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381/1096 ザ・悩み

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で381日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

381日目、奮発して買ったキーボードがちゃんと機能しなくて腹ぁ立っている。ブチ切れそうだ。あ、と打って「あ」と表記されるまで15秒位待たなくてはならない。それに発狂しつつも書いている。

だが、もしこれが、キーボードを開発したばかりだとしたらどうだろう。
あ、と打ってとりあえず「あ」と表記されるのなら、万歳するのではないだろうか。とも思う。でもわたしはイラつく。

そんな中でも書くぞ、書くのだ!一体何の修行なのだろう。でも書くのだ。

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日本に台風が来ることや、台風の被害などがイタリアでもニュースになっていた。我が家はテレビをつないでいないのでテレビニュースでは見ていないのだけど、ネットのニュースで夫や娘も読んだそうだ。
世界はつながっているのだなと思う。

ここイタリアは日本から飛行機を乗り継いでもなんだかんだと移動に丸一日近くかかるような距離にある。

イタリアに移住したばかりの頃、わたしは「オラァふるさと日本からはるかはるか遠くまで来てしもうた・・・」と思った。

漬物と寿司と納豆を失ったと思った。家族よ友よ・・醤油の香りよ・・みたいな感傷が心のベースにいつもあって、いつもどこかがさみしかった。喪失感のなくなることのない生活だった。当時、YouTubeで演歌を聴いては泣いていた。北の訛りよ、茅葺屋根よ、田んぼよきびだんごよ絣のもんぺよ・・・!などと、慣れ親しみもないもののはずなのに日本を思い出させる全てのものが感傷的に思えたものだった。

悲しいことがあった日などには気持ちが追い詰められて、ボンジョ~~ルノ!と言われると、うるさい!おはようございますと言え!!間延びしおって、返事をする気にもならんわい!!などと思ったりする危ない人だった。

日本は遠い。当時のわたしのそのすべての切なさは、この思い込みから来ていた。遠くて行くのが恐ろしく大変なところだと思えていた。そうしてそのために、実に4年にも渡って日本に帰国することがなかったのだった。

帰らぬ間、日本はだんだん幻の国に思えるようになっていった。黄金の国ジパングよ・・幻の国大日本帝国よ・・・我は祖国の地をもう一度踏むことがあるのだろうか・・・おーい水島!一緒に日本に帰ろう!!と思い泣いていた。軽く気が触れていると思うだろうけれど、当時のわたしは真剣だったのだ。

人の思い込みというのは、そのときはそれが真実に思えるし、だからそれを証明する実感ばかりが感じられるものだ。日本人とイタリア人の違いを感じただけで、心の中でそこに「ああ、日本は遠いところなんだな」という味付けをしてしまう。なにを見てもそう思える。

外を歩く人々の顔の彫りが深い。やたらと美しい。まるで彫刻のようだ。腰が高くて脚が長くてお尻が後ろに出ていて、ああ、我々日本人とはかけ離れたDNAだ・・・こんな人達の住むところに来てしまったなんて、遠いはずだよ日本・・・とか、
 
おいおいイタリア女達よ・・・なんでアパレル店で手にとった服を床に捨て置くんだ!ハンガーに戻せハンガーに!!奔放にもほどがあるぞ!!日本はなあ、人前でこんなことしたら、みんな瞳のない真っ白な目でお前を見るんだぞ!!ああ、まったく文化の違うところにいるのだなあ、やはり遠いはずだよ日本・・・・・とか。

ところが、何度か日本とイタリアを往復するうちに、だんだんその意識に変化が現れた。同じ惑星上なのだから、そんなに遠いわけじゃない、みたいな気になってくるのだ。まあ同じ人類じゃないか、まあ似たようなもんさ、などと。地球って大きくて小さい。それは相対的なもので、視点を変えればどちらの感覚にもなれるのだ。

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人の意識というのは水のようなもので、どんな形、どんな大きさにもフィットする。わたしたちが日本にだけいれば、そのスケールに合うように。日本を出れば、国際単位のスケールに、国際間移動をくりかえせば、やがて惑星のスケールでモノを捉えるように。それぞれの状況に適応してくれる。

