオオ!!」と思いました。

そのビーチに海水浴をしに来ている地球人たちは、このことを当たり前のこととして楽しんでいる様子に見えました。それもまた一興ですね。きっと最高の楽しみ方のひとつです。この青い惑星にいる時間限定の体験を、「別に大したことない」と思って当然のごとく堪能するのは、一万円札でおしりを拭くような贅沢極まる楽しみ方だと思います。そんな思いで彼らを眺めていて、地球人をなんと恵まれた生物だろうかと思い、涙が出ました。

そして同時に地球人たちを見て、なんとも独特の皮膚だなあ、面白い姿だなあ、頭部から毛髪が生えているのもすごいアイデアだな、神さまは本当にユニークなものを創るのだな、と思いました。わたしは地球人を美しいと思いますが、その感性は自分が地球人であるところに因るものでもあり、その枠を出てもっと自分の感性を広げて見てみると、地球人というのはかなり無防備で、奇抜で、神々しく、怖ろしく芸術的な姿だと思います。その無防備さに憐れみと愛しさと尊敬を感じ、涙が出ます。

私は、しばしば「俺は無駄に生きてきたのではないだろうか」とか「俺の人生でこれだけは本当だと思えるものはあったのだろうか」などと思い悩むのですが、金木犀の香りを嗅ぐと、ああ、これだけは本当だなって思えたりします。金木犀の香りを通じて過去の記憶が蘇り、自分は確かに生きてきたことを思い知ります。

わたしはここを拝見して、誠に勝手なことに、圭吾さんが生きていることは無駄でも有益でもないのではないかと思ったりしました。それは、外側のいかなるものも、圭吾さんの生きていることを無駄であるとか有益であるとか言うことができないのではないかと思ったからです。わたしたちは所詮遊んでいるだけなので、無駄といえばぜんぶ無駄、有益といえばぜんぶ有益ですが、そう考えるとわれらが自分でどう思うかにかかっていますね!わたしは自分のことを、無駄でも有益でもないと感じます。そして、完全に無駄だと言われたら、可笑しくて笑ってしまいます。「やった!!無駄であっても存在が許されているのだから、こんなに気楽なことがあるだろうか!!」と思います。逆に、有益だと言われたら、有益の定義がわからなくなると思いました。なぜなら、わたしが有益であるのならすべての人がおなじように有益であり、そうなると有益でないものなどこの世にないということになり、するともう無駄だと言われたときとおなじように、「やった!!どんなものもどうあっても有益なんだ!!なんであろうと有益なのだとしたら、こんなに気楽なことがあるだろうか!!」と思ってしまうからです。となると、無駄でも有益でも一切の差がないように思いました。なので、どちらでもないような気がしてしまうのです。これを書いているだけで可笑しくて楽しくなって笑いがこみ上げてきてしまいます。われらは面白いところにいますね!!

私には往生際が悪いところがあって、素晴らしい出来事に触れた時はそれを忘れたくないと強く強く強く思い、特定の曲をエンドレスリピートで自分に聴かせ続ける習性があります。数年前にオランダに足を運んだ際、ここでの出来事を忘れたくないと思った私は自分に小沢健二のある曲を永遠に聞かせ続けました。散歩をしながら聞き、横になりながら聞き、料理をしながら聞き、料理を食べながら聞き、とにかく徹底的に自分に聞かせ続けました。おかげさま(?)で、今では小沢健二のその曲を聞くたびにアムステルダムの素晴らしい思い出が蘇ります。素晴らしい人物と出会うことができた時も、同じ真似をします。あなたのことを絶対に忘れたくないと思い、特定の音楽を徹底的に自分に流し込み続け、大脳辺縁系に刺青を掘ります。そのおかげなのかなんなのか、普段は忘れているような出来事も、ふとしたことをきっかけに蘇り「ああ、俺は確かに生きていた」などと思って、グッと来ます。

なんと!!わたしには考えの及んだこともないようなことでした。わたしはなにかを「忘れたくない」と思ったことが、多分これまで生きてきて一度もないのだと気が付きました。だから、なにかを覚えておくためになにかをしたことも、一度もありませんでした。わざわざそう意識しているわけではないのですが、自分にはどうやら「もしも忘れるのなら、その時の自分にとってはこれはもはや重要ではないのだろう」という感覚があるといえます。これには男女の性差によるところが大きそうですね。わたしはたとえば自分が生きた証とか爪痕を残したいという思いがなく、それから自分が生きて存在していることを、記憶などで確かめたり、自分に証明したいと思うことがまったくなく、そこに虚しさもないのです。「今生きているから、生きている」という感覚があるのですが、これはまさに女性性的なものですもんね。圭吾さんはメンズなんだなあ!と改めて思いました。

いま、目の前にあるコップを眺めながら「コップよ・・・」という気持ちになりました。コップの健気さに胸を打たれました。コップはコップとしてそこにあり続ける。これはもう一輪の花と同じじゃないかと思いました。コップはコップであることの愚痴を言わないだけ、私の数億倍マシだと思いました。コップであり続けることの強さ、素晴らしさ、幼気さ、純粋さ、やばいです。コップに向かってコップンカー(タイ語で「ありがとう」)です。何度でも言わせてください。コップに向かってコップンカーです・・・!!!

