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1063/1096【質問回答】読み返さない日記は、書いても意味がないの?

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で1063日。
※本題の前に、まずは怠け者が『毎日投稿』に挑戦するにあたっての日々の心境をレポートしています。点線以下が本日の話題です

1063日目。残り30日を切るのが、軽い恐怖と言える。それはさすがにやめてくれとすら思ってしまう!しかし終わらせるぞ。怖い方に行こう。これまでも、怖い方に行くのはいつも自分にとっていいことだった。

毎日投稿を始めることがとても怖かった。始めてからも、後悔するほど怖かった。それもすぐに薄らいでくるかと思ったら、100日経っても200日経っても、いつまでも次の日が気になって怖かった。そして怖いままでここまで来てしまった。

日々の投稿をなんとか乗り越えるうちに、ここに注ぐエネルギーが本当に大きくなっていた。そのため、これがなくなるのは、喩えるとビート板を得てそれを活かそうと考え、すごいエネルギーを注いでどんどん沖に向かって泳いでかなりの距離になったところで、ビート板だけがなくなるような感じだ。いや、ここで放り出されるってか!という感じがする。

もう浜は見えないから、元の場所には帰れない。別の島を探そう…
時間をかけて進んできた距離からは、確実な影響を受けるものなのだなと改めて思う。

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本日もご質問への回答ですよ。

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日記やブログなどは、あとから読まないと意味がないというわけではなく、自分から湧いてくるものを言葉にすることに最も大きな意味があります。

言葉にするということは、心にあるものを”見える化”する作業だと言うことができます。”見える化”、つまり可視化することによって、「これは”自分”ではなく”自分に起こったこと”だ」と認識することができます。

言い換えてみると、わたしたちは本来はどんな考えにも囚われずにいることのできる存在だということです。執着や思考や感情というのは、わたしたちそのものではない、ということですね。

たとえば、例が変かもしれませんが、トカゲに近寄ろうとすると、彼らはサッと逃げますよね。トカゲくんがびっくりしたからです。では、びっくりすることがトカゲそのものと言えるかというと、そうではありません。トカゲくんは一時的に驚くという反応をしただけです。「トカゲとは、イコール驚き反応のことである」とは言えないのですね。トカゲくんは、驚きそのものではないのです。トカゲくんは、驚きを通過させられる、ニュートラルな存在です。

これと同じように、わたしたちに起こる感情や思考は、わたしたちそのものではありません。それをいつまでも自分の中に置いておかずに、見える化して認めるのはよいことです。

わかり易い例でいうと、例えば何かのギャグを聴いて思い切り笑ったとします。何度も笑うと、おなじことでは初めのようには笑えなくなってきます。あまりに何度も繰り返して聴くと、笑いの反応がほとんど起こらなくなります。

けれども、笑うのを我慢すると、おなじことがいつまでも可笑しいのです。校長先生が話している間のように静かにしていなくちゃならないときにちょっとでもおかしいことがあると、笑えないがためにいつまでも可笑しいですね。話が終わって爆笑すると、収まりますよね。

他にも、たとえば頭にくることがあってそれを我慢していると、怒りが蓄積していきます。けれども、思いっきり怒りを認めてみるとどうでしょうか。そのあとは最初のようには怒れなくなってきます。

極端な例をあげると、犬におしっこをかけられたときに、最初はコラ!!!と叩きたくなってしまうとします。でも、何度も何度も、それこそ1時間も叩き続けたいと思うでしょうか。大抵は一回叩いただけでも犬くんにとても悪いことをした気分になり、もう叩きたくなどなくなるものです。あっという間に怒りのボルテージが下がってきて、怒りが自分のものではなくなっていきますよね。なんでも一時的に通過するものなのです。なぜかというと、それはわたしたち自身ではないものだからです。

