見出し画像

どこまでが「漫才」か

元々落語が好きだった僕は、大学時代に落語研究部に所属、していたことは過去の記事で何度か書いたのだが、漫才やコントといった、いわゆるお笑いも周りにいる人間の影響で好きになってゆき、お気に入りの芸人さんの単独ライブや定期公演に足を運ぶくらいのお笑いファンになっていた。

2001年より始まった日本一の若手漫才師を決める賞レース、『M-1グランプリ』。僕を含むお笑いファンの間では毎年の楽しみとなっていることに加え、普段お笑いを観ないような方々にも浸透しているところから、もはや国民にとって毎年恒例の行事となっているといっても過言ではない。プロアマ問わず全国各地から参加している漫才師数千組が何度かに渡りネタを披露。最終的に絞られた9〜10組がゴールデンで放送される決勝戦にてネタを披露し、一番面白かった一組が優勝となる。優勝賞金は1000万。更に優勝者はテレビに引っ張りだこになることから、M‐1優勝は若手漫才師の大きな目標とされている。

2020年にも例に漏れず開催されたM−1グランプリ。過酷な戦いを経て、今年見事優勝に輝いたコンビの名は、マヂカルラブリー。2017年に決勝戦まで残ったものの、某おばはん審査員から酷評を浴びせられつつ10組中10位という最下位。そして3年の時を経て、またしても駆け上がってきた決勝の舞台。最終決戦では審査員からの得票数は割れたものの、最多得票数を獲得し、5000組以上の参加コンビの頂点に輝いた。

決勝に残った10組は当日ネタを披露し、その内上位3組が最終決戦で2本目のネタを披露する。優勝したマヂカルラブリーが、2本目に披露したネタがこちら。

「電車の吊り革に捕まりたくない」、とルールを説明してからシチュエーションに入るコント漫才。こんな電車ねーよwと思えるほど恐ろしく揺れる電車にも頑なに吊り革を掴もうとしないボケの野田クリスタル。トイレ、車内販売などスポットを変えることで観客に飽きさせず、ボケも広げる。以前審査員をされていた方が「普遍的なものが多い」と批評していた村上のツッコミも、バリエーションに富んだものとなっており、各ツッコミワードが毎回大きな笑いを生みだしていた。

マヂカルラブリーの漫才のフォーマットはいずれもボケの野田がシチュエーションに沿って行う狂った行動を村上がその都度ツッコんでゆく、というものである。台詞はそれほど多くなく、言葉のキャッチボールというよりは一つ一つのブッ飛んだ発想で笑わせているため、より現代的な漫才といえるかもしれない。M-1ではテレビ用にグロテスクな表現を控えるなどマイナーチェンジは施していたものの、自分たちのストロングスタイルをひたすらに貫き通しての優勝。個人的にはとてもカッコいい、そして「漫才は進化している」ということを象徴するかのような大舞台での優勝だと感じた。

そして、お笑い賞レースの後のSNSでの芸人叩き。これももう国民の慣習といっていいのかもしれない、悪い意味のね。

今年のM-1でその批判の的となったのが、優勝したマヂカルラブリーだった。コアなファンにはたまらない彼らのネタに集まった否定的意見は、主に次のようなものだった。

「動きで笑わせてるだけ」

「これは漫才ではない」

・・・

何言うとんじゃ漫才じゃろがぁ!!!


この主張をするために、まずしゃべくり漫才と、コント漫才について説明させていただきたい。

しゃべくり漫才とは、冒頭から最後まで本人自身が喋る漫才のことである。つまりこの形式の漫才では、あるシチュエーションに模して芝居をしたりすることはない。漫才の生みの親エンタツ・アチャコによって1930年代に誕生した芸能、だそうだ。

一方コント漫才は、漫才の中で展開されるコントのような芝居を中心として成り立っている。「俺コンビニの店員するから、お前お客さんやって」というあれだ。コント漫才の創始者は横山やすし・西川きよしと言われているが、火種をつけたのはダウンタウンとされている。現代の漫才は正統派ともいわれるしゃべくり漫才より、コント漫才の方が多い傾向にある。

今回のM-1でマヂカルラブリーが行っていたものはどちらにカテゴライズされるだろうか。野田はシチュエーションに則ってボケているものの、ツッコミの村上はその世界観へ入らず、俯瞰的な目線でツッコミを行っている。芝居の間は二人の世界が乖離しているが、漫才中に別の世界観が存在しているところから、やや変則的な「コント漫才」といえるだろう。

そして、漫才を、漫才たらしめるもの。コントと一線を引く部分はどこだろうか。

それは、演者が「演者自身」として発話しているというところだ。

コントの場合は基本、プレイヤーは本人以外の人物になりきって終始演技を行う。しかし漫才は、しゃべくりであろうがコント漫才であろうがまず本人が喋っているよとお客さんに認識させる。そして、どれだけ漫才中の芝居がぶっ飛んでいようが、僕らの知らない宇宙へ行ってしまおうが、最終的には大抵本人が喋っている状態へ戻ってくる。「(ボケ)と(ツッコミ)で(コンビ名)です。よろしくお願いします。」や締めの「もうええわ!」といった定型文がそれを顕著に表しているのではなかろうか。中央にマイクがある。そして、やってきた本人二人が喋ってる。この条件さえあれば全て漫才だといっていいと思う。

そして、コント漫才の「コント」の部分は、コンビによって千差万別。一旦コントに入ってしまえば、会話のキャッチボールで笑いを取ろうが支離滅裂なことを言おうが自由だ。演者が舞台上にいて、法に触れさえしなければ何をやってもいい。いやたまに舞台上からいなくなる場合もあるか(笑)

要するに、漫才内のコントの内容は「漫才か否か」という判断基準にはならない。

更に補足するなら、マヂカルラブリーのネタは「動きで笑わせてるだけ」なんかでは決してない。動きだけでは分かりにくい部分や火力が弱い部分をツッコミで補足説明することで爆笑を生んでいる。ボケとツッコミによって繰り出す笑い、まさに漫才の真骨頂である。

これだって立派なコント漫才だ。

劇場で一部ファンに爆発的人気を誇るコンビ、ランジャタイ。決勝まで手は届かなかったものの、敗者復活戦にまで食い込むことができた。披露したのはコント漫才。欽ちゃんからミニ欽ちゃんが出てくる、そして仏にカブトムシが停まる・・・100年経っても理解できそうにない謎の情報たちが飛んでくるが、最後のお辞儀と共に「あざーしたー」で本人に戻っている。だから、漫才。

漫才という芸能が長年行われてきたことにより、多くのお笑いファンがフォーマットに慣れてしまった。そのため突拍子もないシチュエーションが多くみられ、普段お笑いを観ない人たちが戸惑い「漫才じゃない」と述べる気持ちも分からないことはない。しかし、それが新しい形の漫才なのだ。漫才は、進化しているのである。

お笑いについては書きたいトピックが多くあるため今後も書いていきたい。

P.S 僕は今年オズワルドが一番好きでした。敗者復活も合わせたらからし蓮根。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?