公開著書『中世の国土高権と天皇・武家』第三章「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」

日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制
 問題の所在
 鎌倉期国制史研究の隅の要石の位置を有する「文治守護地頭論争」は、現在、第三次論争の段階にある。いうまでもなく、その条件を作り出したのは、一九七〇年の上横手雅敬『日本中世政治史研究』と石井進『日本中世国家史の研究』の相次ぐ刊行に始まり、大山喬平の論争参加と義江彰夫『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』の発刊をピークとして、多くの研究者が関わった七〇年代の論争、戦後第二次の守護地頭論争であった。この論争は戦後第一期の論争をリードした石母田正の仕事*1を新たな実証的基礎の上に受け止めたものであり、内乱期政治社会の研究の面目を一新したといってよい重みをもっている。
 しかし、いま続いている論争は、第一期における石母田の議論そのものを再検討の爼上にのせるところから出発した。その中で最も突出しているのが、川合康*2・三田武繁*3河内祥輔*4などの研究であろう。川合は、院・天皇がその大権の下に幕府に政治の実権を委任したというような没概念で事大主義的な史観に対する石母田の批判を正当に受け継いだ多面的な議論を展開したが*5、しかし中田薫の論文「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」(『法制史論集二』、所収)が提起し石母田がうけついだ、源頼朝が「日本国惣追捕使・惣地頭」の地位をもっていたという想定については、それを後代の観念に惑わされたものとする。そして三田・河内は、石母田がその存在を指摘した「一国地頭」の実在そのものを否定しようとしている。特に三田の仕事は、私は賛同できないが、不動であるかにみえた石母田説に対して果敢な批判を加えたものであって、研究史上、重要な意味をもつことになった。
 周知のように石母田の研究は中田説の再確認から出発しており、また「一国地頭」の存在それ自体は石母田以降のほとんどの論者が承認してきたものである。いわば論争は原点に返ったのであり、そのことは、我々が再び石母田の学説に立ち戻り、その強靭な弁証法的思考に学びつつも、石母田を乗り越えるべき時期に直面していることを示している。
 また、これらの研究は全体としては一一八〇年代内乱の政治史を川合のいう「頼朝の政治」、その戦略構想と軍事史を中軸として捉え直す条件をあたえた。政治過程を物質的な軍事的過程とそれを領導した戦略構想の実際から捉え直すことは、政治の欺瞞性・イデオロギー性を白日の下にさらす上で必須の基礎作業であり、これらの仕事が学ぶべき新たな成果を生み出したことは明らかである。
 とはいえ、問題が内乱期における国家形態の転換の総過程を解明することである以上、私はさらに政治過程の独自の運動形態の分析を深める必要が高いと思う。特に石井紫郎が内乱期軍事史を貫く「公戦」のイデオロギーを明らかにしているように(『日本人の国家生活』九ページ)、戦争と暴力が政治史の展開の重要な物質的内容をなしていることを正しく位置づけることと、政治・法・イデオロギーの展開の独自性を重視することは本来矛盾する事柄ではないはずである。
 本論の表題が示すように、私の視点は、この「文治守護地頭」問題が、平安末期の内乱を通じて軍事的な形態転換を遂げた鎌倉期国家の統治権・国土高権の理解に直結し、より具体的には平安期から鎌倉期への国家統治法(つまり「新制」)の展開の道筋の理解にかかわる問題であるということにある。結局それは論争の発起点であった頼朝の「日本国惣地頭」なる高権的地位をどう理解するかという問題であり、さらに青山幹哉の提示した新たな源家将軍論、源氏カリスマ論を鎌倉初期政治史の中に位置づける仕事に連なっていくだろう(青山「鎌倉将軍の三つの姓」)。
 しかし、検討はまずは研究史における古典的諸論点から出発しなければならない。
Ⅰ東海道惣官と「文治国地頭」の実像
①頼朝の蜂起と「諸国使節」
 一一八〇年(治承四)四月二七日、頼朝のもとに到着した以仁王の令旨は、「東海・東山・北陸、三道諸国の源氏群兵等所」に対して蜂起を扇動し、文末で「若し勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、御即位の後、必ず乞に随い勧賞を賜うべきなり」と約した(『吾妻鏡』治承四年四月二七日条)*6。頼朝は、八月一七日夜、伊豆国目代山木兼隆の館を襲い、兼隆を誅す。
 そしてその翌々日、頼朝は「東国に至っては諸国一同庄公みな御沙汰たるべきの旨、親王宣旨の状に明鏡なり」と号し、伊豆国南部に位置する蒲屋御厨の住人に対して「安堵」下文を発した。『吾妻鏡』(治承四年八月一九日)が「兼隆の親戚、史大夫知親、当国蒲屋御厨にあり、日ごろ非法を張行す」とするように、蒲屋御厨には兼隆の親戚の史大夫知親が盤踞しており、頼朝は知親の同御厨奉行を停止したのである。知親がそこに館を置いていた理由は、蒲屋御厨が伊豆半島東南端の相模湾に面する要港・鯉名津を擁し、製鉄集落が集中するなど伊豆南部の中心地帯であったためであると考えられる*7。鯉名泊が西海岸の妻良津とともに相模湾・駿河湾の間を繋ぐ東国海上交通の要衝であったことは、この年一〇月、頼朝の宿敵・伊藤祐親が、「船を伊豆国鯉名泊に浮かべて海上を廻」り、京の平家に身を投じようとしたところを、網を張っていた天野遠景に捕縛されたこと(『吾妻鏡』治承四年一〇月一九日条)、さらに一一八五年(元暦二)、頼朝が九州で苦戦する弟範頼に兵糧を送るために、三二艘の「東国」の「兵船」を伊豆国「鯉名奥ならびに妻良津」に集結させたことなどから知ることができる(『吾妻鏡』元暦二年一月六日、三月一二日条)。
 この下文の発給は蜂起の舞台となった北部のみでなく、伊豆国の全域に対する頼朝の支配権を宣言するものであり、また頼朝が早くから東国の海上交通の制海権を握ろうとしていたことも示している。『吾妻鏡』が、この下文の発給をもって「関東の事、施行の始めなり」と称したのはそれだけの理由があったとすべきであろう(『吾妻鏡』治承四年八月一九日条)。この下文は頼朝が自分を以仁王令旨のいう「諸国使節」になぞらをえていたことを示すのである(河内『頼朝の時代』五二頁)*8。私見では、この「諸国使節」とはまさに石母田の発見した平家政権の畿内惣官職(『著作集』第九巻)と実質上同じものであり、しかもそれは一一八一年(治承五)の平宗盛の惣官職補任に先立つものである。このことは内乱期への突入を前にして惣官職的な地位を置こうという発想が、どのような立場に立つにせよ支配層通有のものとなっていたことを示している。頼朝の地域権力の形成を平安末期政治史との具体的連関の中で把握するためのキーがここにある。
 そして、八月二三日、石橋山合戦は「御旗横上(蝉本)」に付せられた*9以仁王の令旨を旗印として戦われた(『吾妻鏡』治承四年八月二三日条)。このことも山木館の焼打ちに勝利した頼朝が「諸国使節」であるという主張、あるいは石橋山合戦での勝利によって「諸国使節」の地位を宣言しようとする意図を含んでいたというべきであろう。それは周知のように無残な敗北で終わったが、以降しばらくの軍事的・政治的経過を『吾妻鏡』によって摘記すると、頼朝は海路を経て安房国に渡り、千葉常胤、上総広常以下の下総国・上総国の武士団に迎えられ、一〇月始めに鎌倉に入る。さらに甲斐・信濃の軍勢をあわせて、一〇月二〇日、東下してきた平維盛の率いる追討軍と富士川を挟んで対峙するが、平家軍はほとんど合戦らしい合戦もせずに京に帰還してしまう。翌日、頼朝は平家軍を追走して上洛することを命ずるが、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らは常陸の佐竹を討つことを主張し、軍議は「まず東夷を平ぐの後、関西に至るべし」と決する。そしてその路線にそって一一月には佐竹秀義を討ち、一二月には上野国の武士を帰属させることになる。内乱の政治過程への影響という点で重要なのは、この方針が一時上野に進出していた木曽義仲を信濃に退去させ、義仲の上洛の道を北陸道ルートに向かわせたことである。
 富士川合戦からこの段階にいたる過程で、頼朝は東国に軍事的覇権を確立し、あるいは勢力圏を確定した。そして、この軍事的勝利を前提として、一〇月五日に武蔵国雑事の沙汰を江戸重長に命じ、一〇月二三日には相模国府において、代表的な御家人に対して「或は本領を安堵し、或は新恩に浴せしむ」初めての勲功の沙汰が行われ、東国武士の階級的結集の体制が整えられる。その上に立った権力の成立を象徴するのが一二月一二日の鎌倉大倉郷の新亭への入御の儀式であり、この大倉新亭での儀式は「一つの独立した小国家の成立」(石井進「鎌倉幕府論」)、「鎌倉殿の誕生」(入間田宣夫「鎌倉幕府はいつ、いかにして成立したか」)を象徴したのである。『吾妻鏡』はそれを「東国みなその有道を見、推して鎌倉の主となす」と述べている。(『吾妻鏡』治承四年一二月一二日)
 翌一一八一年(養和一年)一月一四日、高倉院が死去し、その遺詔によって平家は宗盛を畿内惣官職の地位につけるが、閏二月、清盛が死去し、後白河院の権威が復活する。一方、東国戦線は、三月源行家が墨俣の合戦で大敗し、膠着状態となる。そこに展開したのは、東海道・北陸道方面に頼朝・義仲が拠点を形成し、平家が尾張国以西を握り、さらに遠く越後の城氏と奥州藤原氏がそれに呼応して頼朝・義仲を挟むという諸国対峙の情勢である。これは平家の惣官職、頼朝の「諸国使節」、地方武士でありながら越後国司に補任された「白河御館」城氏、鎮守府将軍の地位にある奥州藤原氏という広域的な地域権力の軍事的対峙というかってない情勢の展開を意味している。この対峙の中で、八月、頼朝は後白河に謀反の意のないところを密奏し、「関東は源氏の進止たり、海西は平氏の任意たり、共に国宰においては上より補せらるべし、ただ東西の乱を鎮めんがため、両氏に仰せ付けられて暫く御試しあるべきなり」と述べたという(『九条兼実日記』養和一年八月一日条)。それはこの日本史上では画期的な事態を頼朝が十分に認識していたことを示している。
 翌一一八二年(寿永一)二月、頼朝が伊勢神宮に奉納した願文には「方今、無為・無事に参洛を遂げ、朝敵を防ぎて、世務を元のごとく一院に任せ奉り」とある(『吾妻鏡』養和二年二月八日条)。そして四月には江ノ島に籠もった高雄の文覚上人に「鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんがため」の祈祷を依頼している(『吾妻鏡』養和二年四月五日条)。これらも、頼朝が上記の全国的な軍事的対峙を視野に入れ、腰を据えてその戦略的解決を探るにいたったことを示しているが、この年、軍事情勢で目立ったのは、北陸における義仲の活発な活動である。義仲は三月に越前に攻め入り、九月には近江や若狭にも影響を与えるに至る。