日記を書くなどのことを通して、思いを文章に綴ったりすることも同じような効果があります。感じたことを表現することで、それが自分の外に出て表現の材料になったのを目にすることができます。それはパソコンの画面や紙の上に現れているので、物理的に自分の外に出ていますよね。脳は、自分から離れたということを認識します。すると、もうおなじことを何度も認識しようとはしなくなります。わたしたちは、表現された感情についてはだんだんどうでもよくなり、興味を失っていく、ということです。

自分から離れたものだと認識できるだけで、大きな影響があるのです。だから、読み返すかどうかということよりも、書いたことに意味があるのですね。実際、一度書いてしまったら、もう同じ文章を何度も何度も書こうとは思わないはずです。

それは、自分から離れられるものだったこと、自分そのものではないことがわかったからです。だからこそ、読み返そうと思うほどの興味もなくなっているのです。それは意味のないことをしているどころか、とても良いことをされていると思いますよ。気が向く間は、浄化の効果もあると思って書いてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、他者の書いたものを読んで良い気分になるのは、浄化を目にしているからということができます。自分がどう言葉にしてよいのかわからなかったものが、素晴らしく可視化されていたりすると、こちらまで浄化が起こるということですね。

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この”可視化”の効果を利用して、自分を上手に浄化している人たちもたくさんいます。せっかくなので、このときの秘行的な効果倍増のポイントをここに記しておきますね。

たとえばちょっと勇気を出して短いスカートを履いて家を出たらば、近所の気難しくて有名な岩頭石固郎というおじいさんがたまたま道に出ていて、こちらを見た途端顔を歪めて、「ああいうふしだらな格好をするから今の女はだめなんだ、まったく!!」と怒ったとします。それでこちらは大変ショックを受けてその場にいるのもいたたまれなくなってしまった。

このことを文章にしてみるときに、その場面をドラマか何かの脚本のように、ちょっと第三者目線で書くのです。他人事のように書くと言ってもいいかもしれません。

わたしは少しためらいながらも短いスカートを履くことに決めた。どうしてもわたしは短いスカートを履くことに照れや抵抗が出るようだ。そのことをわたしは、思春期に母から徹底的に反対されたためではないかと勝手に信じているのだ。

そして勇気を出してそのスカートを履いて外に出た。すると、近所の岩頭さんのおじいさんが散歩に行くところに出くわした。わたしは自分が反射的に身構えたのを感じた。文句を言われると思ったのだろう。

岩頭さんはこちらを見るなり顔を歪めて、「ああいうふしだらな格好をするから今の女はだめなんだ、まったく!!」と言った。わたしにはそれが、口汚く文句を言う様子に見えた。それを聞いて、わたしは自分が悪いことをして責められているときと同じような反応をしてしまった。

つい自分がおかしいのだという判断をしてしまったのだ。わたしは日頃から怒った人に影響を受けやすく、自分が悪いのだと判断してしまいやすい人物だ。岩頭さんが短めのスカートをどう感じたとしても、それは彼が彼自身の価値観について話しているにすぎない。

つまり彼はそうやって自分の考えを自己紹介をしているだけなのに、わたしが勝手にそれに同調してしまったのである。わたしは彼のその自己紹介に触れて、その場にいるのもいたたまれないような気持ちを起こして、そそくさとその場を去るという反応をした。

とこのように、他人事のように書くのです。あえてちょっと大げさにしてみましたが、こうして自分に起こったことを淡々と他人事のように書いてみると、可視化による浄化の効果がより大きくなりますよ。

そしてそれをもう読み返さないとしても問題はありません。読み返さないものは書いても仕方がないのか、という考えは、「昔の恋人のことをあとから何度も何度も思い返したりしないので、ではもう新しい恋はしないほうがいいのだろうか」というのと同じです。恋は思い出すだけのためにすることではありませんよね。書くことも、読み返すだけのためにすることではないのです。

自分に起こったことを自分の言葉で表現するのは、自分を良き方法でケアしているということだと考えてみてくださいね。

さて、今日はここまで。

それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)