見出し画像

102/1096 【洗脳】人を可哀想だと思うな、って?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で102日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

昨日に引き続き、今日も思う。また1日が経っている!そして今そのことを思って、時間が恐ろしきスピードで流れている、と思った直後に、時間の感覚が変わった。
わたしは気づいてしまった!これをどう説明する?!今まで自分は、時間がゆっくり流れていると無意識のうちに思っていた。しかしそれはニュートラルなものに思い切り味付けをしているのだとわかってしまったのだ。どんなスピードだと感じていても、それは味付けじゃないか!
時間の流れるスピードは、その体感は、自分でいつも勝手に創り出しているのだ…流れてなどいないのだから…本当に、流れてなどいないのだから!!
これを体感する時が来るだなんて!!久々の衝撃で人格がテレビのスイッチを消した時みたいに数秒間落ちた。うおおー…

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

あまりの衝撃で何を書けば良いのかわからないほどだが、こんな時は頭に浮かぶものをどんどん書いていこう。

わたしは『時間は本当は流れていない』ということを、この「時間が流れているという錯覚」の中にいながらにして体感として理解するなどということは、自分には絶対に起こらないことだと思っていた。
だのに、だのに…!まったく目が覚める思いで、まだ唖然としている。

なぜこんなことが、今日このタイミングで起こったのだろう!

昨日の大阪のトークライブ以降、ハッキリと強まった思いがある。それは、自分を信じたい、信じられたらきっと何かが良くなる、という教え込みが世に蔓延っているということだ。
わたしは昨日、自分を信じることなど捨て切ってしまおう、そんな幻想は叩き斬って殺してしまおうと思った。言葉は優しくないが、これは自分に対する純粋な思いなのだ。

よく世間では「人を可哀想だと思うのは失礼だ」と言われる。可哀想だと思うのは愛ではない、とか、こちらが可哀想だと思うから相手も可哀想な人のままになるのだ、とか。
その言い分を信じていた。そうか、可哀想だと思うのはおかしいよな、可哀想な人なんていないんだよな、と、盲目的に思っていた。しかし今は、それは洗脳が解けたのではなくてそれ自体が一種の洗脳だったなと思う。

わたしは、人は大変な重圧の中で生きているのだと思う。ある意味で誰しもが可哀想ベースの上に生きているのだと。可哀想なのは、切なく悲しいのは、健全な生命の営みのベースなのだと思うのだ。

それがなくて、どうやって幸せを感じるというのだろう?どうやって愛の形を知るのだろう?!

人は自らの制限で自分を自分足らしめているのだと思う。人間でいるというのはそういうことだ。
わたしは秘行で自分を見たとき、ものすごく悲しかった。可哀想だと思った。そんな哀れな自分がとてつもなく愛しいと思った。

哀れじゃない、可哀想じゃない!と思う必要なんて、どこにもなかった。見ているのは自分だ。強がって見せたい対象でない自分に対しては、可哀想だと思われてもそのままでよかったのだった。

そんな自分に持った愛しさは、正確にいうと慈悲だった。わたしは無限の自由なのに、わざわざ人になって、わざわざ好き好んで制限の中にいて、わざわざダメな人だと思って、わざわざ苦しんでいる。

それを、好きでやってるんだからいいじゃないか、と思おうとするのはどこかに無理があるのだ。
わたしはこの世を苦がベースだと、人は哀れなのだと元気に認めてしまっていいと思った。
それを、そんなことはない!と思いたいのは、まだまだ苦に対する悪いイメージがあったからだと思う。
苦はなかなかのアトラクションだ。
だから、みんなまずベースとして可哀想、でいいと思う。なにかこう、自然だ。苦を排除しようとすることの方が、不自然だと感じるのだ。

個人セッションなどをしたときに、わたしは相手の方のお悩みを聞いて、平気でそれを辛く苦しく悲しいものと思う。思ってはいけない、などと思わない。
ただ、それを、排除しようとも思わないということだ。抱えていたいだけ抱えていていい。認め切っている。なんなら立派だとまで思う。雄姿にすら見える。わたしは可哀想だと思った相手を、健全だと両手を広げて認めている。

人間全員哀れ説。なんだろうこのすがすがしさは。
苦がベースなのはギフトなのだ。だからわたし達は幸せを感じることができるのだと思う。

いろいろと辛いことがある。それはなんと健全なことだろう!
毎日がハッピーでキラキラで、楽しくて嬉しい事しかないなんて人をわたしは信じない。
むしろ心配である。
だから、辛いことがある人をとても真っ当だと思う。
そしてわたしが持つことができるのは、自分に感じたのと同じ、慈悲だけだ。

これを感じていたら、上に書いたように、自分を信じるなどという、ポジティブを願う気持ちなど無駄でバカバカしいものになってしまったのだ。ネガティブでまったく問題なし。(これほどのポジティブもないと思うが…(笑))

その身軽さの中にいたら、冒頭に書いたように、時間の概念が壊れてしまったのだった。頭がゆるんでいたのかもしれない。

わたしは哀れな自分が最高に面白い。哀れでなくなろう、などという思いさえただの無駄だと思っている。
ベースが苦なら、苦しいのが健全なら、わたしたちは何を改善すべきといえようか??
本当にそのままでいいのだ。切ないわたしのままで。
苦しいわたしのままで。ちっともおかしくなんかないのだ!

みんななんだかんだ、大変だぁね…だから互いに優しく思いやろう。可哀想な人なんていない、と思う人は泣かなければいい。わたしはいつ泣いてもいいと思いながら生きよう。自分のためにだって、誰かのためにだって。

では、今日はこんなところで。
また、明日!!

※個人セッションの案内はこちらから。(個人セッションはキャンセル待ちが増え次第、別日に増席する可能性もあります!)

http://chigris.com/?p=1454&fbclid=IwAR2MfNiNGxXbR7XgBMcwpmg28Li_qfY76030rhAAcdBYSc0eX_eL7_9foV

こちらは秘行のオフィシャルサイトです!とても綺麗で、秘行のやり方やコツも見られます。制作陣と、心を込めて作りました。ぜひご訪問下さい!
https://higyou.com

こちらはわたくしミユめのオフィシャルサイトです。ぜひ、よければ覗きに来てくださいね。お気軽にメッセージも下さい・・(*^^*)
https://miyuworld.net

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)