 このような情勢にうながされて、ようやく蜂起から一年を隔てたこの年、一一八二年(寿永一)、鎌倉の武士たちの内部に大きな変動の兆が見え始めた。それを象徴するのは、この年一月二三日条の『吾妻鏡』の記事に、頼朝が上総介広常に対して「去年以来、御気色不快」であったとあることである。つまり前年の一一八一年(治承五)の六月、頼朝は三浦に逍遥したが、それを迎えた広常は、「公私ともに三代の間、いまだその礼をなさず」と称して頼朝に対して下馬の礼を取らなかった。その宴席で「御水干」を与えられて面目を施した岡崎義実を妬んだ広常は激しい口論をしかけ、義実は広常に対して「広常功あるの由を思ふといえども、義実が最初の忠に比べがたし、さらに対揚の存念あるべからず」と述べ、両者はあわや「闘諍」に及ばんとしたという(『吾妻鏡』治承五年六月一九日条)。
 この岡崎義実は石橋山合戦で子どもの佐奈田義忠を失った三浦氏の老将で、頼朝の信頼が厚かった。頼朝の「御不快」が、この事件に端を発するものであったことはいうまでもない。そして、これ以降、蜂起の勝利を決定した千葉氏・上総氏の勢力が権力の中枢から排除される過程が進行した。石橋山で一敗地にまみれた後、鎌倉に御所を置くことを進言したのが常胤であることはいうまでもなく(『吾妻鏡』治承四年九月九日条)、また下総国府で千葉常胤に迎えられた頼朝は常胤に対して、「司馬(常胤)をもって父たるべきの由」を述べたという(『吾妻鏡』治承一年九月一七日条)。また頼朝の大蔵郷の幕府への入御が広常の宅から行われたこと(『吾妻鏡』治承四年一二月一二日条)、さらに常胤が一一八一年(養和一)一月の鶴岡八幡宮社参の後の椀飯沙汰人を勤め(『吾妻鏡』養和一年一月一日条)、同年六月に新造なった「小御所」(大姫の居所)への「移徙」でも同じく椀飯沙汰人を勤めるなど(『吾妻鏡』治承五年六月一三日)、常胤・広常の最初期の幕府の中での位置は極めて高かった。それは、頼朝の父・義朝が「上総曹司」として、つまり千葉氏の保護の下に鎌倉に入部した伝統(『平』二五四八号文書*10)の再現であったというべきであろう。
 しかし、上総介広常に対する頼朝の「御気色不快」が明らかになったこの年、一一八二年(寿永一)一月、椀飯の儀は行われなかった。この時点で上総・千葉氏の権力中枢よりの転落のコースが定められたのである。翌一一八三年(寿永二)一月に椀飯があったかどうかは、『吾妻鏡』の欠巻によって不明であるが、周知のように、この年の暮れには広常が誅殺され、明けて一一八四年(元暦一)一月には広常誅殺の穢気によって椀飯は行われなかった。そして、一一八五年(文治一)も屋島の戦いを前にして椀飯の儀は行われなかったが、ようやく一一八六年(文治二)、「世上いまだ静謐せざるといえども、衆庶安堵の思いをなさしめんがため」という理由で大規模に行われた鶴岡社参では、椀飯が復活した。しかし、この時、幕府最初の椀飯沙汰人の栄誉を担う常胤は頼朝によってその席次を子供の胤頼と同等の位置に下げられたのである(『吾妻鏡』文治二年一月三日*11)。
 このような事態の展開は、おそらく一一八一年(養和一)十二月にはっきりした頼朝の妻・政子の妊娠に関係している。つまり東国の軍事的首長・鎌倉殿の後継者の誕生を契機に東国の「小国家」の将来の問題が武士たちの政争の中心に浮上し、客観的には頼朝勝利の最大の功労者であり、義父ともいうべき地位にあった千葉氏はそこから排除されたのである。そして、その代わりに地位を上昇させたのが、比企氏と北条氏であったことはいうまでもない。
 先ずは一一八二年(寿永一)八月一二日の「若公」(頼家)の誕生の後、一〇月一七日、産所となった「比企谷殿」から「営中」への政子と新生児・頼家の渡御に際して、比企四郎能員が「御乳母の夫として、御贖物を奉る」役に抜擢されたことが大きかった。『吾妻鏡』は「このこと、若干の御家人ありといえども」と述べ、この抜擢が東国武士にとって違和感のある処置であった事情を示唆するかのような叙述をしているが、いうまでもなく比企能員は、頼朝の伊豆配流にともなって武蔵国比企郡に下り、「廿年の間、御世途を訪らい奉」った比企尼の甥に当たる比企氏の惣領である(『吾妻鏡』寿永一年一〇月一七日条)。能員は、政子の出産に際して頼朝の母の代わりを勤めた比企尼の推挙によってこの役を勤め、以降、頼家の成長とともにその地位は上昇の一途を辿ることになる。もとより、このような乳母一族の引き立ては当時の支配階級においては常識的なことである。支配階級の心理にそくしていえば、乳母はマザーコンプレクスを増幅させ複雑化させる機能があったと思われるが、少年にして配流される運命を辿った頼朝がそこに根を置く乳母一族への偏愛をつのらせ*12、それが幕府の内部に波紋を広げた可能性は高いと思う。
 第二の問題は、政子の産中に頼朝の「浮気」が激しくなったことである。時政の後妻・牧の方からそれを聞いて怒った政子は、一一月一〇日、牧宗親に命じて寵女「亀前」の居住する伏見冠者広綱の住宅を破却する。おそらく政子に文句をいえなかった頼朝は牧宗親をイジメにかかり、宗親は髻を切られて「泣きて逃亡」したという。そして、妻の縁者に恥辱を加えられた時政は鎌倉を出て伊豆に退去した(『吾妻鏡』寿永一年一一月一〇日、一二日、一四日条)。
 今まで、これらの事件は政治史の対象としては扱われていないが、このような関係をもちえた点が、比企・北条と千葉氏の相違なのである。この二つの事件は頼朝一統と密接な家庭的関係をもつ比企と北条の立場を象徴するものとして、これ以降の鎌倉殿の運命を占う伏線であった。比企氏は東国・信濃・北陸道において大きな影響力を有しており、この比企と北条の争いが鎌倉初期政治史の隠された中心問題だった(石井進「比企一族と信濃、そして北陸道」)。永井路子の小説『北条政子』を読んでいると、その対立は比企の「乳母路線」と北条の「嫁路線」との対立ともいうべきものであったかとも思える。そして、上述のような千葉氏の後退は「義父路線」の破産とでもいうべきものになろうか。
 「義父路線」から「乳母路線」・「嫁路線」の相克への転換。それは「貴種」頼朝が東国武士社会との間で営んだ家族的・性的関係の在り方をめぐる対立だったともいえよう。そしてそれは東国における宮廷的世界の形成、そしてその中核をなす「後宮」の形成の運動と関わっていた。その中で、頼朝は政子の産所を乳母・比企尼の宅に置いて比企能員を頼家の乳父とし、また、こまめに女性を語らうことによって、比企と北条という異なる立場に立つ存在の問題性を東国武士社会の中で公けにし、さらに「義父」一族を冷遇する道を選択したのである。
②義仲・広常と「十月宣旨」
 翌一一八三年(寿永二)の『吾妻鏡』が欠巻となっていることもあって、「有道」なる「鎌倉の主」のこのような行動が、東国武家社会に何をもたらしたは明瞭でない。しかし、しばしば賞賛される頼朝の「政治家」としての見通しなるものは、当初からこのような行動と両立しうるものであったことは確認しておく必要がある。
 もとより、この年は木曽義仲の京攻めが成功した年であり、鎌倉にとってそれが最も直接的な問題であったことはいうまでもない。義仲は五月一一日、倶利迦羅谷の戦いで平家の討伐軍に勝利して以降、破竹の勢いで進攻し、その入京を前に、七月二五日、平家は都を去ることになる。義仲の京攻めの名目は、彼が、一一八二年(寿永一)七月頃に北陸に下っていた以仁王の第二子・「北陸宮」を戴くことに成功したことにあり(浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』一九三頁)、彼は最も急進的な以仁王令旨の信奉者として行動することになった(河内『頼朝の時代』八八頁)。この義仲の勢力は軍事的にもイデオロギー的にも鎌倉にとっても決して無視できるものではない。これは鎌倉に大きな影響を与えた。
 それは、まず頼朝の親族関係・家族関係を以降長く規定する事件となって現れた。義仲の息子の志水冠者義高が鎌倉に到着したのである。『平家物語』などによれば、この年、一一八三年(寿永二)の三月に頼朝と義仲の間に「不快」のことがあったという。その背景には、この年二月、反頼朝の蜂起に立った頼朝の伯父、志田先生義広が敗北して義仲を頼った事実があった(石井進『鎌倉武士の実像』一九八頁)。頼朝は優勢な軍勢をもって信濃国に出張して義仲を脅かしたが、それに対して義仲は一一歳になる嫡子の義高を頼朝の許に送って和議を計ったのである。しかし、翌年四月に義高は頼朝によって殺害されることになる。これについては後にも関説することになるが、その時の記事に義高が「武衛聟」とみえ(『吾妻鏡』元暦一年四月二一日条)、また『平家物語』(巻七)に「頼朝未だ成人の子を持たず、よしよしさらば子にし申さん」とあることからすると、義高は人質という訳ではなく、頼朝の娘・大姫の夫たることを約束された猶子として鎌倉に下ったのである。
 このこと、特に大姫と義高の婚約は、平家追討の帰趨が未知数な状況の中で義仲と頼朝が少なくとも当初は本気で同盟を結んだことを意味する。『吉記』(寿永二年一一月四日条)によればこの年の一一月、義仲・頼朝の関係悪化にともない「(鎌倉にいる)義仲の子冠者逐電」の噂が京都にまで届いている。義仲・頼朝同盟が義高の存在によって成立していることは鎌倉のみでなく京都でも公然の事実だったのであり、前述のような広域的軍事権力の対峙という情勢認識の存在は、ここにも確認される。この同盟によって後方を固めることによって、義仲は北陸道の勢力を結集し、急速な軍事的成功を収めることができたのである。いうまでもなくこのような情勢の急展開、義仲の独走が予想できなかった以上、三月段階の同盟の性格は対平家戦のためのものであった。もちろん、そこで義仲が相対的に従属的な地位にあったことは事実であるが、義仲の嫡子と頼朝の長女の婚約の公示という同盟の形式は、それが単に一方的なものでなかったことを示している。『兼実日記』には、(義仲が)「関東の勢を待ち、九・十月の比、入洛あるべし云々」という伝聞が記録されており(『兼実日記』寿永二年七月三日条)、この段階では義仲と頼朝勢の離間はまだ目立っておらず、同盟は維持されていたのである。
 しかし、所詮この同盟は崩壊する運命にあった。後にも述べるように、頼朝には以仁王の遺児を戴く気持ちはなかったのである。そして、この同盟の形成と崩壊がもたらした影響のうちでもっとも大きかったのが、有名な上総広常の誅殺であったのではないだろうか。もちろん、広常誅殺の事情は明瞭でない。しかし、大胆な想定ではあるが、私は、時間の流れからいって両者に一定の関係がある可能性が高いと思う。
 『吾妻鏡』寿永三年(一一八四)一月一日条に、「去冬、広常の事により営中穢気」とあるように、広常は一一八三年(寿永二)の冬、鎌倉で殺害された。そこに「営中」とあることからすると、広常は大蔵幕府に参勤中に上意打ちにあったのであろう。そして『愚管抄』(巻六)は、一一九〇年(建久一)の上洛の時、頼朝が後白河に対してこの事件を「功アル者ニテ候シカド、トモシ候ヘバ、ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ、タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサンナド申テ、謀反心ノ者ニテ候シカバ、カヽル者ヲ郎従ニモチテ候ハヾ、頼朝マデ冥加候ハジト思ヒテ、ウシナイ候ニキ」と述懐したという。『愚管抄』は広常を討ったのは梶原景時であり、「双六ウチテ、サリゲナシニ盤ヲコヘテ、ヤガテ頸ヲカイキリテモテキタリケル」と伝えている。頼朝一流のダマシ討ちである。
