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113/1096 宇宙に振り込む【楽しい気貯金】

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で113日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

113日目、晴天なり!窓からはヴェネツィアのマルコ・ポーロ空港から世界の各地に飛び立つ飛行機のつくる飛行機雲がいくつも見える。
113日目は、200日目も静かにやってくるだろう・・・という感覚とともに、これまで日数でいちいちアップダウンしていた気持ちがあの飛行機から見下ろす地上のように小さく鎮まっているのが見える。

たった3日続いただけで、たった1週間続いただけで、大騒ぎしていた自分を思い出す。
小さかったぜ、自分!そして、今の自分もきっと小さい。自分が育つことは避けられないと思うから、そう思う。でもそんなことは相対的だからいいんだ。。小さいミユさんとして一時的に存在してくれた自分に、ありがとう・・・あなたがいないと、小さかったぜ!と思うこの嬉しい気持ち、知ることができなかったよ!

育つと、「育った!!!」という喜びがあるのだと思う。
この、「小さかったぜ!」という育った喜び、それだけのために育つ、それでいいのだと思う。育った結果伸びた能力によって何かを上手に得るためではなくて、その喜びのためだけでいいのだと・・・!!

小さいということは恥じることでも悪いことでもないと思う。
芽が出ないと茎も葉っぱも出ないのだもの、どっちが良いも悪いも上も下もないのだもの!

芽「自分は小さくてダメだなあ・・・」
葉「何言うの、君たち芽がいなかったら僕ら葉はこの世に出られないんだよ?」
芽「そうだけど僕小さいんだもん、君は大きくて立派だもん」
葉「いやいや、君は育つから大丈夫。僕は君の将来の姿だよ」
芽「でも小さいの嫌なの、役に立たないもん」
葉「君は自分を芽だと決めつけているからそう思うんだよ。葉の素だと思ったらどう?」
芽「でも僕、どう見ても芽だよ?みんな僕を芽だって言うよ?」
葉「ふふふ、じゃあずっと芽でいられるかどうか、一緒に観ていようよ」
芽「うん!ほら、よく見て、僕がどこから見ても芽だってわかるよ!」
葉「はいはい、いいよ」
葉「あれ?葉っぱになっちゃった!」
葉「だから言ったじゃないか!」
葉「いいなあ、花は、あんなに綺麗で・・僕葉っぱだから綺麗じゃない」
葉「おんどれはいつまで同じこと言っとんじゃー!!全部お前なんじゃダホがーーー!!」
芽茎葉花「あ!!ホントだ、全部僕だった!!僕は僕と話してたんだ。じゃあこの後枯れるのも僕、枯れた後の土も僕?僕ってどこからどこまでが僕なの??」

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こうして思いつきを書いていて、書いていることが楽しいなと思う。
いつも着地点を決めないで書いているけれど、書いていると勝手に着地するから、それまで何かを追いかけているような気持ちで書いている。
ちょっと、虫網を持って蝶を追っているときに似ている。蝶を捕まえることよりも、蝶を追っている時間が楽しくて追っていた感じがするから。
でも、捕まえた!というゴールがないと、追う意味がなくなってしまう。
自分は、ゴールのためのプロセスが楽しくて何かをする、ということが好きだ!
今思えば、何をしていてもそうだった。庭工事をしていても、シャツを作っていても、そのゴールに向かうことと、過程そのものが楽しかった。
このとき、自分の中の女性性と男性性が仲良く手を取り合っていたなと思う。

例えば、編み物をしようと思う。
2メートルのマフラーを編むとする。
編んでいるのを単に楽しんでいるのが女性性で、編み終わるのを目的に編んでいるのが男性性。ただ延々と終わりのない長いマフラーを編んでいるだけでもなければ、編み物は楽しくないのに、2メートル編み切るというゴールに向かっているだけでもない。

