フレイザーの『金枝篇』の雷神論と柳田国男


 フレイザーの『金枝篇』は神話学の上で、「雷」の位置をはじめて体系的に強調した著作である。その分析の対象となったのはイタリアのネミの湖の湖岸の絶壁の下にある月の女神ディアナの森のオーク(Oakカシワ)の木に生える宿り木をめぐる物語であって、森の王はこのオーク守ることを職務としていたが、次の王となるものはオークの金枝を折り取り、先代の王を殺さねばならないという。この宿り木は本体が冬枯れても緑の生命を維持するため、オークの生命が宿る場と考えられたが、それが「金枝」といわれるのは寄生木の枝を切って数ヶ月とって置くと見事な金色がかった黄色になるためである。この黄金の宿り木はローマ神話の主神ユーピテル(ゼウスと同一視される)の降臨の印標(しるし)とされるが、フレイザーが紹介しているように、ウェルギリウスの「アイネイアース」にはアイネイアースが二羽の山鳩に導かれて「金枝」の茂る谷底へ降り立ったという記述がある。そしてアイネイアースはこの「金枝」を護符として地獄へ下るのである。
 フレイザーは、当初この物語の意味について、カシワは火切り杵の材として火を内在する樹木として崇拝され(Ⅴ五〇、Ⅳ三〇一)、そのカシワについた宿り木は夏至を過ぎて太陽の勢いがよわまる時期にカシワの生命力を太陽に放射する「火の種・火の芽」として機能していると考えられることを重視した(Ⅴ一二八頁)。人々は夏至にも冬至にもカシワの木にちなむ火祭りを行って太陽の復活をはかるのだという太陽中心の理解である。柳田国男はこれを日本の冬至祭、つまり新嘗祭に適用し、新嘗祭は太陽の復活をはかる祭りであるとした。そして王権祭祀としての新嘗祭が稲の収穫祭として村落の年中行事にまで影響すると論じてきわめて大きな影響をあたえた。
 もちろん、このような太陽信仰の位置が重要であることはいうまでもないとしても、フレイザーのいうように、祭儀の中心となった「金枝」は月の女神ディアナの森のオーク(Oakカシワ)の木に生える宿り木なのであって、そのような文脈から切り離して太陽信仰のみを強調するのはバランスを失している。しかも太陽信仰をしばしば農業信仰と等置してしまうことがあるのも問題であろう。ここではこの月の問題にふれることはできないが、そもそもユーピテルが雷神であることはいうまでもなく、『金枝篇』には最初から雷と雷神についての記述が多い。そして『金枝篇』の最終六八章になると「森の王」の物語の理解は、むしろ「雷」を中心としたものに転換している。つまり、そのころ、自然科学者がカシワの木の材は他のどんな樹種よりも電気をよく通し、それによってヨーロッパの森林において落雷に見舞われる頻度がもっとも高いという観察をしているとして、ヨーロッパの大森林の中にすむ人々について「彼らはその素朴な宗教的方法で、彼らが崇拝し、彼らが雷鳴のとどろきのうちにその畏るべき声を聞くところの偉大な空の神が、森林のどんな樹よりもカシワを好み、しばしば雷霆のはためきとなって黒雲からその上に天降り、引き裂かれて黒焦げになった幹と萎れた葉に彼の存在と降臨の印を残すという風に説明したことであろう」と論ずる。そして「この説(雷電説――筆者注)によれば、雷と天空の神はわがアーリア人祖先の本元的な大神であり、この神とカシワの樹との関係はカシワが雷に撃たれるのをみかける頻度にもとづくことになる」として、「寄生木はこれまで私が主張していたように、夏至の太陽の放射ではなくて、むしろ雷電の放射とみられていた」(Ⅴ一三四頁~一三五頁)と結論したのである。
 柳田はこのフレイザーの『金枝篇』から大きな影響をうけていた。たとえば晩年の柳田が日本の神道信仰の本質に迫ろうとして執筆した著作、『日本の祭』において様々な形で樹木と柱の信仰を論じているが、どういう木が「神の木」とされるかについて、「外国の学者によって説かれているのは、所謂霹靂(へきれき)木、即ちまのあたり神の降りたまうを見たという木」であって、「山で数限りもない樹木」の中から「神の木」として崇敬する木を選ぶ際に「日本では早くより謂うことで」あるとしている。柳田は近世になるに従ってこの霹靂樹の信仰は薄くなったとしているが、それだけに神話時代における霹靂樹の信仰の位置を強調していることになる(『日本の祭』一九四二年『定本柳田国男集』筑摩書房10.二〇八頁)。なおこの「外国の学者」がフレイザーであることはいうまでもないが、エリアーデも「雷が頻繁に落ちた樹木は、至上神の威光を授けられる」としているように、これは神話学では常識的な判断である(『太陽と天空神』一〇三頁)。
 ただ、柳田がフレーザーからうけた影響としては雷神説よりも当初の太陽説からの影響の方が大きかった。これは柳田が新嘗祭=冬至祭という立論を重視しただけではなく、民俗学がおもな対象とする徳川時代には神話時代よりも霹靂樹の信仰の鮮烈さが減少していただけにやむをえないことではあった。しかし、そういう中で柳田が「雷神信仰の変遷」以来の様々な雷神についての研究成果をあらためて雷神論にまとめることがなかったのは残念なことであったといえよう。私は、柳田はフレーザーが最終的に雷神中心の議論に転換したことへの評価に失敗しているとも考える。エリアーデをみれば明らかなように、これが神話学の全体的な方向であるが、少なくとも柳田はその方向には進まなかったのである。

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