 『愚管抄』は「コマカニ申サバ、サルコトハヒガ事モアレバコレニテタリヌベシ」と述べ、事態の真相について様々な噂が出回っていたことを示唆しているが、おそらくその噂の内容は、以仁王がらみであったのではないだろうか。一一八一年(養和一)には、頼朝が上洛しつつあるという噂とともに、以仁王が相模国に生存していて広常によって守られているという風聞が京都に届いており(『兼実日記』養和一年十月二七日条)、佐藤進一は、これを根拠に広常を以仁王推戴路線を取ろうとした東国武士の代表的人物としている(『日本の中世国家』)。私は、これは先述のように、この時期、広常・常胤の位置が大きく、とくに常胤が大姫の小御所の設営に責任をもち、それをひきついで大姫―義高の関係にも関与せざるをえない立場にあったことも関係していると思う。そういう状況のなかで、広常は,以仁王の遺児を担ぐ義仲との関係を疑われたのではないだろうか。『愚管抄』が「トモシ候ヘバ」(ともすると*13)「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ」という「謀反心」の主張をしたという点も、王家一般に対して敵対的な言動をしたというよりも、後白河ー後鳥羽ライン(「朝家」)が王位継承権を認めていない以仁王とその遺児に肩入れしたという意味に取ってみたいのである。
 先述のように、広常は富士川合戦勝利の後、千葉常胤・三浦義澄などとともに「まず東夷を平ぐの後、関西に至るべし」と主張したともいい(『吾妻鏡』治承四年一〇月二一日条)、『愚管抄』の「タダ坂東ニカクテアランニ、誰カハ引ハタラカサン」という文言は、佐藤のいうように、頼朝の上にさらに「新皇」というべき存在を戴く「両主制」的構想、その下での領主の広域的に連合を基礎として関東を自立させようという主張を意味していたといってよい。広常らの主張は、東国の領主連合にやどった即時的な構想にすぎない。その意味ではそれが、一般的な「反中央」でも「反天皇制」でもなかったことは明らかである。そもそも、そこにおける頼朝と広常・常胤の関係は極めて伝統的なものであった。それは「上総曹司」であった義朝に対すると同じように、自己を「公私ともに三代の間、いまだその礼をなさず」という頼朝の後見、庇護者として位置ずける「カクテアラン」という伝統的主張であったのである。それは広域権力ではあるが、その下部構造はきわめて伝統的なものであって、あくまでも個々の領主制の自律を前提としていた。このような貴種を上にいただく両主制的構想は南北朝期をみても明らかなように、しばしば繰り返されるものではあるが、しかし、それは広域的な権力と支配の機構をもった地域国家の構想ではなかった。中央の都市王権から下向する貴族が地方の領主(あるいは領主連合)に担がれるという構造それ自体は、国衙や荘園のシステムのなかにすでに存在していたことを忘れてはならないだろう。
 しかし、頼朝は義朝のような客人の貴種として関東にやってきたのではなく、関東を直接の支配拠点としようとしたのであって、それがいわゆる「東国国家」に展開するためにはさらに若干の時日を必要としたとはいえ、この段階いおいても、頼朝にとって、そのような伝統はすでに利用価値のないものであった。特に頼朝には、以仁王の遺児を義仲と並んで戴き、「坂東ニカクテアラン」積もりは全くなかった。この点で、『源平盛衰記』や『平家物語』(長門本)が、前記の一一八三年(寿永二)三月の頼朝の信濃攻めの後に、義仲の許に軍使に立った人物を岡崎義実と天野藤内遠景と伝えていることは興味深い。広常と因縁のある義実がわざわざ選ばれているのではないだろうか。それは義仲との同盟路線が広常の関与の下で行われることに対する頼朝の警戒を示しているように思うのである。ここには、京攻めへ展開する情勢の中で東国武士の内部的矛盾が激化し、広常の地位が孤立化していることが示されている。
 この中で、後白河*14と朝廷側は頼朝の上洛を促す態度を取った。それが頼朝と義仲の離間を見通して、その間隙を狙う意思を含んでいたことはいうまでもない。それに対して義仲は「頼朝を召し上げらるるの事、然るべからざるの由を申すといえども、御承引なく、なおもって召し遣はされ了」と恨言を述べたという(『兼実日記』寿永二年閏一〇月二〇日条)。すでに『兼実日記』の九月三日条に「頼朝、去月廿七日に国を出、すでに上洛云々、但し信受せず、義仲偏に立ち合うべき支度と云々」(同九月三日条)という噂が記されているように、頼朝と義仲の同盟はもろくも崩壊したのである。
 それを決定的にしたのは、いうまでもなく、この年一〇月に出された宣旨、いわゆる寿永二年の十月宣旨である。周知のように、それは東国の国衙・荘園の年貢の沙汰権と「東海東山道等の庄公、服さざるの輩あらば、頼朝に触れて沙汰致すべし」(『兼実日記』閏一〇月二二日条)という不服の輩に対する検断権を頼朝に与えたものであるが、その原案は「東海・東山・北陸等の国々(中略)、若しこの宣旨に随わざる輩あらば、頼朝の命に随い追討すべし」というものであった。頼朝は原案にあった北陸道が義仲を憚って削除されたことを怒り(『兼実日記』寿永二年一〇月二四日条、『同』閏一〇月一三日条)、逆に原案を聞いた義仲はそれを「生涯の遺恨」と称したのである(『兼実日記』寿永二年閏一〇月二〇日条)。
 頼朝の動静の正確なところは不明である。しかし『兼実日記』によると、頼朝は一〇月一九日に鎌倉を立って一一月には入京の予定であるといい(『同』一〇月二八日条)、あるいは閏一〇月五日に鎌倉を出て、途中遠江国で形勢を伺っているといい(『同』閏一〇月二五日条)、閏一〇月五日には実際に十月宣旨の施行と称してその先遣隊が伊勢国に到着している(『同』閏一〇月二二日条)。また『吉記』一一月四日条によると頼朝は三百万人の軍勢を率いて足柄山を越えたが、義経を代官として上道させ、自分は鎌倉に帰ったともいう。この段階で頼朝が富士川合戦以来はじめて本格的な京攻めの軍勢を動かしたのは確実であり、頼朝はこれらの行動によって十月宣旨を既成事実として確定したのである。ただ注目されるのは、右の『吉記』に頼朝が鎌倉に帰還した理由を「京上を企つの間、毎事落居せざるの間」としていることである。そこには東国武士の内部にまだ全国的な戦争に挑む体制が完成していなかった事情を想定できるように考える。
 さて、義経は翌年一一八四年(寿永三)の一月二〇日に入京し、義仲の首を獲ることになるが、その検討に進む前に、いわゆる「寿永二年十月宣旨」の位置付けについて触れよう。周知のように、この宣旨によって頼朝は正式に国家権力の分肢の地位を獲得したといわれている(佐藤進一『日本中世史論集』四三頁)。私は、それは以仁王令旨にいう「諸国使節」の発展形態、すなわち惣官職の一種であったと考える。頼朝のこの地位を端的に示しているのは、『吾妻鏡』の一一八六年(文治二)四月二四日条に載せられた奥州の藤原秀衡充ての書状で頼朝が「御館は奥六郡の主、予は東海道惣官なり」と自称したことであろう。ここでいう「東海道」とは東国の意味であり(石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』二〇八頁、石井進『日本中世国家史の研究』二三五頁)、「惣官」とは平家権力の「機内惣官」と同じものである。そして、これはこの時期の頼朝の自己の地位に対する認識を示す最も確実な史料であり、単なる誇称ではありえない。これまで強調されてこなかったが、この「東海道惣官」こそが、十月宣旨の内実をなすと認識されていたはずである。
 もちろん、十月宣旨に惣官の語が記入されていたという訳ではない。義仲への配慮もあり、宮廷はそのような用語を使用しなかったであろう。しかし、十月宣旨に至るまでの院と頼朝の交渉は相当の密度をもっていたと考えられ、宣旨が実質上東国惣官職という共通理解の下に発給された可能性は高い。また、少なくともこの書状が出された一一八六年(文治二)の春頃、十月宣旨発布から約二年半後の時点では、十月宣旨の意味がそのように了解されていたとして何の問題もない。右の書状は「貢馬・貢金の如きは国の土貢として、予いかでか管領せざらんや。当年より、早く予伝進すべし。かつがつ勅定の趣を守るところなり」と続いており、それは頼朝が奥州の上に立って「貢馬・貢金」の「国の土貢」を管領する地位を「勅定の趣」と理解していたことを明示しているのである。これこそ東国の国衙・荘園の年貢の沙汰権そのもの、しかもその中枢部分を意味したのであろう。一一八四年(元暦一)の段階で東大寺大仏造営の滅金料に頼朝が千両、秀衡が五千両の金を奉加することになっており(『兼実日記』元暦一年六月二三日条)、一一八五年(文治一)の末には秀衡の院への進物を頼朝が横取りして院に進めたという噂が立っている(『兼実日記』同年一二月一四日条)。宮廷側は奥州の特産物貢上をめぐる頼朝と秀衡の関係を重大視し、金・馬貢上を頼朝に委任していたのであって*15、そのことは頼朝の広域的権力の優越性の承認を意味することは揺るがない。
 問題は、この東国惣官職の制度的な権限内容は、第一に田中稔が十月宣旨により頼朝は東国における没官・謀反人跡への地頭職補任権を公認されたとするように、地頭補任権であり(『鎌倉幕府御家人制度の研究』三六頁)、第二は、十月宣旨のいう「不服の輩」に対する検断権、つまり東国惣追捕使の権限であったたとすべきであろう。このような東国惣地頭と惣追捕使というべき地位を統一した領域的公権力としての東海道惣官職こそが、佐藤のいう「事実的支配」に基づいて成立し、鎌倉時代を通じて存在した「幕府の東国に対する特殊権限」を支えたものであった。佐藤はそれを、朝廷による「公権」の委任ではなく、東国における実力的・事実的支配の法的公認の形式としているのである。それは鎌倉権力が「東国国家」としての体裁を整えて、朝廷と一種の対外関係を形成していく上で決定的な法形式となったのである。
 後に触れる一一八五年(文治一)一二月六日の「綸旨」の一節に「諸国庄園の下地においては関東一向に領掌せしめ給うべし」といわれているように、この東海道惣官職は普通は「関東」と表現され、あるいは実朝が「関東長者として、去る七日、従五位下位記ならびに征夷大将軍宣旨」を受けていることからすると(『吾妻鏡』建任三年九月一五日条)、「関東長者」ともいわれた。「関東」という用語が地域的公権を意味していること明らかである。
 そして、有名な大江広元の守護地頭設置の献策なるものに「東海道の内においては、御居所たるにより静謐せしむるといえども、奸濫定めて他方に起こらんか。これを相鎮めんがため、毎度東士を発遣せらるるは人々の煩いなり云々」(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日条)とあることは、この「関東」の支配が頼朝の「御居所」であることをもって支えられていることを示している。
③西国追討軍と守護
 さて、頼朝による十月宣旨の獲得・東海道惣官職の獲得は、東国においては基本的に既成事実の法的認証の形式でしかなかったとはいえ、その全国制覇にとって大きな政治的条件となった。これによって徐々に拡大しつつあった東国武士団の内部矛盾は、外部へ向けての戦争体制によって解消される条件をえたのである。