わたしが、日本が遠いと嘆いていた頃、それは絶対に変えようのない事実だと思っていた。日本とイタリアの距離は縮まったりはしないからだ。
江ノ島の奥にイタリアがあったらいいのにとまで思ったけれど、そんなことは起こらない。こればっかりは、どうにもならないことだ。

だから、日本が遠いために起こるこのわたしの切なさも、それに伴ってどうにもならないことだと思っていた。これぞまさに、悩みの典型的な構造だと思う。「ザ・悩み」である!!

遠いから辛い
→遠いのはどうにもならない
→じゃあ辛いのもどうにもならない
 
この観点から見ると、永遠に解消できない「悩み」の出来上がりだ。
だから悩んでいるときというのは、その一つの観点からしかものを見られないでいる状態、だとも言える。

上に書いたように、わたしがこのことから解放されたのは、単に日本とイタリアの間を往復したから、である。

繰り返す。それに慣れる。慣れたことは、自分の注意をさほど注ぎ込まなくとも脳内で処理できるようになる。そうなると、自分にとって、さほど難しくも大きくもないことになる。移動が簡単に思えてくる。距離も大したことないと思えてくる。すると、あれ、遠かったんだけど、距離は変わらないんだけど、でももう大したことじゃないや、だからなんかもう切なくないや。と思える。

わたしの住まいは今もイタリアだし、イタリアと日本の距離は当時とまったく変わらないのに、だ。こうして「ザ・悩み」は根本的に悩みではなくなる。

この、悩みが悩みでなくなる、ということ。つまり、解決などしていないのにもうそこに悩まないことこそが、ほんとうの悩み解消なのだと思う。

だから、じゃあどうしろって?と言われれば、
まずは、悩みの中にあって、悩む自分を変えようとしないこと。
それから、悩みの原因をなくそうとしないこと。
 
そこは、放っておくことなのだ。
放っておけばいい。語弊はあるだろうけれど、どうにかしようとしなくていい。一緒に悩んで、ああ寂しいとかああ悲しいとかああ切ないと思っていればいい。そこは、おかしくも悪くもないのだから。そんなあなたを悪く思わんでおくれ。

それよりも、そこに悩みがあるまま、そこで動いてしまうこと。
日本が遠いからと言って、いつまでも行かなかったら永遠に遠いと感じたままだ。遠くなくなってから行くのではない。遠いと感じられているのに行くのだ。

どんなことだってそうだ。枠を破り、世界観を壊して広げるときというのは、必ずこのプロセスが大なり小なり起こっている。

食べられないものがあるとき。
それを食べられるようになりたければ、「食べられるようになってから食べる」のではない。つかそれはどだい無理な話である。
食べないでどうやって食べられるようになるというのだろう。
若かりし頃、わたしは青カビチーズが食べられなかった。くっさ!!と思ったからだった。今は大好きな食べ物のうちのひとつである。なぜか?それは食べるうちにあるとき美味しいと感じて、食べられるようになったから。
そう、答えは簡単で、食べられない状態のまま、食べるのである。それでダメならあきらめもつく。

この「実際に三次元物質を利用した行動→それの反復」こそが、我々人間の使える魔法のうちのひとつである。ものの見方を変えさせ、感覚を変え、あなたを別人にし、あなたの世界をまるっと別世界に塗り替える。その最も手っ取り早い方法のひとつなのだ!

