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201/1096 一休さんとほんとうのあなた

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で201日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

201日目だ、また淡々と続けていくのみである。今は100日目台がとても心細く見える。200日目台に入って、ブロックが二重になった、みたいな心強さがあるのだけど、これも元土木作業員の職業病みたいなものなのだろうか!コンクリートブロックを使ってしっかり強度を保って塀を造ったときのイメージとかぶってしまう。

自分が自社で庭工事の仕事をしていたころ、ブロック積みをしていて、中に詰めるセメントの量をちゃんとMAXにしないと気持ちよく仕事ができなかったのを覚えている。お客様が見るところではないが、それでも強度は最高にして仕上げていた。自分のようなやつでもそうだというのに、昔つくられた塀を壊して造り直すときなどに、詰められているセメントが申し訳程度しか入っておらず、中がスカスカなことが多かったのには驚いた。「こんなにひどい工事をする人がたくさんいるのか・・・・」と思うとやるせなかった。

こういうときに、そういうことをすると、それはバレなくてもその人に返っていくんだからいいんだ、という人がいるけれど、自分はどうにも、それが悲しく思えて仕方なかった。
その人の、「誰にも見えねえところだから、いいんだよ」と思ってしまう心が悲しかった。それがその人に返っていくのが悲しかった。

でも、今は自分に、信じろ!!と思う。自分がしょうもないニートだった頃や、自分が人の気持ちを今よりも考えられなかった頃や、自分が三日坊主だった頃を思えよ!と思う。それがあったからこそ今があるのだもの、その人だってそれを活かすポテンシャルにあふれていることを喜べばいいさ!!と思う。邪念を腹の力で吹き飛ばしてそれを信じると、あの悲しい気持ちがひっくりかえったように、なんだか輝いてくる。

だからやっぱり、毎日投稿を書くのに、手を抜くまじ、と思う・・・

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今日は先日我が家に滞在していた坂爪圭吾さんと一休さんの話をしたのを思い出したから、それに関係あることを書いてみようと思う。

よく言われるようにわたしたちには、たとえば切なさを感じないようにすると、喜びも感じられなくなってしまう、という心のしくみがある。
悲しみや切なさを感じないようにすると、感情を感じることそのものを麻痺させてしまい、結果、喜びも感じられなくなってしまうのだ。感情に蓋をしてしまう、ということだ。

これと同じように、怖いことや大変なこと、苦労することなどがありませんように、嫌な思いをしませんように、と考えている人は、それは同時に、とても嬉しいことや良いことが起こりませんように、と考えているのと同じだ。波風立ちませんように、でも良いことだけは思い切り起こりますように、とはいかないということ。

神社などにお参りに行ったときに、「いいことばかりありますように。健康で仕事がうまくいってお金がいっぱい入って、嫌なことがひとつも起こらないで、モテて得して、なんなら宝くじが当たったりしますようにウヘウヘ」
などと祈るのは良くないとされているけれど、それは神さまが「ウッゼーこいつなんなの?マジ欲深いんだけど。んなもん叶えてやるかいなアホ」と思ってしまうからなどではなく、純粋に、その意識の持ちようがその人自身にとって不自然だということだ。そうすると、その人の真のポテンシャルが発揮できなくなってしまう。

大変なことや難しいこと、怖いことやお手上げになることなどが決して起こらない人生にすることはできない。もうそれは、自然界を見ればどこにも停止しているところもなければ壊れないものもないのと同じで、わたしたちもその一部なのだから仕方のないことだ。人生にはいろいろある。天気が変わり、季節が変わり、再生の前には破壊があるように。これを変えることはどうにも無理なことだ・・

それなのに自分に都合の良いことしか起こりませんようにと考えているのは、「永遠に老いませんように」と考えるのと同じだ。これはとても不自然で人工的な発想で、防腐剤を使って腐らない食べ物を創り出す発想と似ている。