 一一八四年(寿永三)一月二〇日、源範頼と源義経は数万騎の軍勢を率いて入京し、義仲は敗死した。続いて、鎌倉軍は一挙に平家の根拠地であった摂津に殺到し、二月七日、一の谷合戦に勝利する。ここに平家の没落は決定的になったといってよい。この情勢の急転回の中で、二月二五日、頼朝は「朝務事、平家追討事、諸社事」の三ヶ条からなる奏状を後白河に提出し、全国的な政治課題について初めての本格的な発言を行う(『吾妻鏡』同日条)。特に、第一条の朝務の条ではまず積極的な「徳政」の必要性が強調された。それは三章で触れるような頼朝の国家構想の初発点を示すものとして重要な意味をもっている。ただ、ここで問題としたいのは、その内容として「東国・北国両道の国々、謀反を追討するの間、土民なきが如し、今春より、浪人等をして旧里に帰住し、安堵せしむべく候」という「戦災地帯の復興問題」、勧農問題が取り上げられたことである。そのような認識の下に、頼朝は東国・北国の国司の選任を秋まで延期すること、それ故にそれまでは頼朝がこれらの諸国の国務権を掌握することを通告する(河内『頼朝の時代』一二二ー三頁)。
 鎌倉時代の守護権力形成の原点はここにあった。まず、右の勧農政策に基づいて「鎌倉殿勧農使」の派遣が行われた。石井進はこの勧農使を守護とほぼ同じものと論定している(『日本中世国家史の研究』二九九ー三〇九頁)*16。史料に残る限りでは、この勧農使は一一八四年(元暦一)四月頃に「鎌倉殿勧農使字藤内(比企朝宗)」が越前国で活動していたことが知られるのみであるが(『平』五〇八八号文書)、同様の勧農使が各地で活動したことは確実である。同じ年、一一八四年(寿永三)二月一八日に発せられた「播磨国・美作・備前・備中・備後、五ヶ国は景時・実平等専使を遣わし、守護せしむ」という頼朝の指令に基づいて、三月二五日、「土肥次郎実平、御使として備中国に於いて釐務を行う。仍て、在庁散位藤原資親已下の数輩、本職に還補す」という処置が取られた(『吾妻鏡』同日条)。この実平の「釐務」が行われた三月という季節に着目すれば、この「守護」も実質上は勧農使というべき側面を有していた可能性は高い。
 もちろん、勧農使はあくまでも「守護」の(あるいはむしろ「国地頭」の)一側面であり、それに対して、「守護」の軍事的側面は「惣追捕使」という用語で現される。この惣追捕使が、この段階の守護を示す一般的な職名であった可能性は高い(石井進『日本中世国家史の研究』三〇一頁)。右の実平・景時に対する「守護」の命令が、『吾妻鏡』の翌一一八五年(元暦二)四月二六日条で「実平・景時をもって近国惣追捕使に差し定めらる」と述べられていることにそれは明らかである。そして、この軍事的側面が「守護」の中心的性格をなしていたこともいうまでもない。守護は平家追討の前線諸国に対する惣追捕使を名義とする軍政支配として展開を開始したのである。
 しかし、守護は単に軍事的な機能に局限されるものではなかった。重要なのは、石井進が有力な東国武士による国司目代と守護の兼帯の事例を上げていることである。右にふれた実平の「釐務」の権限は国衙制度の中では目代の権限にあたるというべきであり、実際に実平とならんで守護を命ぜられた梶原景時は頼朝の推挙によって一一八五年(文治一)頃に美作国の目代に補されていた(『吾妻鏡』建久二年閏一二月二五日条、参照、『日本中世国家史の研究』二八一頁)。その他、有力な鎌倉武士が目代に補任されている例としては、一一八五年(元暦二)一月一日、大井実春が因幡目代とみえる例、一一八五年(文治一)末に比企能員が信濃国目代であると見える例がある(おのおの「大夫尉義経畏申詞記」[『群書類従』巻一〇八]、「笠原信親所帯証文目録」[『鎌』一〇八三六]。参照、佐藤『鎌倉幕府守護制度の研究』八七、一四一頁)。佐藤が述べるように彼らはおのおの若干遡る時点から(つまり一一八四年(元暦一)頃から)因幡・信濃の守護を兼ねていた可能性が高いというべきであろう。また伊賀国でも、『吾妻鏡』によると大内惟義が一一八四年(元暦一)三月二〇日に伊賀国守護を仰せ付けられているが、その地位は同年八月九日の伊賀国在庁官人充下文案の袖の「在判」の部分に「源惟義国務の時の免判なり、国務を奉行するといえども、国司にあらず、仍て大介の位所なし」という注記があり(『平』四一九三号文書)、既に明らかにされているように(石井『中世国家史の研究』二九九頁)、国務の知行者であったことを知ることができるのである。
 結局、守護という職名は、惣追捕使のみでなく勧農使・目代などの勧農・行政にわたる多様な側面を有する新たな職制を表現する言葉として選択されたのである。その中心的性格が軍事支配にあったことはいうまでもなく、こここで、勧農・行政というのは軍政の直接的一環として臨時的に展開されたものであり、この段階で守護が制度的に安定した職になっていた訳ではない*17。しかし、石母田の指摘のように(『著作集』第九巻、一七〇頁)、一一八四年(元暦一)八月紀伊国伝法院領の荘園への兵糧米賦課をめぐる相論において豊島有経が国衙から「守護人」と呼ばれており(『平』四一八九号文書)、また翌一一八五年(元暦二)四月二九日の播磨国における武士の濫行を停止した院庁下文にも「守護人」の語が現れている(『平』四二四四号文書)。ここからみて、従来のように内乱期の『吾妻鏡』に現れる守護という職名のすべてを疑うことがどこまで妥当かは再検討の余地があるというべきであろう。守護形成の前史はここでの問題ではないが、その前提となったのは、平氏権力の内部において、そして何よりも内乱状況の中において、軍事・民事双方にわたって指揮・行政能力を発揮するような類型の武士が大量に生み出されたことにある。功名を競う彼らのエネルギッシュな行動こそが武家権力の骨格を作り出す基盤となったのである。
 ともあれ一一八四年(元暦一)以降、矢継ぎ早に各国に「守護人」「惣追捕使」が置かれ、東国武士が一国ないし数ヶ国を分担して担当する体制が形成された。それは、平家追討の中で、鎌倉によって軍事的指揮権の地域的分掌、より端的にいえば一種の「国分け」が行われたことを意味している。しかも注意すべきはその基本形態は「一国」よりも数ヶ国兼任の方が一般的であったことである。もとより、これは直接の軍事的要請を基本に形成された体制であり、この時期の「守護権力」が広域的・惣官職的な側面を有していたとしてもそれは萌芽的なものであったとするべきであろう。しかし、このような国分けの体制は、一一八五年(文治一)三月の長門壇ノ浦の戦いで平家が滅亡することによって半ば恒常的な体制に転化する。そして、さらに頼朝が平家追討の功労者・義経を排除する過程の中でそれは本格的に鍛え上げられたのであった。
 頼朝による義経追討の理由は、義経がその軍功と後白河の権威を背景に急速に独自な畿内支配を展開したことに求められる。そもそも義経のこのような地位は、右にふれた一一八四年(元暦一)二月一六日、土肥実平・梶原景時に近国の「守護」を仰せ付けるのと同時に発せられた「洛陽警固以下の事仰せらるる」という頼朝自身の命令によって支えられていた(『吾妻鏡』元暦一年二月一六日条)。それに基づいて義経は翌年一一八五年(文治一)までの間に、平家惣官職の根拠地であった京都と畿内に対して平家と同じような惣官職的支配を展開したと考えられる。もとより不安定なものであったにしても、それは前記のような各国における「守護権力」よりはさらに惣官職的な性格が強い広域権力であったに違いない。
 頼朝と弟義経の間の矛盾がここに胚胎した。この頼朝・義経問題については別個の検討が必要であるが、それは鎌倉期武臣国家における畿内支配問題の特殊性、あるいは権力編成における兄弟間分掌の問題性を先取りしたものであるということもできよう。頼朝は、足利尊氏による弟直義の殺害のような「弟殺し」の伝統の形成者でもあったのである。
 壇浦合戦から約七ヶ月後、一一八五年(文治一)一〇月九日、頼朝は義経襲撃の刺客を発した。それを知った義経は、一〇月一八日、後白河から頼朝追討宣旨を獲得して挙兵する(『吾妻鏡』同日条)。そして一一月三日、出京する義経が「九国地頭」、行家に「四国地頭」の地位に対応する院庁下文を獲得したことは、彼らが畿内における惣官職的権限を放棄しつつも、九州と四国を支配する同様の地位につくプランを有していたことを示している(『吾妻鏡』文治一年一一月七日条)。それは一一月六日、摂津大物浜を出発しようとした義経の乗船が疾風によって転覆するという偶然によって実現しなかったが(『吾妻鏡』同日条)、もしそのような偶然がなかったならば、内乱の進展はさらに複雑を極めることになったことは確実である。義経の行動を頼朝の挑発にのった単なる短慮によるものとすることはできない。
 それ故に頼朝は周到な戦略をもって事態に対処しようとした。まず彼は、一〇月二四日に予定された父義朝の廟所・南御堂、勝長寿院の落慶供養に専念する風情をみせる。そして勝長寿院供養の法要が終了するや、頼朝はそこに集合した多数の御家人に対して翌日自身上洛することを告げ、軍士の着到を取った。つまり父の権威に依拠し、その法事を弟の追討・殺害計画に利用したのである。『吾妻鏡』によると、着到を付けられた御家人は二千九十六人に上るという(『吾妻鏡』文治一年一〇月二四日条)。
④義経追討と時政七ヶ国地頭
 頼朝は二八日に土肥実平を先陣とし、千葉常胤を後陣として鎌倉を立ち、駿河国黄瀬河宿まで出張する(『吾妻鏡』文治一年一〇月二八・二九日条)。例によって頼朝自身は義経の都落ちを確認した後、一一月八日には鎌倉に戻ったとはいえ、父の法事を済ませ大規模な陣立をして上洛した頼朝が全国制覇の戦略実現に邁進するのは必然であった。
 その方針を決定したのは、おそらく頼朝が鎌倉に帰着した翌々日、一一月一二日に行われた評議であった。『吾妻鏡』は、この日、駿河国以西の御家人に対して上洛の延引を通知する触書が廻らされ、義経の縁者である河越重頼の所領を収公するなどの処置が行われたことを伝えるともに、「毎度、東士を発遣せらるるは人々の煩いなり、国の費えなり、この次いでをもって諸国に沙汰を交え国衙荘園毎に守護地頭を補せらるれば、あながちに怖れるところあるべからず、早く申請せしめたまふべし」という有名な大江広元の献策が行われたとしている(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日条)。
 この広元の献策は事実であり、そして、この論議をうけ具体的な指示を受けた上で時政が京都に上ることになったに違いないと考える。とくに重大なのは「諸国に沙汰を交え」の部分であって、これは国衙統括を含んでいるというほかない。石母田は平家惣官職権力について国衙全般を指揮する包括的な権力ではないとするが(石母田「平氏政権の総官職設置」)、この広元献策はそれと比較しても強力なものであった可能性が高い。時政は『兼実日記』によると一一月二四日、『吾妻鏡』によると二五日に入洛して「守護・地頭設置」を要求した。『兼実日記』は、「その勢千騎云々」としている。時政が鎌倉出発の時にそれだけの軍勢を率いていたかは別として、彼の出発が一二日以降であったと推測することは許されよう。もとより、このすべてが広元の献策によるかのような記事に相当の文飾があるであろうことは従来から指摘されている通りであり、軍議はすでに頼朝の黄瀬河出張の幕営あるいはそれ以前から凝らされていたに相違ない。広元の献策は、それらを総括するものであったというべきであろう(以上、参照『石母田正著作集』第九巻一八一~一八四頁)。