太っていて嫌です、人と話すのが苦手です、それに悩みます、自分を責めてしまいます、似たような人を責めてしまいます。

そうか、ならば、先に悩むのをやめ、先に責めるのをやめればいい。
実際に、行動で。
え?悩んでいるから、悩まないのは無理??
大丈夫だ。そんなときにはこの技を使ってみておくれ。

その技とは、「悩む自分を持ったまま、別人格の自分を用意して動く」。
これである。決定打である。悩んだままでいいから、その自分を持ったまま動く、というのはそういうことなのだ。そう意識するだけで、人って器用にそれに適応してくれる。「悩む自分よ、そこにいていいよ。そこでおびえてていいよ。そこで嫌がっていていいよ。もちろんそんな反応もありだけど、自分もそう感じるけど、でもそれにいつものように負ける自分とは別の、それをよそに動いちゃう自分もいるよ」である。

動いてなにをすれば良いかわからない?
それは、その悩みがなくなった暁にはやっているであろうこと、である!

日本は遠いんだから、どうせ行って帰ってきたって距離感変わらないんだから、長旅になって疲れて帰ってくるだけだよ、寂しさなんて解消されないよ!
という自分を、「そーだねそーだね、ほんっとそうだよね」と思いながらも、その言うことを聞かないで、実際には行ったり来たりする。まるでそんな距離なんてなんとも思っていないかのように。

日本が欲しいなら、日本に手を伸ばす。行く、繰り返す。すると、あれっ。。。が起こる。

距離に悩むなら、わざわざその悩みのど真ん中に入っていって、その距離を移動してみないと解消されないんだな。。

先に食べないと解消されないのよ。
先に着てみないと、
先に自信を持ってみないと。
先に笑い、
先に気にしないかのように、
先に悩んでいないかのように動いてみないと。

別人のように動く。これは魔法である。

心の嘆きをそのままに。
「嘆きをなくす」のではなくて、嘆いたまま動いて、嘆かない自分に出会うこと。・・・え?別の自分を用意するのが難しい・・?

うーむ、ならば、個人セッションに来ておくんなまし。一緒に見つけましょう。(笑)・・・と、宣伝になってしまったけれど、自分で暗中模索、五里霧中、匍匐前進(違)であれこれチャレンジしてみるうちに、きっと気づけばその悩みの外にいるはず!大丈夫だ!

悩みがある人はぜひ、その悩みは放っておいて、まずは悩みがあるままでいいと思ってみてほしい。それから、悩む自分をそのままそこに存在させておいていい、とも。その点において、まずリラックスしてみて。

それから、「へーんしん!じゃじゃーん、いつもと違う自分~!」を使ってあれこれやってみましょう!悩みのある人は、ちょうど器を大きくするチャンスを持っている、ラッキータイムにある人。悩んでいるだけで大吉です。せっかくならばそれを活かして、枠の破壊と生まれ変わりを楽しんでみてね。

というわけで、今日はお悩みについて書いてみました。
それではまた、明日~!

【数限定・個人セッションのお申込み、受付が始まりました】

少数ですが10月末からの個人セッションの受付が始まりました。
ご相談内容、話したいテーマなどはご自由に。

恋や夫婦間の悩み、秘行のこと、その他なんでもOKです。
90分間、対面でのセッションです。
(怖くないです、わたくしめは優しくひょうきんな中年の女性です(笑))

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSeIRsTUjer4nwCWa8pICSXbbcrasEqDDjiFoTze9nDA0hwlyQ/viewform?vc=0&c=0&w=1

【東京・トークライブのお知らせ!!】

11月に、なんとあの「いばや通信」の
坂爪圭吾さんとトークライブを行います!!

テーマは「ファンタジーの魔法の使いかた」。

現代の「禅を極めた一休さん」のような
皆さんご存知の「奇跡の存在」坂爪さんと、

この世界に生きる不思議や面白み、過去にも未来にも囚われないで今を生きることについて、それから誰もが使える「ファンタジーの魔法」の使い方について、105分間を語り尽くします!!

人は本当に魔法が使えるのかどうか。
使えるとしたら、どうやって・・?
そんな楽しいトークにしたいと思います。

どうかみなさん遊びに来てね。

真面目な、変な、常識外れな、不思議な、変人なご質問も遠慮なくしてくださいね〜❣️

この珍イベントの場で、みなさまにお会いできるのを楽しみにしてます!!

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イベントその他おすすめ情報もチェックできますので、ぜひ見に来てね。


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