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20/1096【クイズ】わっかるかな~?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で20日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

20日目がやってきた。今日は区切りの良い日だ!
小さく、ひとり密かに、めでたい感じがする。こんなふうにパーソナルな喜びができること、これも目標のある生活の楽しみだと思った。
自分VS.自分、自分という女王のために自分という敵を倒そうと、自分という騎士になった気分だ。ひとり3役の自己共演である!
 
女王様気分も、何かをやり遂げる騎士の気分も味わえる。唯一同化できない人格が、敵としての自分だ。なぜなのか、これは今ならよくわかる・・・それはすでに過去の自分だからだ。そして欲しくない自分だからだ。
あんなに慣れ親しんでいた、もう同化のできない己というボス敵に、飲み込まれないで突き進めますように。
 
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今日の話題はあるクイズについて。
俺が昔小学生だった頃、妹は下級生で、父さんは君主制で、母さんは無個性だった・・・わっかるかなあ~~わっかんねぇだろうなあ~~
えー・・話題がズレましたが、わたしは、~が昔~だった頃、と思ったときにどうしても松鶴屋千とせのこの漫談を思い出してしまう。
韻を踏んでいるのがなんとも痛快で、ついつい組み合わせを考えてしまう。

気を取り直して、わたしが昔小学生だった頃のことだ。わたしは本屋で元千葉大教授の多湖輝氏の 「頭の体操」なる本に出会った。
当時、自分のことをちょっとはデキるやつだと思いこんでいたわたしは、頭が良くなることに多大なる好奇心を持っていたのだ。
題名を見て気になって手に取り、その中のクイズたちにすぐに夢中になった。ご存知のかたも多いと思うが、「頭の体操」シリーズは、ひたすらに創造的思考力を上げるための秀逸なクイズが載っている本だ。
単に幾何学的な難問などが出てくるものとは違って、常識を捨てて発想の転換をせねば答えにたどり着けない、大変味わい深くて痛快な解答を持つ名クイズばかりなのだ。

わたしはそれにすっかりハマって、お年玉をもらったり、お小遣いがたまってきたりするとひたすらその本を買い集めるようになった。
そして一問一問を真剣に考え、正解を求めて悶絶したあの幼き日々・・・解けなかった問題の鮮やかな正解を知るたび、してやられたと膝を打っていい知れぬ喜びにスパークした。
知性とは計り知れない宝だ、自分の想定の範囲外に出ることは痛烈な喜びなのだ、人類とは素晴らしい生き物なのだと本当に心が躍った。

今日は、その中のあるとてもシンプルで奥深いクイズについて書いてみようと思う。
これはわたしの記憶に頼ったものだから、問題文は本に掲載されているものとは正確には違うとは思うが、問題の趣旨はこの通りだ。

二人のケチな酒飲みがいた。
ここに形の違うコップが2つあり、
一方のコップには酒が並々と注がれている。
ふたりはこれを半々に分けて飲もうと考えた。
コップ以外に何も使わずに、二人から絶対に文句の出ないように半分にわけるには、どうすればよいか。

さて、このクイズの大事な前提は、二人の酒飲みがケチであるということ。二人共、少しでも酒を多く飲みたいのだ。そこに譲り合いの精神はない。
そして、そんな二人から絶対に文句の出ないように半々にするためにどうすればよいのかを考えるのだが、この「文句の出ないように」というところが最大のポイントなのだ。さて、正解がわっかるかなあ~~?
 
※正解を今すぐ知りたくない方は、この先を読まないでくださいね。
 
正解は、
まず二人のうちの一人が、自分がどちらをとっても文句がないと思えるように酒を2つのコップに分ける。それからもう1人が、その2つの酒の入ったコップのうち、自分のほしいと思うほうを1つ選ぶ。残ったほうを、酒を分けた者がとれば、両者から文句の出るはずがない。  
 
さて、いかがだっただろうか。

わたしは子供の頃に知ったこのクイズが鮮明に記憶に残っている。わたしの好きなところは、絶対に文句が出ないようにするには正確に半々にする以外にないと思ってしまう現代人の、「己の感覚ではなく他に信頼に足るもの(計量カップや計量器)に頼るのが当然だとする思想」を打ち破るシンプルな解答であること。それが、この二人の酒飲みの完全な心理戦であるという点だ。子供心ながらに、楽しくて楽しくて、じっとしていられないほど興奮したのをよく覚えている。

なぜこのクイズについて書いたのかというと、これがわたしにとって人生の良い教訓となっているからだ。
わたし達は常日頃から、自分ではなく自分の外側にある「自分よりも信頼の足ると思えるもの」に正解を頼ってしまいがちだと思う。
しかし、このクイズの正解のように、納得するには、真に満足するには、どんなことも己で決めるしかないのだ。
 
たとえばだが、自分にとって何が幸せなのか。自分は何が好きで、何が欲しいのか。何をもって満足とするのか。どんな状態をもってして、自分を幸せだと認めるのか。
こうしたことを、外側のものさしで測って決めている間は、いつまでも不満が残るように思う。自分の中から湧き出てくるもので取捨選択することではじめて、心からの喜びと自己信頼が生まれるように思う。