 すでに一一月五日には小山朝政・朝光以下から構成されていたと思われる先鋒隊が京都に到着し(『吾妻鏡』同日条)、さらに『兼実日記』によれば続々と東国武士が入洛し、『吾妻鏡』によれば一一月一九日には、頼朝の行軍の先陣を勤めた土肥実平が入洛している。私が注目するのは、『吾妻鏡』が実平について「今度、国々に支配せらるる精兵の中、尤も専一たり」と述べていることである*18。『吾妻鏡』は翌年梶原朝景が京都から鎌倉に帰任した時、「去年勇士を廿六ヶ国に撰び遣わさるるの時、土佐国に向かうところなり」(『吾妻鏡』文治二年九月一五日条)と説明しているが、この「勇士を撰び遣わさる」という文言と「国々に支配せらるる精兵」という文言が同じ意味であることはいうまでもなく、そこでは「勇士」「精兵」への国々の「支配」(分割)と「撰遣」、つまり「国分け」がはっきりと意識されているのである。そして、この『吾妻鏡』の記事は、彼らが東国を出た時、すなわち一一月一二日の評議以前に、東国武士たちによる国々の分担の大枠が決まっていたことを示唆している。
 このような「国分け」が先に触れた平家追討時に構築された「守護」体制の発展であったことはいうまでもない。ただ、この国分けの全体、つまり時政・実平など以外に誰が上洛し、彼らがおのおのどの国を分担・支配したかをすべて特定することは困難である。しかし、有名な時政の「守護地頭設置」の要求に関する『兼実日記』の記事が「件の北条丸以下の郎従等、相分けて、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜わり、庄公を論ぜず兵糧<段別五升>を充て催すべし、ただに兵糧の催にあらず、惣じてもって田地を知行すべし云々」(『兼実日記』文治一年一一月二八日条)と述べたように、時政の要求が「北条丸以下の郎従等」に対する西国諸国の分割支配要求であったことは明らかである*19。
 さて、その国分けの体制の中で、時政は「七ヶ国地頭職」を獲得した(『吾妻鏡』文治二年三月一日条)。三田がいうように、この史料は鎌倉幕府「国地頭」職の最も確実な史料であり、その解釈は文治の「国地頭」の実像を探る上で決定的な意味をもっている。三田は、この「七ヶ国地頭職」とは時政が七ヶ国に獲得した庄郷地頭職の総称に過ぎず、義経・行家の「九国地頭」「四国地頭」のような「律令制の国の枠を越えた特定の領域を対象とする所職」、つまり惣官職的所職ではないとする。そしてここから石母田のいう「一国」地頭職、つまり「律令制の行政単位としての『国』を知行するところの地頭職」なるものの存在は一種の虚像にしか過ぎないと主張したのである(「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」)。
 石母田は「国地頭」を「古代的」という意味での一国ごとに設置されるものとしており、その意味では、この三田の石母田批判の結論自体には了解できるところがある。しかし、その上で疑問として残るのは、義経・行家の「九国地頭」「四国地頭」が「律令制の国の枠を越えた特定の領域を対象とする所職」であり、時政の七ヶ国地頭職はそうではなく、荘郷地頭職の集積に過ぎないという三田の結論の仕方である。一一八五年(文治一)の末頃に九州で活動が確認される鎮西守護人・天野遠景は『延慶本平家物語』で「鎮西九国地頭」と呼ばれている(大山「鎮西地頭の成敗権」*20)。これは信頼性は若干であれ落ちるものの鎌倉初期「国地頭」についての第二の有力な史料であるといってよいが、彼と時政をしいて区別する必要があるとは思えない。私は、この七ヶ国地頭、国地頭という形態は直接に後白河による九国・四国地頭の補任を先例と主張して強請された可能性があると考える。少なくとも両者は同じものであったはずである。そして、三田の結論とは逆転することになるとはいえ、三田の視角に従えば、七ヶ国地頭が「九国地頭」「四国地頭」と同様の「律令制の国の枠を越えた特定の領域を対象とする所職」であるとしても、厳密には石母田の議論は崩壊してしまうのである。
 実は、石母田自身もこの「七ヶ国地頭職」について「その『七か国』は相互に隣接する一領域をなしていたか、それとも各地方に散在する形で保有されていたか」という問題を提起し、一度、「若干の推測ができないではないが、それも推測にとどまるので、ここでは省略したい」(『著作集』第九巻、九六頁)とその問題提起自身を否定しながらも、もう一度そこに立ち戻り、摂津国惣追捕使を時政が掌握していた可能性に触れるなかで「地域としては北陸道諸国が可能性のある地域であるが、しかし『玉葉』の記事を厳格に解すべきだとすれば、北陸はのぞかれねばならぬ。西海諸国の天野遠景、山陽・南海諸国の土肥実平・梶原景時等を考慮すれば、畿内とその隣接諸国が浮かび上がるが、これは時政のこのときの地位にふさわしい地域である」(『著作集』第九巻、一七五頁)としている。
 つまり石母田は時政の七ヶ国地頭も現実には国を越えた一定の領域、畿内近国を対象とするものであった可能性を強く示唆しているのである。石母田の「国地頭」という問題提起は、この点でも実証的には驚くべく正確であったといわねばならない。石母田自身はこの推測を「一つの憶測」としているが(『著作集』第九巻、一七五頁)、安田元久もこの七ヶ国を畿内及び近江・紀伊国としているように(『日本初期封建制の基礎研究』二八一頁)、この推測の蓋然性はきわめて高い。先述のように内乱期守護が基本的に何国かを分掌する形で存在していたこともそれと関係する。上横手が承久の乱勃発当時の西国守護の分布が「五畿七道の制からすれば散在しているようにみえるものの、実は接続した地域を(諸国をー筆者注)同一人が管轄していることであって、鎌倉前期の国地頭ないし守護の実態について若干の示唆が得られるように思う」としているのはまさに重要であろう(『鎌倉時代政治史研究』二一頁)。
 なお、石母田が「時政のこのときの地位」というのは、『吾妻鏡』に時政が「京畿沙汰」(同文治二年四月一三日条)を行い、「武家の事を執行」(『吾妻鏡』文治二年二月二五日条)といわれていること、さらに時政が初代の京都守護といわれていることなどを示すのであろう。時政が「京畿沙汰」を行ったという記述は少なくとも鎌倉時代に時政の地位がそのようなものであったとされていたことを示している。そして少なくとも時政の支配した国の内に摂津国・河内国の両国があったという推定は確実なものと考えられ(上横手『鎌倉時代政治史研究』一四〇頁)、また時政が鎌倉帰任の時に丹波国の長講堂領石負庄と弓削杣(庄)への兵糧米賦課を停止する自己の請文を院に提出したことからすると(『吾妻鏡』文治二年四月一三日条*21)、丹波も七ヶ国の内であった可能性が高い。
 時政権力のこのような畿内権力としての性格は、問題の『吾妻鏡』文治二年三月一日条所載の時政書状の文言自身からも推定される。時政は「時政給わる七ヶ国地頭職においては、各勧農を遂げしめ候はんがため、辞止せしむべきの由存ぜしめ候ところ也、惣追捕使においては、彼の凶党出来候の程は、かつがつ成敗を承らんがため、守補せしむべきの由、存知せしむべき也」と述べている。つまり、時政は「七ヶ国地頭職」という形で有していた勧農への関与の権限が、この春の勧農の季節において実際には農耕の妨害になるという事態を認め、それを「各」の営為たるべきことを述べているのである。この「各」はまずは各国衙の勧農行為を想定するべきであろう。そして「各」は時政の権限の下に置かれた存在であり、時政は「各(国)」に対して統括的な立場で臨んでいたことは明らかである。これは鎌倉側の「地頭設置」の要求、それゆえに頼朝の「日本国惣地頭」の地位の要求が国衙掌握を前提としていたことを明瞭に示している。
 後白河は右の引用部分にみえる時政の七国惣追捕使の「守補」の要求に対して「惣追捕使のこと、その名を替ふと雖も、只同然か。但し、義経・行家出来せざる以前は、二位卿申し行はざるの外、一向に止めらるべきの由計り仰せられがたし、世間落居せざるの間は、国毎に惣追捕使を置き、若しくはまた広博の荘園許りに計らい補すは宜しかるべきか。最も狭少の所々に皆悉く補さるれば、喧嘩絶えず、訴訟尽きざるか。かつがつ万人の愁いを散ぜしめ、両人を尋ね出すの術たるべきか」と述べた(『吾妻鏡』文治二年三月七日条)。これは惣追捕使の設置の在り方に関する手直しの要求である。院は、「国毎」に惣追捕使を置くか、広博の荘園を選んで設置するかならば容認しようと述べている。今までの諸説は、この「国毎」という部分を根拠にして惣追捕使(それ故に国地頭)が一国単位に補任されていたとするが、それは誤読であって、むしろこれは院の提案あるいは希望的観測である。つまり「国毎」に一国惣追捕使を置くことは状態の手直しなのであり、逆にいえば、それは時政の惣追捕使職が国毎に置かれたものではなく、七ヶ国の総体に対して発動される権限であったことを示しているのである。
 石母田の惣官職論からするとこの点こそが論点の中心にならねばならなかったのではないだろうか。つまり、七ヶ国は平家惣官職およびそれを受けた義経の支配領域であったのではないだろうか。時政の権力は、義経・行家・天野遠景の「九国地頭」「四国地頭」と同様、畿内近国に対する「七ヶ国地頭」そして「七ヶ国惣追捕使」を兼任する惣官職的な進駐軍事権力であったのである。石母田が、この自身の議論にとって最も自然な結論を提示することを躊躇したのは、「『七ヶ国地頭職』なる地頭職は、集中した一領域をなそうが、分散的な形で存在しようが、それとはかかわりなく、律令制の行政単位としての『国』を知行の対象とするところの地頭職」(『著作集』第九巻、九六頁)を「単位」(『同』一〇七頁)とするものであると考えたからであり、平安末期の国家を「律令制国家」(古代国家)とする現在では清算された理論枠組に規定されていたからである。石母田の仕事が、自己の抽象的な理論枠組を内破する寸前まで行っていることが注目される。
 そもそも、本来的に平家追討・義経追討というような軍事的任務をもった権力は国衙の中に収まらず、むしろその上に立つ広域的な権力にならざるをえない。もちろん、たとえば伊勢国の「国地頭兼惣追捕使」であったと思われる山内首藤経俊の支配領域は伊勢国一国であったから(川合「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」)、一国国地頭という形態が存在したことも事実であり、国の「単位」性の指摘自体が誤りという訳でもない。しかしその権力としての本質は国衙をも上から軍事的に統括することにあり、その国衙が単数か複数かは本質的な問題ではなく、軍事的権力の領域がどのようなものとなるかは、権力編成の諸条件および敵対する軍事力の実態に規定されるのである。そして、事実としては、義経・行家の「九国地頭」「四国地頭」、さらに梶原景時や土肥実平、そして頼朝が「北陸道方事、朝宗に申し付けて候」と述べているように北陸道諸国の「国地頭兼惣追捕使」であったと推定される比企朝宗のように(『吾妻鏡』建久二年六月二三日条)、国地頭の一般的形態はむしろ国衙を越える広域的・惣官職的権力であったともいえるのである。
 もとより、彼らの権力の実体の一定部分が石母田のいうように国衙に対する制度的な指揮権であることは事実であるが、「平穏な時期には制度の問題としてしか存在しないが、たとえば反乱や政変のように生の権力が前面にでてくる場合には、権力の基礎としての一定地域の確保が問題となり、そこを基盤として権力を集中しなければ、いかなる権力も維持しえないことはあきらかである」(『著作集』第九巻、四四頁)という石母田自身の観点を忘れてはならない。
