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24/1096 死と心の月旅行

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で24日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

24日目だ。真夜中の12時になったところだ。日本はもう朝日が射している時間だ。チコリアコーヒーを飲みながらふと、この10倍の月日が経ってもたった240日なのか、大変だな、と思った。人は先を思ってしまう生き物だが、それは思っても仕方がないことだ。
初日に24日目の今日のわたしの気分など予測できなかったように、今のわたしには240日先のわたしがわからない。その日まで大変な思いで更新していくのか、楽々とこなしていくのかもわからない。生きているのか死んでいるのかもわからない。
だから先のことを思うのは、まるで、知らない他人の頭の中をあれこれ予測しているのと変わらないではないか・・!
人はどんどん変化して、毎瞬見知らぬ自分に出会っているのだなと月を眺めながら思った。
ちなみに、この「毎日投稿」は、一日にいくつか書き溜めて、それを使ってその後の数日間に順次アップしたりはしていない。毎日、フレッシュ投稿をするのが「毎日投稿」だと思っている。
さて、今日は何を書こうか!!

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本日の話題は、ぼんやりと霧のかかった黄金色の月を見て、果てのない悠久の時を思う気持ちになったから、遠くのことに思いを巡らせて書いてみよう。
 
わたしは、月を見たときに何を思うか、を大雑把に二種類に分けることができると思う。
シンプルに、あの月に行ってみたいと望むのか、そうは思わないか、というだけなのだが、わたしは月夜を見るたびにこのことを思う。

しばらく前に、スタートトゥデイの前澤友作さんが月旅行に行く計画を発表された。実際には月面に降り立ったり、月の周回軌道に乗ったりするわけではなく、“近月点”という最も月に近づいた部分に達して、そのまま地球に帰ってくるのだそうだが、わたしにとってみれば、地球から出てそこまで月に近づくというだけで、ものすごい体験だと思う。
 
それにチャレンジする前澤さんの好奇心を、子供のように純粋なものだと思うし、男の人らしいなあと思った。
 
宇宙船に乗って、月に行くんだ!と夢見ることができるのを、男の子らしいと思う。わたしの狭き見聞で、これまでに宇宙に行ってみたいと言うのは大抵が男性だった。男子には、夢を夢のまま見られるファンタジー力(りょく)があるように思う。わたしはといえば、月を見てもあそこに行きたいと思わない。子供の頃には、行ったらどうなるんだろうと思ったこともあったと思う。でも、現実的に月面を間近で見たり、月に降り立ってみたいという好奇心がさほど湧いてこないのだ。どうしてなのだろう。案外女性脳なのだろうか。それとも夢を見られないつまらない大人になってしまったのだろうか。実際に行ってみれば、こ、これが月の表面か・・・!と感嘆するとは思うが、許されるのならそれよりは地球上のあちこちに行ってみたいと思ってしまうのだ。
 
考えてみれば、単にまずは、アポロ11号の乗組員によって撮影された月面の様子に失意を感じたのが影響していると言える。わたしはあの途方もなく荒涼とした温かみを感じられない月の表面を見て、ファンタジーが壊れてしまったような感覚を覚えた。怖かった。
なんというか、現実は厳しいんだな・・と子供心に愕然としてしまったのだ。月の表面は黄金色ではないし、うさぎもかぐや姫もいないし、三日月に座ったりはできないのだと。
寂しいところだとすら言えない、寂しさなどという人間の温情との比較対象となる概念すらもない、灰のようなところだと思ってしまった。その子供心のイメージに未だに囚われているのかも知れないが、とにかく惹かれる場所ではなかったのだ。
 
今こうして大人になったわたしにとって、月というのは地球から眺めているのが一番なのだ。身丈に合っている。
決して月に行くことを非難しているのではなくて、それはすごいすごいことだと思っている。シンプルに、わたしが月に行って何をしたいかと言われたら、月そのものに対するアクションではなくて、そこから美しい地球を眺めたいと思うだろうから、これがわたしの感性なのだろう。
月に行く人がいるということを思えばこそ、自分がこんなにも地球が好きなんか!と知ることができる。そんな機会をくれる前澤さんに感謝している。
どれだけ多くの人がこれを機に、月に、銀河に、宇宙に、人間の存在しない場所に、青い地球の素晴らしさに、命に、死に、思いを巡らせたのだろう。
 
遠い場所と言えば、わたしは人間が思いを向けられるある意味で最も遠い場所というのは、宇宙の果ではなくて、死後の世界だと思う。
死とは、目の前にある、自分と一体の、決して切り離せないことだが、でも肉体を失ったあとの世界が一番遠いとも言えると思うのだ。
わたしはいつも、自分が死ぬことを思っている。毎日、いつだって死が頭にある。もちろん、少しもこれっぽっちも、ああ死んでしまいたい、と願っているとか、人生に失望しているとか、髑髏(しゃれこうべ・どくろ)の死神とか、お墓とか幽霊とか貞子とかを連想するようなおどろおどろしい感覚とかではなくて、わたしのこの人生がある時終わるということを肝に銘じているというだけのことだが、わたしにとってはこれが大好きなことなのだ。
 