だから、真のナチュラリストというのは、人生に起こることをそのまま味わう人を言うのだと思うのだ。わたしたちが天気をそのまま受け入れて、雨が降れば身を守って家に入って雨を眺め、やがて晴れれば外に出るように。
都合の悪いことが起こるとすぐに「自分がなぜこれを引き寄せてしまったのだろう・・」と考える人が多いけれど、そういう人は天気が悪い日もそう思うのだろうか。
雨が降っても嵐が来てもそれが自分のせいだとは思わないのと同じように、自分に起こることによって自分を責めるのではなく、禅僧の一休のごとくそれそのままを味わい眺めることができたらすごいと思う。

『門松は 冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし』

という名言を残した一休禅師。「正月のたびに門松を立てるけれども、年が明けたということはまた一年分死に近づいたという標示でもあるんだから、めでたいっちゃめでたいけど、めでたくないっちゃめでたくないよねえ」という意味である。
これは「物事は受け取り方ひとつで良いことにも悪いことにも取れる。自分のものの見方が問題だから、同じ事象の良い面を見なさい」という意味だと解説されることがあるのだけど、わたしは生意気にもこの解説を「うるさいなァ、余計なお世話だよ」と感じてしまう。良い面を見るよりも、わたしは、門松はただの松だ、というところを捉えてこそなのではないかと思う。

悪い面を見ることを問題だとしてしまうと、ネガティブな気持ちを無理やりポジティブに変えましょう、となってしまう。たとえば事故に遭ったとして、ぶつかったときにとても怖かったのなら、怖かったのだ。そしてそれとは別に、生きていたのが嬉しいのなら、ひとえにそれは嬉しいのだ。
まだ怖さがあるというのに「車が身代わりになってくれたんだから、怖かったのは車の方よ、自分はなんともない」などと考えてとにかく無理やり事故に感謝しようとしたり、「このあといろいろ大変なのだから、生きてたからって呑気に喜んだりしてはならない」と考えて喜びを抑えたりすると、不自然が起こる。

そうやって自分の感情に蓋をすると、次第にそれが感じられなくなってしまうのだ・・・

門松を「めでたいと思う」も「めでたくなどないと思う」も、わたしたちのものの見方ひとつだ。というのは真理だけれど、そもそもその奥には「門松そのものに意味などない」という気付きがある。これこそがニュートラルということだ。

事故は、事故だ。車がぶつかって、壊れた。それ以上でも、それ以下でもないできごとだ。本当にそのことがわかっていれば、余計な意味を付加せずにいられる。ただその事象から自分に湧き上がってきたものをジャッジなしに眺められる。ぶつかって、怖かった。車が壊れて、悲しい。生きていて、嬉しい。それでいいのではないだろうか。

からすが鳴いたのを聞いて悟りを開いたという一休禅師は、マラリアのために亡くなった。その死に際のひと言は「死にとうない」だったのだそう。弟子たちは、ええ~・・ドン引きなんだけど!なんとみっともない!師は悟ってなどいないんじゃないか?と思って、さぞかし驚いたことだろう・・!

しかしこれは、自分を悟りを開いた僧として立派に見せようという意図もなく、死を恐れるでもなく、自分を慰めようとする言葉でもなく、生きていることを諦めるでもなく、死に瀕した際に己の身に立ちのぼった思いをそのまま伝えた見事なひと言として有名である。くぅ~っ、しびれるぜ・・

果たして自分が言えるだろうか。。マラリアに苦しみぬいた死に際の床で、なんの虚飾もなく、弟子たちの目の前で、死ぬとわかっていながらにして「死にたくない」と・・・!
死にたくない、と言ってそれ叶わずに死ぬ。思えば思うほど、一休禅師のすごさがわかるエピソードだ・・・

人生で起こるさまざまな出来事を、勝手に意味づけしないで味わおう!
どうポジティブにするか、どの程度味わうか、というところをうまいことコントロールしようとする小賢しさを捨てて、味わって感じきっている自分を眺めるところに立って、ちょっと『禅』に人生を歩いてみるのって、とても素敵だ・・!