 そしていうまでもなく、このような頼朝の惣官職的権力の原型は十月宣旨によって追認された「東海道惣官」職にある。このような広域的権力の形成こそが鎌倉期政治史の基本問題であったことは、上横手の「梶原景時は鎮西管領の宣旨を賜わったと称し、城長茂は後鳥羽院に頼家追討の宣旨を請い、阿野時元も宣旨を賜わり東国を管領せんとした。幕府に対する反逆が、宣旨を得て地方政権を樹立する形式で目論まれる現象は、ほとんど法則的といってよい」(『日本中世政治史研究』三五三頁)という提言に明らかである。これに付け加えるならば、承久の乱において藤原秀康が「五箇国の竹符をあハせて追討の棟梁たりき」(『六代勝事記』)という畿内惣官職類似の追討使として院側の軍勢を指揮したこと(平岡豊「藤原秀康について」)、そしてさらに降って、南北朝時代初期、北条時行を討つために関東に下向する時、尊氏が後醍醐に征夷大将軍の称号とともに奏請したという「東八ヶ国の管領を許され直に軍勢の恩賞を執行ふ」の地位権限(『太平記』一三)の問題がある。これらの地域的公権力は政治史の展開点において、まさに「法則的」に現れるのであり、その直接の原型として平安末内乱期の惣官職的諸権力を把握しなければならないのである。
 石母田は、自身が発見した平家惣官職と総下司職を、結局おのおの鎌倉幕府の守護制度と「一国地頭職」に対応するものとしてしまい(『著作集』第九巻、五三頁)、それによって惣官職的権力の「法則的」な展開を見失ってしまったのである。惣官職は決して守護制度に対応するものではない。むしろ時政の場合に明瞭に見て取れるように、その広域的権力の下に惣追捕使と国地頭職が一体となって存在した構造があったのである(高橋昌明「文治国地頭研究の現状にかんする覚書」)。この問題については章を変え、「文治勅許」なるものの実際に触れつつ必要な言及をすることにしよう。
Ⅱ「文治勅許」と「守護地頭
      停止」
①問題の所在
 前章の分析をふまえ、一一八五年(文治一)一一月・一二月の守護・地頭の「勅許」なるものの検討に進む。いうまでもなく、この問題こそ「文治守護地頭論争」の中心問題であるが、周知のように、それを伝える史料はどれも全面的・第一次的な史料ではなく、そのような史料のおのおの、さらにその全体をどう整合的に理解し、そしてそれをどのように内乱期の政治史の中に位置づけるか。そこに「文治守護地頭論争」の固有の困難があり、論争とその複雑化の原点があった。
 しかし、現在の段階で解決を必要とする論点はほぼ二つに絞られてきているといってよい。それは相互に関係したものであるが、第一は、頼朝の「日本国惣追捕使・惣地頭」としての地位をどう理解するかという問題である。いうまでもなく、この頼朝の「日本国惣追捕使・惣地頭」への補任は、後の編纂物に伝えられているものであって、たとえば、『興福寺略年代記』や『保暦間記』などの諸書は「源頼朝、六十六ヶ国総追捕使ならびに地頭に補せらる」「日本国の国々に守護を置き、郡荘に地頭を居て総地頭職を給はらん」などと、この文治「勅許」をもって頼朝の「日本国惣追捕使・惣地頭」への補任としているのである。
 それらの記録は『大日本史料 四編之一』によって総覧することができるが、実は、『大日本史料』がこれらの記事に対して「頼朝、守護地頭ヲ総管セルヲ以テ、当時コノ称呼アリシニテ、公授ノ職名ニハアラザルベシ」と按文を付したのに対する中田の批判(『法制史論集』第二巻、八七九頁)が守護地頭論争の直接の出発点であったのである。中田の議論の出発点はこれらの記事を事実とみる点にあったが、それは現在では通説となっているといってよい。たしかに、頼家の危篤の際、「将軍(頼家)家御不例、縡危急の間、御譲補の沙汰有り、関西三十八ケ国地頭職をもって、舎弟千幡君<十歳>に譲与し奉られ、関東二十八ケ国地頭ならびに惣守護職をもって、御長子一幡君<六歳>に充てらる」といい(『吾妻鏡』建仁三年八月二七日条)、これに対して一幡の岳父の比企能員が頼家に対して「家督の外に、地頭職を相分けらるるにおいては、威権二つに分かれ挑み争うの条、疑うべからず」(『吾妻鏡』建仁三年九月二日条)と述べている。
 ここで「日本国総地頭」の地位が鎌倉殿の「威権」の根本であると理解されていたことは明らかである。前節で述べたように、頼朝が「東海道惣官」であったことは明らかであるが、これによれば頼朝は、それのみでなく、全国的な権限を握っていたことは明らかである。そして石井進が「承久四年(一二二二)正月勾当僧蓮慶譲状案には、『右件職者、鎌倉故□(右脱か)大将家始令補日本国地頭職之給し御代之初、忠久左衛門尉殿任当御庄地頭御代官、奉行廿年」と明記されていて、文治の始め、頼朝が『日本国地頭職』に補任されたことを示している」としたように(『日本中世国家史の研究』三一三頁)、それは頼朝の地位に対する社会的通念でもあったのである。
 この意味では「文治勅許」の後の頼朝の地位を「東海道惣官=関東長者」とのみ評価することが適当でないのは明らかである。むしろ頼朝は「東海道惣官」であると同時に、それを越える国家的地位を確保しているのであり、それによって広域権力としての「東海道惣官」により国家的な位置づけをあたえ、それによって「東国国家」というべき地域国家が形成されたと考えることができる。頼朝の「威権」とは東国国家の国主であり、同時に「日本国惣追捕使・惣地頭」にあるものの「威権」であったといわねばならない。
 しかし、守護地頭の設置を「勅許」した公文書の中にこの「日本国惣追捕使・惣地頭」という職名が記入されていたとは考えられない。その意味では、『大日本史料』の按文はそれ自体として誤りである訳ではないのではないだろうか。それは「公授の職名」ではなく「勅許」の交渉過程における相互了解あるいはその事後的な解釈であったというべきであろう。もちろん、だからといってそれが「歴史事実」でないというのではない*22。要するにそれは内乱収拾交渉の中で頼朝の身に付着した個人的「威権」・カリスマなのであって、その内実は中田が「頼朝が自ら諸国の守護たり地頭たることに於て始めて、彼が自家の家人を各地の守護地頭に補任したることの事実を、最明瞭に理解しうる」(『法制史論集』第二巻、八八一頁)としたような単に法論理的・法形式論的な議論では解明することはできない。むしろ他方で中田が「当時の頼朝は其名義は一朝官に過ぎずと雖、其実は天皇と相対したる第二の主権者に外ならざるなり」と述べたような主権者としての地位の事実的形成こそ重視しなければならないのである(『法制史論集』第二巻、八八一頁)。
 戦前の論争当事者であった中田および牧健二は、若干の点で見解を異にするものの、「朝廷」が頼朝に対して六十六ヶ国の守護権を「委任」し、それによって地頭職も与えられたと理解する点で共通の理解に立っている(中田『法制史論集』第二巻、八八一頁、牧『日本封建制度成立史』三九頁)。しかし「委任」という言葉は、早く石母田が批判したように、それ自体としては無内容な概念に過ぎず、厳しくいえばそれは軍事指揮権・守護権は本来朝廷の大権であるという事大主義を別の言葉で繰り返したものに過ぎない。そこには後白河と頼朝がどのように特殊な関係を取り結び、それが内乱を通じて形成された新たな国家形態と暴力装置のどのような反映であったのかという観点が存在しない。その意味で、内乱の国家的総括が頼朝に与えた国制身分・カリスマを具体的に理解することこそが最大の問題なのである。
 第二の問題は、研究史のいうところの頼朝の「田地一向知行権」なるものの理解である。それはすぐに触れる一一八五年(文治一)一二月六日の「綸旨」に「諸国荘園の下地においては、関東一向に領掌せしめ給うべし」と現れるものである。これは有名な『兼実日記』の一一八五年(文治一)一一月二八日条、つまり「伝え聞く、頼朝代官北条丸、今夜経房に謁っすべし云々、定めて重事を示すか、また聞く、件の北条丸以下の郎従等、相分けて、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜わり、庄公を論ぜず兵糧<段別五升>を充て催すべし、ただに兵糧の催にあらず、惣じてもって田地を知行すべし云々」の最後の部分(傍線部)に対応していることはいうまでもない。『吾妻鏡』に引用された「綸旨」の前後の文脈が不明であり、『兼実日記』の記事が伝聞記事であることとあいまって、その理解は、石母田のいうように、文治守護地頭問題の原史料解釈における「最大の難問」(『著作集』第九巻、一九二頁)となっているのである。
 そもそも石母田の独自の「国地頭論」自身がこの隘路を突破するために構想されたとさえいうこともできる。石母田はこの「下地一向領掌」とは「庄公の土地における段別五升の兵糧米の得分権と同一である」とした中田薫の説を認め(『著作集』第九巻、一九三頁)、しかもそれらの記事を「国地頭」について述べたものと置き換えることによって、その収取の主体を守護(惣追捕使)あるいは国地頭と理解する。それによって、実質上「下地一向領掌」なるものを守護による兵糧米徴収という軍事的職務に引き付けて理解することを試みたのである。しかし、この兵糧米と地頭という問題が中田・牧論争の主題の一つであったことはいうまでもなく、さらに石母田の理解については安田(『地頭及び地頭領主制の研究』三五六頁)と義江(『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』三五三頁)の詳細な批判があり、それをこのままの形で維持することはできない。また前章の結論が正しいとすれば石母田の「一国地頭」論も維持することはできないのである。(ただ、石母田の見解は後に述べるように「下地知行」の内容として「検注権」を措定するなどある部分で引き継ぐべき見解も含まれており、また「地頭制の本質たる兵糧米制度」(『著作集』第九巻、二二九頁)という石母田の見解はそれ自体としては大きな無理があったとしても、後に述べるように土地所有の軍事化という点からみて生かすべき点も残されている。)
 このような石母田の見解を含めて、いうまでもなく「文治勅許」の含む様々な問題については長く複雑な論争史があり*23、私もそれを一応は追跡してみた。それが方法的にも実証的にも検討するべき豊かな成果をもたらしたことはいうまでもない。ただ感想を述べることを許していただけるとすれば、これまでの研究は石母田の「史料批判」の方法に対する評価が高いわりに、キーとなる史料の古文書学的性格の分析については不十分な点を残したままであったのではないかと思う。以下それに留意しながら、しかし、本章では論争史自身に深入りすることはせず、以上二つの問題を集中的に検討していきたい。
②文治「勅許」と後白河院宣
 まず「文治勅許」なるもの自身の形式・内容を伝える史料を分析する。先述のように、時政は一一月二四日あるいは二五日に入京した。そして『吾妻鏡』によれば、二八日夜、吉田経房との会見で「諸国平均に守護・地頭を補任し、権門勢家庄公を論ぜず、兵糧米<段別五升>を充て課すべきの由」を申し入れ、翌日には「北条殿申さるるところの諸国守護・地頭・兵糧米のこと、早く申請に任せ御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、師中納言、勅を北条殿に伝へらる云々」とあるように、「御沙汰あるべきの由」の「勅」(『吾妻鏡』同年一一月二八・二九日条)が下った。