わたしは長くても半世紀そこそこで死んでしまう。そこからちょっと長かろうが短かろうが、確実に死ぬ。このことを考えるのが怖いと思う自分を超えてみたくて、その恐れを探り当てては、怖いもの見たさのようにいつもその恐怖を感じている自分を静かに眺めている。

幸せを感じることと死は、切っても切り離せないことだとわたしは思う。死は、わたしの超未熟な人格を通して眺めると、幸福の条件のようなものだ。
肉体的にはある時死んでしまうのだ、と思うと、今が途方もなくめっちゃくちゃ貴重な体験だと思うのだ。
乱暴にまとめてみると、

いつかはわからないがある時死んでしまう、と考える
→オイ・・期間限定の人間体験かよ・・
→この触感とか味覚とか嗅覚とかもこんだけリアルなの今だけなんだな・・→とにかく時間限られてるなら目一杯楽しもう・・!(旅行者の発想)
→ヒャッホウーハレルヤ―肉体あるってすごいわーー
→生きてるって幸せ!!

と感じることができるから。
そう思うと、ベタな表現だが、何がなくとも生きているだけで幸せ、とも思える。永遠の命があったら、怠惰な自分は、何もかもがどうでも良くなってしまいそうだ。

けれども、心での死の受容と、肉体が生きたがることとは、また別のことだと思う。
どれほど死を覚悟し、どれほどにそれを受け入れていようとも、高いところから落ちそうになっていたり、溺れていたりする時の人間は、生きようともがくものだと思う。肉体レベルでは、人は、ただ生きたいのだと思う。

数年前、わたしは海で溺れかけた。海水浴中に急に波の様子が変わり、監視員たちがもっと浜に寄るように呼びかけ始めていたときだった。
突然うねるような波が頭にかぶさってきて、慌てたところで両脚が吊ったのだ。
塩水の入る目に、夫が娘を抱えて急いで浜に向かって泳いでいるのが映った。わたしの周囲に人はいなかった。
足の先がつくかつかないかという深さの場所で、脚を動かせなくて泳ぐことができず、激痛と海水を飲み込む非常時感と呼吸がままならないこととで、わたしの精神はあっという間にパニックに陥る寸前まで追い込まれた。
息を吸おうとすれば口から水が入り、肺に入れまいと体が勝手に喉を締める。このままでは自分は死ぬのだ、ということに驚くほど冷静に思考が及んで、その事実への絶対的な拒絶感に存在丸ごとで支配された。
 
その瞬間、己の意思を反映しているのかしていないのかも自分でわからぬ烈火のごとき決意が起こり、脚の激痛を無視して泳ぎ始めた自分がいた。驚愕するほどの痛みだった。その驚きのあまり、自分の身体がどこか他人事のように思えるほどの、猛烈な痛みだった。
 
それでもわたしは泳いだ。水をかいてもかいても一向に進まないどころか、鼻も海面から出せなくなってきた。洗われるように美しいエメラルドグリーンの水が、巨人の腕のように自分を軽々と水中に引くのが無情で無邪気でとてつもなく恐ろしかったのが、まだ生々しく記憶にある。
わたしは、助けて!!と思った。
助けて!助けて!誰か気づいて!こっち見て!!陸に向かて懇願した。少しでも口を出そうと仰け反って、波をかぶって反射的に前を向いたとき、チラと目に映った浜の様子が塗り替わったように忙しくなる瞬間を見た。ライフセーバーがわたしを発見したのだった。
笛が吹かれて、助けがやってくるのが見えた。あの時の身体中の安堵といったらなかった。全身が涙になっちゃいそうだった。
 
こんなにも生きたい肉体を抱え、心には無限に死を受け入れて幸福を見出すことのできる自由を持って、生きて死にゆくわたしたちはその矛盾の狭間にいるのだ。
生きる衝動そのものの肉体の中にありながら、死を愛す・・・そのど真ん中にバランスできたとき、何かが見える気がする。
まるで、青い地球と灰色の月という正反対の星の間にいるみたいだ。
その真ん中に行って両星のプレゼンスをハートで捉えたとき、人は何かを悟るのかも知れない。わたしはそれを知ってみたいのです!!と提案したら、前澤さん月に連れて行ってくれるかな!(くれません!!)

というわけで、今日の毎日投稿が、どなたかの「命を思う心の月旅行」の一助となりますように。 

では、また明日!
 
 
 
 
 
 

 

 

 
 
 

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)