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27/1096 身だしなみ、みんなどうしてる?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。
3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で27日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。
そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくない人は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

27日目、明らかに感覚に変化が訪れた。この毎日投稿に、何かどこか、「慣れ」を感じる。それによってなのか、夜中に書くのをやめてみようという意思が湧いてきた。
これまでの26日間、誰にも邪魔されない夜中の静かな時間に集中して書くということが必要だった。多分、そのくらいエネルギーを注がなければ、止まっている自分に宣言でエンジンをかけたあと、ギアを1速に入れて進むということができなかったのだと思う。そしてこの「慣れ」は、とりあえずエンストを起こす心配がなくなったことを意味するように思う。

自堕落を治すのに必要なことを、順を追って、身をもって、近道も遠回りもなしに経験している気がする。
ここは自分を信じてこのまま眠って、朝起きてから書くようにしようかと思う。はじめて宣言したときのような不安を感じるが、不安にダラダラと付き合っていたって良いことなんかないのは、自分でよくわかっている。そこを打破するためにやっているのだ。眠ろう。朝早く起きて書こう。頼んだぞ、明日の自分よ!!では、おやすみなさい。

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昨夜は本当にコテンと眠ってしまった!朝これを書く、というのが新鮮で嬉しい。夜やっていた作業が朝の作業になると、なぜか仮だったものがメインになるような、深夜番組がゴールデン枠になったような感じがする。
 
今日の話題は、身だしなみについて思ったことを書いてみよう!

土日に、友人知人がヴェネツィアに訪れてくださった。わたしは久々にお出かけ着を着て、メイクもサボらずにやって、ちゃんとして出掛けた。
普段家ではすっぴん家着で過ごしているし、近くのマーケットに行くときなどはササッと適当なものに着替えて済ませてしまうし、わたしはどうも、身ぎれいにしておくことに対して不精なのだ。
 
"お出かけスタイルでお出かけ"すると、やはり身が引き締まる。ショーウィンドウにたまに映る自分が普段と違ってちゃんとしていて、ずいぶんマシだなと思う。そうでないときは、まったく無防備なところで突然ガラスに写った自分を見たときに、ギョッとすることがある。時によっては閲覧注意のショッキング映像だ…!
 
昨夜は友人たちと別れて家で夕飯を食べたあとに、フェイスブックでシェアされていた動画を見たら、それがホームレスの人達を散髪することで支援するボランティア活動をしている男性を映したもので、とても感動した。
頭髪をカットしてきれいに整えてもらったホームレスたちは見違えるように素敵にかっこよくなって、その喜びと感謝を手放しで表していた。何らかの理由で家を失ってから家のない暮らしをする間に自信を大きく損ない、社会生活に対する積極性を失った彼らにとってこれが自己肯定感のアップにつながり、社会復帰への意欲を大きく助けることもあるそうだ。
 
わたしにはその気持がわかるような気がした。自分に手をかけて適度に外見を整えてやることは、他者とのコミュニケーションで成り立っている社会に前向きに関わる要素になりうると思う。
なぜならわたしは自分の顔がスッピンで、髪もボサボサで、着ているものもしょーもないような時には、やはり外に出たいと思えない。誰かに会うのもとても楽しめない。

だから、この場合の「適度に」というのは、自分の納得点を指すのだ。
人によってはメイクが不快に感じられたりするし、逆に極端な例を言えばそのままパーティーに行けるほど着飾らない限りどこにも行きたくないと感じる人だっているのだから。そしてその納得点がどこであろうと、誰にもとやかく言われなくてよいことだ。

わたしはこの身だしなみに今よりずっと無精だった間、それはそれは楽だったのだけれども、それが自分をハッピーにしてくれてはいなかった。
それをわかっていながらにして、その自堕落な習慣から抜けられずにいた。それはとにかく楽だったから。(ホームレスの状態を楽だと言っているのではない。それとこれとは別で)
不精も行き過ぎで、もはや汚かった。ペンキと泥のついた服で近所の店をウロウロしていた。しかし、行動する範囲は徐々に狭まり、よく会う親友と家族といるぶんには快適だが、外に出る気があまり起こらずに閉じこもりがちになってしまったのだ。