矛盾するようだが、たとえば何かを決めるときに「俺は今これについて自分で決めるのではなく、この人の選択に任せたいんだ!」という場合があれば、それを心からの自分の選択とすれば良いと思う。
酒をコップに分けた酒飲みが、これなら俺はどちらのコップだろうと納得する!という分量を自分で決めたのと同じだ。そこに自分の選択だとする認知があれば良いだけのことではないだろうか。

自分の心の声を聞きたくとも、なにが本当の自分の声なのかわからない、という人がいる。それは、どこかに正解があると思うからだ。
しかし、正解などどこにもないのではなかろうか。
その時の自分が、「これや!」と思えればよいのだ。それもないときは、ないのが心の声なのだと思う。
 
わたしの最近の経験でいうと、わたしは長年の間怠け者だったため、夢中になることだけはやり遂げるが、没頭できない事柄にはとことん怠惰であった。ある日、日記を書こうと思う。3日後にはやる気がゼロだった。ピアノの練習を続けようと思う。ある日それをすっかり忘れていたことを思い出す。仕事に没頭して掃除を忘れるし、規則正しい暮らしもすぐに崩れてしまう。そして、没頭していた仕事すらも、急に方向性が変わることがあった。とにかく全般がこの調子だった。
 
こんな状態の時、人は「自分のやりたいこととは何なのだろう」「自分の本当の使命とはなんなのだろう」と思ってしまいがちだ。
だが、わたしはその時その時が、やりたいようにやっていた、のだと思う。これまでは、「何も長続きしないで、衝動のままに生きる人」がわたしのしたいことだったのだと思う。
 
そして今は、そんな自分を脱してみたくなってしまったのだ。
「こないだまで、地道な行動が嫌いだって言ってたのに!それを好き勝手にやめちゃえるのが幸せだったんじゃないの?」と言われても、いいのだ。
「怠け者でいること」すら途中で怠けてやるのだ。

だから、これがわたしの使命なのだと思っている。頑張らなくていいのに、そのままでいいのに、追い込まなくていいのに、変わらなくていいのに、と言われたとしても、少しも気にならない。もちろんそれもそのとおりだと思うが、わたしは今とても変わりたいのだ。

そして、「ただ単に毎日、日記のようなものをひとつ投稿することを続ける」ということが、社会的意義もなければ、将来のためになることでも、経済的な効果をもたらすことでもないことも、わかっている。
しかし、馬鹿にできないのが、それによるわたしの「幸福感」だ。
こいつが何を連れて返ってくるか、わかったもんじゃない。
望んだ欲を引き寄せること以上に、わたしはこの「福袋」に遥かにもっとワクワクするのだ。

いわゆる、想定内のものを引き寄せるのが好きなものを買う買い物だとすると、この場合はサプライズプレゼント、と言えよう。その内容が何だとしても、わたしは宇宙を信頼している。いつだって、わたしの乏しい想像力の範疇を超えた、それを痛快に裏切るなにかぶっ飛んだことが起こるからだ。
もちろん、それが空っぽだって構わない。
わたしは今すでにこのチャレンジによる幸福感があるから、すでに満足なのだ。
 
順を追って説明すると、まず、今がどんな状態だとしても、そこから自分の選択で物事を選ぶ。そのときに、「これがわたしの選択なのだ。誰がなんと言おうと、これがわたしの幸せなのだ。いいじゃないかそれで!」と自分で思ってしまうこと。
誰に言わなくても良いから、勝手に心の中で決めてしまうのだ。
たとえばそれが「怠け者の状態」だとしても、それを常識に当てはめて自分を責めている暇があったら、「好きでやってんだ。これが自分の選択なんだ」と、ちゃんと意識することなのだ。これを自分の責任だとはっきり思うことだ。それは、ちょっとくれぇは武士の心でもって、バッサリ決める必要があるのだと思う。何かを待っていても始まらない。

すると、その状態から、「ああ、満足だ!」という気が勝手に放たれる。
すると面白いことに、それが倍になって返ってきたように、満足するようなことが起こってくる、というわけだ。
(シンプルに、引き寄せの法則の大元の真理:あなたの放ったものが、あなたの受け取るものだ。に因る)
 
だから、幸せ探し、使命探し、自分探しなど今すぐにでもやめてしまって、さっさと物事を自分で決めることである。決めるときのポイントは、自分の決定だもんね。自分でこれでよしとするんだもんね。
と思うこと。
あのクイズの、酒を分けた酒飲みと、好きな方を選んだ酒飲みを思い出すのだ・・・!幸せの計量カップなどどこにもない。これで幸せだと、決めるのは自分しかいないのだ・・・!
 
彼氏に、上司に、夫に認められれば幸せだ、そう思うなら、
それは、酒を分けるときに人にやってもらうのと同じことだ。
わたしが昔未婚だった頃、妹は初婚で、父ちゃんは貧困で、母ちゃんは悔恨だった。当時わたしは母や彼氏を優先してさんざん優柔不断に生きていた。そのころはそれをやりたかったのだと思う。だからよいのだ。
そして、酒を人に分けてもらっていては、そのあとどっちのコップを取っても満足などないと知った。形の違うコップだろうとそれに目盛りがなかろうと、自分で決めるしかないのだと。
わっかるかなぁ~~・・・わっかるだろうな!!
 
というわけで、長くなりましたが、今日はこのへんで。また明日!

 

 

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 



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