2メートルのマフラーを編んでいる間も、編み終わったときの喜びも、ひとつになっているのが楽しい。

その間に起こることは、編み物がうまくなる、マフラーが出来上がる、というプロセスだ。その面白みに身を任せることがわたしは好きだ。
例えば、マフラーを編んで、それを売って、それによって得られたお金でよっちゃんイカを買って食べようと思うなら、それだけが目的なら、編んでいる時間や編み終わった喜びはどうなってしまうのだろう。

わたしが何かをしていて楽しいなと思うとき、そのプロセス自体が楽しいということと、ゴールを達成する喜びとが一緒になったときだ。

そのどちらが欠けても、それらが一緒になったときの楽しさにちょっと負ける。目的なく何かをしていても、なんとなく時間を無駄にしている感があったり、目的のためだけに何かをしていても、プロセスがただのタスクになったり。どちらも、ある程度好きなことをしているはずなのに、なんとなく、これでいいのだ!という感じがしない。
 
これに悩む人が意外と多いのではないかな、と今回の日本滞在中のお仕事を終えて思った。
好きなことをする、だけだと目的がなくてなーんかつまらない。でも、目的のためだけに何かをするのも、これまた辛い。その気持がよくわかる気がする。

先の、編み物をしてマフラーを作って、それを売ってよっちゃんイカを買おう。というとき、それを楽しむためには、まず編み物自体がしたくて、かつ、マフラーを作るということが単体で燃える目的であり、売るということが楽しく、よっちゃんイカが好き、という条件を満たしていないとつまらなくなってしまう。

わたしにはこうしたことが非常に難しい。
今これを楽しく書いている。一応燃える目標として、3年間書き続けるというものがある。もうこれでいっぱいで、これを販売につなげたり、それによってカップ焼きそばを買おうと思うと、書くのがタスク風になってきて苦痛である。お金はありがたいし、カップ焼きそばは大好きなのだが、全部を一緒にできないのだ。

わたしは、書くことが目的で書いていればいいと、短絡的に思う。
そのときに、とても楽しい気を放って書いていると、きっと書いたことによって楽しいことが起こる。きっと、お金やカップ焼きそばよりも、もしかしたらもっと楽しいことが起こる気がする。

楽しいことをしよう、好きなことをしよう、というとき、自分の人生の時間を費やして取り組むに値する楽しいことをして、それをしているだけで達成されるゴールをつかみにいく、そのプロセス全部が面白ければいいのじゃないかな!
 
その結果、もしかしたら、マフラーを編んでいるだけでは、こうして毎日何かを書いているだけでは繋がりようのないような、おもろいことが起こるのかも知れない!
 
お金のためにやっていること、その作業自体が楽しくないのなら、それに命の時間を使うことを寂しいと思っても良い気がする。
もしくは、ただ楽しいだけのことしているのに満たされない時は、なんか燃える目標を作るのもいいのかも知れない。

砂場で、トンネルを作るんだ!と思って夢中でやっているときのような気持ちでできること、砂に触るのも楽しく、トンネルを作り終えたときに「やったぜー!!」と思えるような、なにか。
あとでそのトンネルが、波にさらわれてなくなってしまっても、楽しかったーー!!と後腐れなく思えるなにか。

できたトンネルで金儲けをしよう、ということのためにやるより、きっと純粋な喜びの気を放てる気がする。
それによって、何が返ってくるのかはお楽しみだ!!
こんなふうに、自分の人生に福袋を用意して生きるのって、とても面白い。
さあ~次は何が起こるだろう、今年はどんな年になるだろう!
今日もまた、楽しく書いて楽しい気を放ってしまったぞ?!
楽しい気貯金、みたいなものを、こうして宇宙の口座に毎日振り込んでいると思うと、なんだかちょっと申し訳ないくらい楽しみだ!!
すごい利子がついて、あとで想定外のミラクルとして返ってくるのだもの!(ホント
 
というわけで、今日はそんな時間を持つのっていいね、という楽しいご提案であった!
それでは、また明日!


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)