今はその頃より良くなって、だいぶ快適さと積極性とのバランスが取れるようになった。自己受容感の深まりとともに自然とそうなったのだが、こうなってみて思うのは、当時の自分が自傷的だったということ。
嫌な姿だな、と思っている人をそのまま人前に出ていかせるなんて、例えば自分の子供にはさせたくない。それを自分にしてしまっていたのだから。
もしくは必要のないと思えるときにまでフルメイクでキッチリしていた頃もある。どちらも快適ではなかった。

わたしの納得点は、最低でも軽いアイメイク、髪は広がりすぎないようにして、服はどこか女性らしさがあって、普遍的なものか流行に遅れすぎていないものを着ていること。ブカブカTシャツと短パンとつっかけサンダルではほとんどの人に会いたくない。もうちょっとマシにしたい。
なぜなら、似合うならまだしも、わたしがブカT短パンでいたりすると、自分の容姿の欠点ばかりが際立つ。背ばかり大きくてひょろひょろしていて、それが全然嬉しくないのだ。自分が可哀想になる。

では、もしも自分がこんな風だったら、もっと積極的に外交を楽しめるのに、と思える点は、と考えるとどうだろう。これを納得点の対比として積極点と呼ぶとする。

積極的に外に出ようと思えるように、となると、アイメイクだけではなくて肌もちゃんとファンデーションで整えあって、チークもホワワンと入れてあって、髪は美容室帰りのようにちゃんとしていて、服はプロのコーディネーターさんにお願いして似合うものを選んでもらって着ていたりしたら、そりゃあもう、ウキウキするだろう。良いアイデアすら湧いてきそうな気がする。

わたしはアイデアで遊ぶのが好きだから、ではここでさらに、理想の姿は、と考えてみるとしよう!
まず、考えてみようとするだけで気持ちが明るくなる。すでに嬉しいぞ!

まず、プロのメイクアップアーティストさんに、なんとかしてこの状態から艶っぽくしておくんなせえ、とお願いしてフルメイクをしてもらって、髪はもちろん凄腕の美容師さんにお願いして似合うようにカールヘアにしてもらって、…それからなんだろう?ネイルもツヤツヤのジェルネイル、マツエクにも行って、服は・・自分で決める。(積極点よりも自分で決める要素が増えたではないか。結局一番の満足というのは自分で選んでこそのことなのだろう・・)
こんな事を考えていたら、小さな頃、人形を着せ替えてとても楽しかったことを思い出した。
 
そんな姿でいたら、どんな気分になるかと考える。やはり、納得点の気分に比べてずっと自分でいることが楽しく思える感じがする。
さらに、不精だった頃の気分と積極点や理想点を比べると、ホームレスたちの喜びがとてもよく分かる感じがする。だらけて塞がっていた気持ちが持ち上がって、心地よい緊張感が行き渡って気持ちが張ってくる。わたしも人と会おう、建設的でいようと思える。
 
この毎日投稿にしてもそうだが、気持ちが張るのは悪いことじゃない。人をクリエイティブにしてくれるような感覚もある。
わたしのように、人前に出たくないと思うほど不精な状態でいた人はあまりいないと思うが、人には楽をしすぎて、もう自分を気遣うことすら面倒になってだらけてしまって自分を傷つけるということもあるのだと思う。
 
だから、ちょっと気を張ってみて、自分を喜ばせるためにいっちょ決起してウキウキすることをやってみるのはとても良いことだと学べたのが、この毎日投稿の大きな収穫のひとつだ。
 
怖いのは、食事をしたりお昼寝をしたりしていたら、あと1時間ちょっとで日本は日付が変わってしまうということ。早くアップしなくては!
今日はちょっと気を張るどころか、だいぶ焦ってしまった。
でもこんなスリルも楽しいものだ。不精でない生活を、楽しんでいこう!
それでは今日はここまで。また、明日! 
 

 

 

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

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