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大切な人を自殺で亡くして思うこと③

だからもう、自分に自責の念があるのは、仕方がないや…と思うようになりました。母のことについて、自分が自分をまったく責めなくなるだなんてことは、この先ずっと、我が身に起こる気がしなかったからです。母の自殺と自分とがまったく関係がないなんて、とても受け入れられる概念ではないと思いました。天変地異が起こっても、これだけは無理だと思ったのです。

私は、自分が母の死の原因のひとつであるという思いは、自分がこの先老いていくあいだ、和らぐことや、どうなのかわからないと思うことはあれども、完全否定するということはないのだろうと悟りました。それらの思いが、すっきりスカッとなくなったー!だなんて。それは自分にとってはごまかしで、嘘で、あり得ないことだと気がついたのです。だからなくすのは無理だ、戦ってもどうにもならないのだと、つくづく思いました。

私は、これまで格闘していた自責の念という相手に勝つことを諦めて、その思いと一緒に生きることにしました。母を救えなかった。母に可哀想なことをしてしまった。母の鬱ですら、多くの理由があり、私もその理由に関わる存在なんだ…こんな考えが正しくないというのもよくわかる。だから、これを誰に言ったとしても、そんなことはないよ、そう考えてはいけないよと言って慰めてくれるのだろうとも思う。けれど、自分はこの思いを廃棄しないと決めました。

決めてしまえばなんだか荷が下りて、母の死に自分の影響があったというのは、当然だったのだという思いに行きあたって、目が覚めたようになりました。私と母は、互いに影響しあっていた。これはそのまま、それ以上でもそれ以下でもなく、そのとおりなのだと思いました。

家族だったのだから、ましてや同居していたのだから、自分ももちろん母の死の理由の一端に影響していて当然だった。また同時に、私自身が母の死にこれほど強く影響を受けるのも、ごく自然なことでした。母と私は、良くも悪くも影響し合いながら生きていて、母はその環境で自殺で亡くなった。それが余計なものを抜き取って残る事実でした。

母には、その性格や人生における経験やさまざまな思いなど、私に知り得ないことがいっぱいある。それらと、私やその他の環境やいろんないろんなもののすべてが、これまで関わりあってきた。そうして母は自殺で亡くなった。だから、そこに自分は関係ないのだと無理矢理に思おうとするのはやめよう。今はどうしたって自責の念が湧いてきちゃうんだから、しょうがないんだ…もうそこを変えようとするのはやめよう。と、ちょっと遠くの景色を眺めるようにしてわかるときが来ました。

もう、”これまでのすべて”みたいなことと、戦うのはやめよう。母の自殺の理由は、長い間に紡がれたことで、なにかひとつの原因をピンポイントで示すことができない、膨大なものだ。だから、そこに私が含まれていないと言い切ることもできない。この答えを最大まで追っても、宇宙の全歴史までをも責めて、後悔の対象にするようなものだ…と思ったのです。

これは私にとって、激しく争っていた裁判が終わって、自分の無期懲役が決まったような感覚でした。被告人も自分、弁護士も自分、検察も自分、陪審員も自分。その争いが終わり、あとは生きている間ずっと、弔いながら生きようと腹を決めたような心持ちでした。

私は小さな仏壇のようなものを設置して、そこにお供え物をあげて、供養を始めました。母の亡くなったあの日、食欲がないといいながら砂を噛むような顔で昼食を食べていた母。その数日前には、背後の窓から夕陽が射す暗い自室で、椅子に座って消沈した様子で下を向いていた、痩せて小さくなった母…

思い出すと、正気が飛びそうなほどいたたまれず、謝っても謝っても謝りきれず、仏壇を前にして、涙が無限に出てきました。まだ飲んだり食べたりはほとんどできず、一日中涙を拭いながらかろうじて家事をして、本当にそれだけをして暮らしていました。

そのあと私は徐々に、お花をお供えしても、水をお供えしても、お酒や食べ物をお供えしても、こんなものが何の役に立つのかという気持ちに襲われるようになりました。母がそれを食べることも飲むこともできないのに、なんのためにやっているのかという空しさが襲ってきました。でも、やらないのはもっと悪い気がして、供養だけはする。そして毎日のように、お供えしたものを、回収する。

このとき、母がいないということを、ただただ確認しているのを感じて、ますます悲しくなってしまうのです。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)