 これに対して、『百錬抄』は二八日の日付で「源二位の申請により諸国の守護を補せしむべきの由」の「院宣」が下ったと伝えている(『百錬抄』文治一年一〇月(一一月)二八日条)。これは右の『吾妻鏡』の記事と日付の点で矛盾するかのようであるが、むしろ両者をそのまま生かし、時政の申請を一般的に承認し(あるいは承認を約し)、特に守護の設置を認める一一月二八日の日付けの院宣が、翌日二九日に交付されたと考えるべきであろう。今までの諸説は、この『百錬抄』の記事が原史料の要約である可能性を無視し、ほとんど全くといってよいほど採用していなかったが、最近、この時期の『百錬抄』が吉田経房あるいは藤原行隆の日記の抄出であるという見解が提出された(平田俊春『私撰国史の批判的研究』九一〇頁、五味文彦『平家物語、史と説話』一二二頁)。それによった三田は、この史料を十分使用に耐えるものとし、その立場から時政の奏請と「文治勅許」の眼目が「惣追捕使」(守護)の設置問題にあったという仮定の下に関連諸史料を再解釈し、石母田のいう意味での「国地頭」の実在そのものを否定したのである(三田「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」)。
 前章で述べたように、私は三田の結論にそのまま賛成することはできない。しかし、一一月二八日の院宣自体の理解としては三田の指摘はやはり正鵠をえているのではないだろうか。時政の奏請に対して「御沙汰あるべきの由」を約した後白河の院宣が、同時に内乱期守護・惣追捕使の体制を追認した可能性は高い。文治勅許はまず守護設定権の追認、それ故に頼朝の「日本国惣守護・惣追捕使」の地位の承認をもってスタートしたのである。ただ、三田は『百錬抄』のもとになった日記には「守護」でなく「惣追捕使」とあった可能性が高いとするが、私は、前章における内乱期守護の検討結果を踏まえると、平田の指摘通り(「文治勅許の守護の再検討」)、原日記にも「守護」とあっただろうと考える。
 これを前提として文治「勅許」は次の段階に進んだ。『鎌倉年代記裏書』一一八五年(文治一)一二月二一日条は「諸国地頭職拝領の綸旨到着、去る六日 宣下なり、広元計議を加へ、諸国均等に関東沙汰を相交ふべきなり、よって守護地頭補任のこと申し行ふ」と述べている。そして、この一二月六日に発給された「諸国地頭職拝領の綸旨」の一節が『吾妻鏡』文治一年一二月二一日条に記された「諸国庄園の下地においては関東一向に領掌せしめ給うべし」にあたるとしたのは星野恒の「守護地頭考」であって、それは平泉澄「守護地頭に関する新説の根本的誤謬」、高橋富雄「地頭の下地領掌権」、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』(一五二頁)などでも受け継がれており、その大枠は承認することができる。
 しかし、一一月二八日院宣の存在を前提とすると、第一に、それが「諸国地頭職拝領の綸旨」とされていることは、「勅許」が守護問題から地頭問題(そして没官領問題)に具体化したことを示していることになる。そして第二に、「諸国地頭職拝領の綸旨」なるものの古文書学的性格が問題となる。年齢からいって後鳥羽に当事者能力はなく、従来、一般にはこの「綸旨」とは「宣旨」を意味すると解釈されてきた。しかし右の諸論文を検討してみると、それは「院宣」であるとすべきであろう*24。「諸国庄園の下地においては関東一向に領掌せしめ給うべし云々」という文言が書状形式であることは、それに対応している*25。そして、この「云々」という文言は引用符であるから*26、その前が院宣の原文そのものであると考えて問題はない*27。たとえば『兼実日記』一一八三年(寿永二)一〇月二三日条が後白河の院宣を「綸旨」と称しているように、後白河の院宣が鎌倉で綸旨と記録された可能性は十分にあるのである。
 さらに問題なのは、この「院宣」の一節を抄録した『吾妻鏡』が続けて引用した「前々地頭と称するは、多分、平家家人なり、これ朝恩にあらず、或は平家、領内にその号を授けて補し置き、或は国司領家、私の芳志としてその荘園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時は改替す。而るに平家零落の刻、彼の家人の知行の跡たるに依り、没官に入れられ畢んぬ。仍て、芳恩を施す本領主は、手を空しうして後悔するの処、今度、諸国平均の間、還りて其の思いを断つと云々」という平家地頭と「朝恩」地頭の区別を述べた有名な文章の性格である。これは従来「地の文」であって信憑性はないとされがちであったが、やはり「云々」という引用符的用語の存在からみて原史料の一部の引用であることになろう。そして、それは右の一二月六日の院宣の一部、あるいはその副状の一部の引用なのではあるまいか。この多弁的な文章は実質上は事態追認を自己合理化するものにすぎないが、その傲岸な口調が、いわば言葉の正確な意味での愚痴というべき雰囲気をもっているのが興味深い。こういう調子は、当時の実情からして、院宣あるいはその副状的な書状にもっともふさわしいように思う。
 だいたい、『吾妻鏡』のこの条、つまり一二月二一日条は「云々」によって引用された二つの文章のみで構成されており、そのためにこの二つの引用の性格は『吾妻鏡』の字面のみでは全く不明である。つまり、この部分の『吾妻鏡』は、原史料を解説する「地の文」が脱落しているのである。その脱落の事情は、おそらく原史料を引用してあった稿本の加工が史料の不足、あるいは何らかの内容的な理由などによって中途半端なままに終わってしまったということであろう*28。そして、原史料自身も最初から抄出(おそらく幕府内部の引付的な日記)であり、編纂者は別個の記録(たとえば京都の貴族の日記)から材料を収集したのではなく、院宣自身が記されたのと同じ抄出からこの文章を採録したのではないだろうか。
 以上、一一月二八日と一二月六日の二回にわたった「文治勅許」は実は両方とも院宣によって行われたことになる。いうまでもなく院宣は基本的には手続き上の文書であって、公験としての永久的な効力をもつものではないが、この時期の院宣の特殊な性格はまさに院政の状況、しかも権威ある天皇が不在であったという内乱状況の中で分析されなければならない。この時期は政治的・軍事的交渉が東西の間での文書によって行われたという点で、日本史上、独自な時期をなしているが、その中でしばしば実質的内容に富む長文の院宣や書状が発給されたことは周知の事実に属するのである。相互の遠距離によって政治史が独特の多弁性をえたとでもいえようか。
 そして、そのような状況はいずれ解消されるものであり、その意味で「文治勅許」=院宣に表現された政治はまずは後白河と頼朝の関係であったと考えなければならない。以下に述べる頼朝の地位、つまり「日本国惣追捕使」=「日本国惣地頭」の地位は、この二つの院宣によってあたえられたのであるが*29、その意味では、それは頼朝の地位を後白河以後に至るまで保証するものではなかったというべきであろう。このことの持つ意味については後に触れることになる。
③日本国惣追捕使と地頭成敗権
 以上の分析が認められるとすると、『吾妻鏡』一二月二一日条の記事、つまりもう一度、引用すれば、
 前々地頭と称するは、多分、平家家人なり、これ朝恩にあらず、或は平家、領内にその号を授けて補し置き、或は国司領家、私の芳志としてその荘園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時は改替す。而るに平家零落の刻、彼の家人の知行の跡たるにより没官に入れられ畢んぬ。仍て、芳恩を施す本領主は、手を空しうして後悔するの処、今度、諸国平均の間、還りて其の思いを断つと云々
という史料は直接に「文治勅許」の一部をなしていたことになる。この有名な史料は様々な解釈を受けてきたものであるが、ここでは以上の観点から、その意味をもう一度確認してみよう。
 まず冒頭の文言からしてこの一節が庄郷地頭の設置に関わるものであったことは疑いを入れない。また、この一節が①頼朝の地頭と対比して平家地頭の在り方を説明した部分、②「平家零落の刻」の没官処置を語った部分、③今回の「諸国平均」の処置について語った部分からなることはいうまでもない。これらが全体としてどのような意味であり、どのような文脈の下に語られているのかが問題であるが、それは一一八四年(寿永三)三月の院宣、つまり『延慶本平家物語』所載の前大蔵卿奉書との関係で理解されなければならない。著名な史料であるが、部分的に読み方に意見もあるので、以下念のために引用する。
  [一脱か]  平家の所知の事
  一、文書紛失ならびに義仲行家等給事
   右、子細目録に載せ畢、
  一、庄領の惣数の事
   右、彼の一族知行の荘領、数百ヶ所に及ぶの由、世間に風聞す。而るに   院宮ならびに摂録家の荘園、或は私に芳恩の知行これ在り、或は所従な   ど慇懃を致すの輩にこれを預く、此の如きの所々に至(原文は「事」)   っては、全く御進止にあらず、是本所の左右なり、よって惣数に注し入   るるばかりなり、又院御領の庄々等、近年逆乱の間、限りある相伝の預   所・本主等、愁歎せしむるにより、少々は返さしめ給ふべし(原文は「是   返給」)、これにより除く、或は損亡の事由緒なきにあらざるの間、少々   は沙汰せしめ給ふべし(原文は「是沙汰」)」
      (『延慶本平家物語』第五末・七、校訂は筆者の私見)
 この史料についても長い論争史があるが、最新の見解である石井進の理解(「平家没官領と鎌倉幕府」)に依拠した河内の意見を、敷衍して紹介しよう。一年以上前、寿永三年=元暦一年(一一八四)の三月頃、義仲の没落を受けて平家没官領注文が頼朝に給付された。『愚管抄』に「平家知行所領カキタテヽ没官ノ所ト名付テ、五百余所サナガラツカハサル」とある通りである。しかし、右の院宣が示すように、本来の平家一門の所領は別として、後白河は平氏一族や平氏家人が庄官を勤めていた院宮領庄園や摂関家領庄園に対する頼朝の「御進止」を認めようとはしなかった。もちろん「而るに平家零落の刻、彼の家人の知行の跡たるにより没官に入れられ畢んぬ」とあるように、それらの庄園において没官領地頭職が成立した場合もしばしばであったが、院の保護と「本所の左右」の条件によっては没官を免れる場合もありえたのである。それに対して、この義経没落後の一二月六日院宣の段階では没官=地頭設置は「諸国平均」の事柄であって、「今まで難を免れていた庄園にも、ここに至って『没官』の処分が行われた」(河内『頼朝の時代』一八三頁)のである。
 以上を前提に問題の『吾妻鏡』一二月二一日条の記事を解釈すると、まず最初の部分からは、平家地頭と対比するならば、院宣による「諸国地頭職」設置が頼朝に対する「朝恩」であり、頼朝は「朝恩」として自己の家人を没官領の地頭に補任する権限を正式に与えられたこと、その点で平家家人が平氏権力から預け置かれたり、国司・領家によって補任された地頭職とは異なるものであることが確認できよう。そして次の部分からは、この文書が正規の院宣あるいはその付属文書であったという前提からすると、「平家零落の刻」の時に頼朝が獲得した「没官」領注文の中には平氏家人の知行の跡も(たとえ「惣数に注し入るるばかりなり」ということであっても)入れられた場合があり、その場合、本所が「手を空しうして後悔する」ことも起こりえたという解釈が可能になることになる。そして、最後の部分の「諸国平均」の処置とは、「文治勅許」の中には頼朝に対する諸国平均の地頭職の設定権の承認=没官領給付が存在したこと、ということは逆にいえば、この「文治勅許」においては没官領注文は作成されず、一般的な没官権ともいうべきものが頼朝に与えらえたことを意味する。