さすらばきっと、閉じていた蓋が開いて、知らなかった深い深い切なさが、同時に知らなかった感激と喜びが、わたしたちのゆく道に咲くのだろう。
その知らなかったほどの喜びは、今までにないなにかを連れてくる。
そこからしかうかがい知ることのできない、わたしたちの奥底に眠っている未開のポテンシャルとともに。さて、自分をそのまま自然にさせてみたら、ほんとうのあなたは一体、どんなスケールの存在なのだろう!きっと、想像を超えるものだと思うぞよ!

というわけで、今日は禅の傑僧である一休さんの数多きエピソードのうちの一部をもちいて、ただ眺める、ニュートラルな視点について書いてみた。なんと万人受けしない記事だろうか。ここまで読んでくださり、ありがとう。

それではまた、明日!!

【初夏の特殊なワークショップのお知らせ】

『あがり症克服のための1DAYワークショップ』
『響き合う恋をする・恋愛1DAYワークショップ』
参加者募集中です。

『あがり症克服のための1DAYワークショップ』

あがり症を持つ方のための、あがり症克服に特化した日帰りのワークショップです。わたし自身がどんなに場数を踏んでも抑えようとしても治らなかったひどいあがり症を克服したある方法を、ワークに落とし込んだもの。
このワークショップでは、あがりを抑えようとせずに自然に中和し鎮める方法を伝授します。あがり症を克服したい方に、ぜひとも知ってもらいたいと思っています。人数限定ですので、お申込みはお早めに。当日がとても楽しみです。
(※残席3です)


『響き合う恋をする・恋愛1DAYワークショップ』

こちらは幸せな恋愛や夫婦関係のためのワークショップですが、根本には自分自身と恋をすること、目の前の人と響き合うこと、本当の自分で誰かと関わることをワークを通して体験するものです。
ワークはとても楽しめるものでありながら奥深い体験につながっています。こちらも、ピンと来た方にぜひ体験してほしいものです。
(※残席2です)


【九宮秘行のワークショップ、募集が始まっています】

人生を限りなく透明な目で見通し、本来の自分のあり方を取り戻す九宮秘行のワークショップ。今夏の受講生の募集が始まりました。

第三部まで修了すると師範代のライセンスが取得でき、九宮秘行講師(壇珠と清蓮)主催の九宮秘行ワークショップ内で共に「九宮秘行 第一部」の指導に当たることができます。

自分の本質を知り、枠を超えて人生を歩みたい人へ。
自分の可能性を探求し、本来の望みを体現しましょう!

道家茅山上清派や様々な流派の数々の秘儀秘術の本格的な修行を経験してこられた清蓮さんとわたしとで一緒に「身体・意識」それぞれの面から練りあげたワークを、ひとつひとつ進んでいただきます。ご自身の探求とともに、人間の可能性に驚く純粋な体験のできる場です。
どなたでもゼロから参加できます。一緒に九宮秘行を伝えていきませんか。

・瞳の純粋さを思い出す
・人生に遊び心を取り戻す
・自分で自分に贈り物を与えられるようになる
・人前で安心して存在できるようになる
・深い呼吸のできる体になる
・自分自身や他者、 世界についての思い込みから自由になる
・生きている間に魂存在としての自分を思い出す
・ひとつのものが全てであって、全てがひとつであるという感覚を体験する
・神通力を開く

などの効果が期待できます!ワクワクした方は、ぜひ!!詳しくは九宮秘行のホームページをご覧ください。


【自分の枠を突破しましょう】

『秘行×神聖幾何調身法』

身体のアルケミストであり、多くの求道者たちへの指導経験を持つ清蓮くんとの『枠を越えていく』ためのトークライブ&ワーク伝授を行います。

その名も、『秘行×神聖幾何調身法』
〜ワクワクが枠枠になっていないかい?〜

2時間のトークライブのあと、1時間のワーク伝授があります。

大きい会場に変更したため120名まで入ることができます。
(※現在残席5となりました!)
みなさまに実際にお目にかかれるのを楽しみにしています!

詳しくはこちら↓


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