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36/1096 自分に恋をするには・・

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で36日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

36日目にして、こんなことを思う・・・3桁にも達していないのに、なにを騒いでいるのだ、ゴールは4桁なのだぞ。1000記事を超えるんだぞ。今からキャーキャー言っていないで少し落ち着いたらどうなんだ。はい、左様でございますね、ごもっともでございあす・・・みたいな・・・
こんなことを考えると途方に暮れるから、今日も普通に書こう。普通に・・
 
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今日は朝から熱を出してしまい、起き抜けから悪寒でブルブルしていたが一日ですっかり良くなった。一昨日から昨日にかけてのひどい嵐でヴェネツィアは水浸しになって、サンマルコ広場が浸水に見舞われた。

アクア・アルタと呼ばれる浸水状態のサンマルコ広場

美しいヴェネツィアの島は約1500年前に作られた人工島。
5世紀頃のゲルマン人の侵略から逃れるために、現在の北イタリアにあたる地域にいたヴェネツィアの人々がヴェネト潟という干潟に逃げてきて、そこを開拓して住み始めたのが始まりだ。
彼らは大きな丸太を切り出してきては海中に杭として倒れないように立て、それを土台にして少しづつ干潟の上に建物を建てるという、気の遠くなるような方法でこの世界で一番ロマンティックな街を創り出したのだ。

それを知ったとき、ヴェネツィアの道、橋、建物を見ては涙が出た。侵略から命からがら逃げてきて、住み慣れた家を失って何もない干潟にたどり着いたイタリア人たちは、どんな思いで陸に戻ることを断念し、海中に試行錯誤しながら丸太を打ち込んでいたのだろうと思うと、たまらない思いだ。

わたしは一度義父の所有していた小型の船でクルーズに出て泳いだときに、流れが変わって船にたどり着けなくなったことがあり、仕方なくその干潟の湿地を歩いたことがある。遠目には美しい島々だが、未開拓の干潟のあまりに劣悪な環境に閉口した。
海水に浸った粘土の上にツンツンとした見慣れぬ草が密集していて、歩くたびに足がぐにゃりと沈む。さらにそこには小さなアブが大量に生息していて、それに刺されるたびにひどい痛みが走り、あとで脚が大変なことになってしまった。当時の人々が、わたしの思うよりも苦しんでいなければいいなと心から思う。

そうして先人たちの造ったヴェネツィアの幻想的な街を歩くと、この傍に住むことになった運命を未だ不思議に思う。8年経っても、まったく慣れることがない。見るたびに、腹の底から感嘆のため息が出る。わたしはなぜここに居るのだろう?!という思いが、いつまでも新鮮なままだ。

海外になど一度も行ったこともなければ思いを馳せたことすらないような田舎育ちの両親の間に生まれて、演歌を聴きながら育って、地べたで作業ばかりしていた自分がなぜ・・・
こちらに渡ると決定するその時まで、わたしの辞書には海外移住などというものはなかった。頭をかすめもしないことだった。
外国語修得、とか、ワーホリ、とか、通訳、とか、そういう単語たちの飛び交う世界が、月と同じくらい遠かった。一番自分らしくない、一番縁の感じられない、どこぞのハイソな人たちの世界だと思っていた。

先のことはわからないと思う。そこが、生きる醍醐味なのだとも思う。
わたしはヴェネツィアに住みたいなどと願ったことはない。完全に想定外だ。そして想定外だというのは、面白いことだった。
わたしがこれまでに信じていたのは、未来はわからない、それはきっと驚愕のサプライズだ、ということだけだった。

人の運命は自分で変えられると言うけれど、わたしは思う通りに現実をコントロールしたいとは思わなくなってしまった。想定した通りに進む人生は、果たしてわたしにとって幸せなことだろうか・・・
ルイ・ヴィトンのバッグが欲しいと思いました、そして想定通り、ルイ・ヴィトンのバッグを引き寄せて手に入れました。これに熱狂する人もいるし、わたしのように反応が薄い者も居る。どちらも良いのだと思う。
 
信じたものが現実になるのだとしたら、「願ったとおりの現実が手に入る」と信じれば、本当にそうなるのだろう。
では、あなたはなにを信じることを選びますか。と聞かれたら、わたしは「未来は常に想定外である」と信じることを選ぶ。
なぜなら、そのほうが自分にとっては面白く、それに必ず大丈夫だからだ。
お釈迦さまの手のひらから出られない孫悟空。そのお釈迦さまも孫悟空も自分だ。わたしがいるのは自分の手のひらの上で、そこは永遠の幸福なのだから。気がついていなくても、本当は誰しもがそうなように。
 
未来に願うことは、わたしの予測など痛快に裏切ってほしいということ。
鮮やかにルパンを裏切る不二子のように!!
だからルパンは不二子に永遠に飽きないのだと思う。

矛盾ではあるけれど、わたしは根拠はなくとも、未来にすでに安心している。どうなろうとも自分は大丈夫だろうと勝手に感じている。何に対してかはわからないが、キャーキャーピーピー(泣きの意。下痢でなく)オドオドガクブルしながら愚かさ全開で生きておっ死ぬのだと思う。
本当に欲しいものは大抵引き寄せ云々の前に自分で普通に取りに行くだろう。だから、あとのことは余興なのだと思う。
そして余興は知らないほうが面白いように思う・・・内容を知っているドラマを安心して見るか、知らずにドキドキ、ビクビク、ワクワクして見るか・・・わたしは後者が好みだから。
 
だからアンタの人生は常に波乱なんだよ!と言われたら、ぐうの根も出ないのだ。そのとおりでございます、と言うしかない。波の立たない想定可能な人生を好む人には理解不能なのだろうと思う。

けれども、自分はわからないほうが楽しいという変態だからどうしようもない・・今の自分が常に死んで、常に今の自分には想像もできないような自分になっていってほしいと思う。

自分にとっては、自分はいつも、不二子ちゃんでいてほしい。
そうしたらいつまでも、どう出るか、どんな現実を用意するのかわからない自分に、その人生に、永遠に恋するルパン三世でいられる気がする。
 
今日はここまで。また、明日!!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)