はい!コップンカー!!この感じ、前回お伝えしたわたしのものを見た時の感じとおなじです!ものたちのただそこに無言で佇む健気さと純粋さとかわいらしさ、やばいですね!感覚が共有できた感じがして非常に嬉しいです。わたしはこの感覚でもっと大きなものを見るのも好きで、よくやっています。たとえば工場の窓、柱、シャッター、それぞれが別々のもので別々に存在しているのに、建物全体を見てみると建物ひとつが建物というものとして存在している感じがします。変な話に見えるかもしれませんが、窓には窓の、柱には柱の、それからそれを含む建物全体には建物のそれぞれに、意識があるように感じられます。工場や電信柱の可愛らしさったらありゃしなくて、ときどきそういったものを見つめてうっとりとしている自分です。この見方の範囲をどんどん広げて、その感覚で夜空の星々を見ると、それはそれは壮大な気持ちになります。ここにあるコップのように、きらきらと瞬く星々もそこに健気に純粋に存在している。ならばコップと星々にかすかにも優劣の差があるのだろうかと思います。コップにも五分の魂。コップだって輝く北極星とおなじだけ奇跡の存在だと思うと、万感の思いに至ります。星が奇跡ならば、太陽が奇跡ならば、自然が奇跡であるならば、この星に存在するいかなるものもまた、奇跡なのだと感じられて面白いです。

それから、自分の身体を見ていても、コップのようにそこに健気に存在していて胸を打たれます。わたしが歩きたくなって歩くお誘いをすると、壇珠さんの身体は黙って動いて黙って歩いてくれます。骨たち、爪たち、それぞれの細胞たちが、わたしを乗せて歩いて移動してくれます。そう思ってみてみると、自分の身体は天空の城ラピュタのロボット兵を思わせます。その目線で自分の無言の身体を見てみると、こんなに健気で純粋で可愛いものがあるだろうかと思います。わたしと”壇珠さんの身体”はいつも連れション、いつもつるんでいます。マブダチです。わたしが「肌が綺麗じゃない」「嫌な体型」などと言ったとしても、「じゃあもう連れションしない」「ムカつく、もう話しかけないで」などと言わず、殴ってもひっぱたいてもついてきてくれて、気まぐれに撫でればなんの恨みもなくしっぽを振ってくれる犬のように、自分についてきてくれる自分の身体という物体に敬意を感じます。ごめんよ、自分。いつだって離れずにいてくれてありがとう…と思い、申し訳なさすぎてありがとうすぎて、目頭に熱いものがこみ上げてきます。懺悔とは最上級の感謝のことであると思います。そんなふうに感じるとき、わたしはいつも自分に感謝を覚えます。だから、この物の見方がとても好きです!!

こんなことを言っちゃうことは大変失礼なことかもしれないのですが、失礼を遥かに凌駕する親しみを込めて叫ばせてください。これはもう、我々、実はただのクソガキなんじゃないだろうか説を。小学校の教室で待機する我々、壇珠生徒と圭吾生徒。二人はなにやらニヤニヤしております。これは、授業がはじまることが楽しみだからではなくて、教室のドアに仕掛けた黒板消しが担任教師の頭部に直撃するかどうか、それが楽しみ過ぎてニヤニヤしておるあの感じです。一言で言えば、悪戯。漢字で書くと重々しいから、ここはイタズラと書きましょう。何歳になってもイタズラを愛する我らの童心、これこそが宝なのではないのかと!!懲りずにイタズラを仕掛け続ける、この「仕掛ける」ということを何歳になってもやめられない、我々の童心こそが至宝なのだと!!
これを機に、私は世界に向かって叫びたい。みなさま、最近イタズラをしていますかと。嫌な上司に差し出すお茶に、しっかりボロ雑巾の絞り汁を入れていますかと。友達と入ったカフェで、水を持ってくる振りをしながら友達の水にだけ大量のシロップを注ぎ込み、友達にひと泡吹かせていますかと。旦那が憎くて憎くてたまらない時、眠っている旦那の口にホコリを入れたことはありますかと。あなたは、寝言を言いながらホコリを食べている人間の顔を見たことがありますかと。そういうところからなんですよと言いたい。学校に行く目的は、何もいい成績を叩き出すことだけではないのですよと。高得点を叩き出す喜びもあれば、イタズラを仕掛ける喜びもあるのですよと。将来役に立つ知識を学ぶ喜びもあれば、まったく役には立たないけれども死ぬまで「楽しかった記憶」として輝き続ける瞬間もあるのですよ、と。

ぬううう~~!!ここでわたくしめは圭吾さんに告白せざるを得ないことがあります。わたしは実のところこれまで生きてきて、イタズラなるものはほとんど仕掛けたことがないのです。それがなぜなのかというと、わたしはどちらかといえばイタズラに引っかかる側だったからです。そして顔に似合わずやり返すということも思いつかないようなボケっとしたタイプで、なんと自分はそのまま大人になってしまったのです。この期に及んでここでいい人ぶりたいわけではまったくないのですが、なぜか物心ついたときからそうでした。なので、自らイタズラを仕掛けようと考えたことがなく、そのような経験に乏しいため、そういう子を見ると「うわ~なんてアグレッシブなんだ…」と思って恐れおののいていました。弱気で陰キャな俺でした。

そしてそこに追い打ちをかけて、子どもを生んでしまってから、他者が可哀想なのがますますダメになって見られなくなってしまって、そのまますっかりイタズラに縁のない人生を送っておりました。楽しいイタズラを考えられるようだったらいいのですが、どうも悪ガキ偏差値の低い自分です…でもこう書くと圭吾さんばかりを悪ガキにしてしまう感じでなんとも心苦しいのです!!うわーーーん、気弱な俺でごめんねーーーーっっっっ!!今後人生の晩年で楽しいイタズラっ子になれるとよいのだけど!!泣

そうだ!ひとつ自分のベスト悪イタズラエピソードを思い出しました!!わたしは中学生だった妹を徹底的にいじめ抜いた妹のクラスメイトのことを、数年に渡り魔太郎のように恨んでおったため、ある日その人の家に電話をかけたのです。できるだけ男の声を作って本人に「お前最悪だな、ただじゃおかねえぞ」と怒り、その人の父親が電話に出たので父親のことも男の声のまま叱り、相手が謝ってきたので満足して、わたしが姉だとわかれば妹に迷惑がかかると考えてこちらの正体を明かさぬまま「じゃあな」といって電話を切るというイタズラ風の復讐兼いじめ防止措置を遂げたことがあります。今はこのようなことはしませんが、この経験により、自分はやろうと思えばやれるやつであることだけは判明しております!!押忍!!

わたしはどちらかと言うと、嫌なヤツが現れた時に、自分を責めてしまいがちでした。とくに幼少期から20代くらいまでの頃は、自分が変だから相手も怒ったのだろう、などという方向に考えがちでした。しかし、そんな弱気な俺も、長期に渡って妹をいじめて楽しんでいたやつに対しては相手本人に怒りがわき、どうにも許せませんでした。わたしも中学生だった当時、いじめっこ本人に言ってもいじめが激しくなるため、勇気を出して職員室に行って妹の担任の先生に直談判もしました。が、その先生はクソほどにも役に立たなかったため、正攻法ではダメなのだと悟り、自分がのちにメンズボイスにてイタズラ電話をかけた次第です。「お前の娘がやってることを教えてやろうか」「なっ…なんなんだ君はっ!誰だっ!娘がなにをしたと言うんだッ!」「人から恨まれるようなことしてないか、本人に聞いてみろやァ」みたいな会話をしたのを覚えています。声色を偽り男だと思わせたことや正体を明かさなかったことは情けなく、相手が怯えるほどガツンと脅したことは良くないので総合的にはやってはならないことなのですが、妹が喜んで笑ってくれて、心の底から嬉しかったのを覚えています。これは自分の心も幼かった頃の、しかもちょっとヘビーな例でしたが、わたしはやり方によっては良いイタズラもきっとあるような気がいたします!!そして先ほどは「今はこのようなやり方をしない」と書きましたが、それは本当ではないかもしれません。わが妹をいじめるやつが現れたら、今も本気のメンズボイスでイタズラ電話をかけるかもしれません!!

思えばこの往復書簡も、それからわたしの自伝もそうなのですが、あけっぴろげに思いを語り合ったりすること自体が、ちょっとしたイタズラのようなものですね!「こんな思いやこんなエピソードも公開してみちゃうぞ!!」というのが、読む人にとって突然落ちてくる黒板消しみたいな、水だと思って飲んだものにシロップが入っていたような驚きになってくれたら嬉しいです。読者さんに楽しいいたずらを仕掛けているような気分でもあります。

そんなイタズラに乗って、今回でもう165本目となるこの往復書簡の記事を読んでくださる読者さんがわたしは大好きです。そしてなにより一緒にこの楽しいイタズラ書簡を続けてくださる圭吾さんに感謝しております!わたしは自分がなにかを書いていて「今書いていることは良いことかな」と気になったときに、もしも出すべき内容だったらゾロ目やキリの良いの文字数を見せてくださいと神さまに頼んであります。それで、ふと気になったら今書いているものの文字数を見るというおかしな習慣を持っています。今日の記事は、はたと気になって見てみた時にピッタリ7000字でした。その事に気を良くして、超絶ウキウキして公開したいと思います!!また次回のイタズラ書簡を楽しみにお待ちしております!!遊んでいきましょう~!!ポイポイポイフル~!!ポッキーかっぱえびせんベビースターラーメン!!

(↑なにも考えずにロングセラーお菓子の名を書き連ねたら、上の状態で7272文字でした!!きゃあー!!)

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)