 これは大山のいう「国家的恩賞授与権」(「没官領・謀反人所帯跡地頭の成立」)が、正確にはこの段階で鎌倉によって最終的に掌握されたことを意味する。没官とは本来は律令制における「謀反・大逆」に対する没収刑であり、天皇と太政官・国衙によって行われる国家的システムである(義江「院政期の没官と過料」)。それにも関わらず後白河院が没官領を処置したのは、後白河が天皇不在(安徳西走)という特殊な状況の下で「平家零落の時」の没官処置とその義仲への給付を行った主体であったからである(川合「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」)。しかし、ここで行われたのは、それらを大きく踏み越えたものであった。この「国家的恩賞授与権」は、頼朝の「日本国惣追捕使」あるいは『百錬抄』のいう「諸国の守護」の地位に対応するものであったことは明らかであり、原理的には、没官と謀反に対する独自の認定権がそこには含まれていた。それは内乱状態の中での頼朝の敵方所領の軍事的没収の延長線上に発生した新たな体制であったのである(川合「鎌倉幕府庄郷地頭制の成立とその歴史的性格」)。
 つまり、文治「勅許」の前段で頼朝に対して全国的な守護権・追捕権を容認したことは、すぐに(一二月六日の段階で)頼朝に対する恩賞授与と没官の権限の承認に帰結したのであり、そして頼朝の「諸国地頭職拝領」すなわち「日本国惣地頭」の地位はそのような軍事的契機によって媒介されていたのである。そこには「没官領の知行は地頭を設置して謀反人の追捕や治安維持を行うためだというような国家的な見地」(上横手『日本中世政治史研究』二二二頁)が明瞭に現われている。
 さて、このような結果をもたらした鎌倉の要求それ自体がどのようなものであったかを示すのが、『兼実日記』の一一八五年(文治一)一二月二七日条に収められた同月六日付けの兼実充ての頼朝書状である。この書状は一一月二八日の文治「勅許」よりも若干遅れる史料ではあるが、この段階での交渉当事者である頼朝の意思を直接に示す史料として最も確実な一次史料である。上記を補う意味で、この書状についても必要な分析をしておこう。
 頼朝は、この書状をあたかも内乱の中間総括をするかのような筆致で、蜂起の意図や経過から書き起こし、中段で義経・行家の追捕への決意を述べている。そして、その後に続く次に引用する部分が、書状の中心部分である。
 彼の両人その身いまだ出来せず、跡を晦まし逐電、かたがた手を分けて尋ね求め候の間、国々・荘々・門々・戸々・山々・寺々に定めて狼藉の事候歟、召し取り候の後、なんぞ相鎮めず候哉、但し今においては、諸国荘園平均に地頭職を尋ね沙汰すべく候なり、その故は、これ全く身の利潤を思うにあらず候、土民あるいは梟悪の意を含み、謀反の輩に値遇し候、あるいは脇々の武士につき事を左右に寄せてややもすれば奇恠を現し候、その用意を致さず候へば、向後定めて四度計なく候か、しからば伊豫国に候といえども、庄公を論ぜず、地頭の輩を成敗すべく候也
 この部分の中心的主題が謀反人に対する討伐・成敗の問題であることは明らかであろう。武末泰雄は、この「文治勅許」の史料自身には現れてこない謀反人跡に対する成敗権、謀反人跡地頭の設置権の問題は、平家没官領とは相対的に区別さるべきものであり、頼朝がこの書状で展開した主張の中心がそこにあったことを指摘した(「鎌倉幕府庄郷地頭職補任権の成立」)。この指摘の意味は大きい。しかもそれは「その用意を致さず候へば、向後定めて四度計なく候か」とあるように、明らかに予防的・治安的な意味を含めて主張されているのである。これは、石井紫郎が指摘したように(『日本人の国家生活』六二頁)「世すでに澆季、梟悪の者尤も秋を得るなり、天下反逆の輩あるの条、さらに断絶すべからず、而して東海道の内においては御居所たるにより静謐せしむるといえども、奸濫定めて他方に起こらんか。これを相鎮めんがため毎度東士を発遣せらるるは人々の煩いなり、国の費なり、この次いでをもって、諸国に御沙汰を交え、国衙荘園毎に守護地頭を補せらるれば」云々と要約された大江広元の「献策」の論理とまったく同一であるというべきであろう(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日条)。
 このような主張は「居所静謐」の論理を全国的・公法的に拡大しようというものであり、軍事的な「平和令」そして国土支配の主張である。その点で右の書状において注目されるのは「かたがた手を分けて尋ね求め候の間、国々・荘々・門々・戸々・山々・寺々に定めて狼藉の事候歟」という文言であろう。義経・行家の全国的な追捕にともなう「狼藉」の発生を当然視するこのような言い方は、(上には引用しなかったが)この書状末尾に記された「今度は天下草創なり、尤も淵源を究めらるべく候」という有名な揚言にふさわしいものである。それは頼朝による「平和」の樹立と軍事的な国土支配の宣言であるといってよい。一一八五年(文治一)、平氏一族で清盛の「専一腹心の者」といわれた平貞能が宇都宮朝綱のもとに出頭して出家の素意を告げて善処を求めた時、貞能は出頭の理由を「今においては山林に隠居し、往生の素懐を果たすべきなり、但し山林といへども関東の免許を蒙らずんば求めがたし」と述べている(『吾妻鏡』元暦二年七月七日条)。このことと鎌倉軍の軍事的捜索の形式としての「山落とし」を合わせ考えると(入間田『百姓申状と起請文の世界』二九三頁)、右の書状のいう「国々・荘々・門々・戸々・山々・寺々」のうちの山は、もとより宗教的なアジールとしての神社などを指示するものであるとはいえ、現実の山も含むもので、ようするに幕府の軍事的な国土支配は、その土地の占取の仕方とは関係なく、自然としての列島全域にわたる徹底した性格をもつと観念されていたのである。
 さらに注目されるのは、その次の部分、つまり義経・行家の逮捕の後には狼藉も鎮めることはできるであろうが、しかし、今にいたっては「地頭職を尋ね沙汰する」権限を要求せざるをえないという部分である。それは各地において土民が「梟悪の意」を含んで「謀反の輩」に与同し、「脇々の武士」と結託して「奇恠」を起こすことが予想され、それに対する用意がなくては「向後定めて四度計なく候」からであるという。そのために地頭職=「地頭の輩」を成敗することによって、状況を抜本的に安定させねばならないという訳である。
 この「地頭職尋沙汰」問題の理解は論争史にとって最も根本的な問題であるが、まず第一に、この書状に詳細な分析を加えた義江が指摘したように(『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』三一七頁)、この「地頭の輩」を固有の職としての地頭ではなく、現地を支配している在地領主一般の指称とする従来の見解は特に根拠のあるものではなく(また後述のようにそれが前提している地頭=現地という通説にしたがうこともできず)、地頭職=「地頭の輩」であることは明らかである。文脈からいっても「諸国荘園平均に地頭職を尋ね沙汰すべく候なり」「荘公を論ぜず地頭の輩を成敗すべく候」が同意義であることは特に論じるまでもない。さらに私には地頭の輩と「脇々の武士」とは区別された存在であり、地頭は地頭職を保有するような正統的な根本領主・開発領主層という意味で使用されているように読める。大山は石母田が内乱期政治史を構築するために設定した「豪族的領主層、地頭的領主層、田堵名主的地主層」という有名な領主制の三類型把握に対して(『著作集』第六巻、七二頁)、「鎌倉時代の地頭の実際は石母田氏の研究段階で漠然と考えられていたごとき『一村を支配する』ような規模とは、はるかに隔絶した広さと構造を有するのが普通であって」、「石母田氏が一村を支配する地頭的領主層と区別せねばならぬとした豪族的領主層も、地頭領主制の一形態としてあつかわれる」べきであるとしたが(「没官領・謀反人所帯跡地頭の成立」)、まさにその観点に立って*30、この「地頭の輩」は捉えるべきものなのである。それは院政期地頭が「堺相論」の中で「独自の武力手段・強制力行使」をもって「領域全体を支配対象にする」存在であったという義江の結論と整合する(『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』二三六ー二四四頁)。ここにおける領主的土地所有の拡大と軍事化は、もちろん平安時代の過程を通じて徐々に進行してきたものであるが、しかし、院政期におけるそれが日本の領主制の展開過程において段階を画するものであったことは疑いを入れない。
 第二に、頼朝の中心的要求であった「諸国荘園平均に地頭職を尋ね沙汰すべく候なり」「荘公を論ぜず地頭の輩を成敗すべく候」,すなわち地頭職の「尋沙汰」要求とは、義江のいうように地頭職を調査し補任・停廃する、「成敗」するということであり(『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』三二六頁)、この段階において、それは「没官領に地頭職成敗を行ったことをてことして」「謀反人跡・没官領の枠をもこえた地頭職成敗」として展開していたのである(『同』五〇六頁)。この原則は一一八六年(文治三)にも、「頼朝の成敗に拘らざるの輩のことにおいては、仰せ下さるるに随がい冶罰を加ふべきこと」という頼朝の条々事書(『吾妻鏡』文治三年八月二七日条)およびそれにうけた「成敗せしめ給うの旨に任せ、各仰せ下さるべきなり」という同九月二〇日の院宣で(『吾妻鏡』同一〇月三日条)再確認されている。義江の議論は、川合が指摘するように(「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」)、研究史を呪縛してきた「尋沙汰」が没官領以外の地における庄郷地頭職に対する補任権を含まないという石母田の指摘(『著作集』第九巻、二九四頁)を乗り越える方向を示している。少なくとも、一二月六日書状の理解としては、すなわち頼朝のこの段階での主張の理解としては、義江の見解に難点はない。特に、前記のように、平家没官領とは相対的に区別された謀反人跡地頭の成敗、謀反を予防するための地頭成敗という主張の中で、「尋沙汰」が展開したことは重要である。高橋昌明も義江を批判しつつも「頼朝の尋沙汰権が当時一般の郡・郷・庄・保の地頭にたいし補任の事実をともないながら強力に作動していた」としている(高橋「文治国地頭研究の現状にかんする覚え書」)。私は、これらの指摘を受け、この書状では、平家没官領のみでなく、謀反人跡地頭、さらに謀反に対する予防策としての頼朝の「地頭職尋沙汰」の権限、「日本国惣地頭」の権限が、事実上補任を含めて一般的に主張されていると結論しておきたい。「地頭の輩=地頭職尋沙汰」に関するこの二点の確定は、「文治勅許」の全体像を(特に論争史に踏み込んで)問題にする上で決定的な意味をもっている。
 以上、京都と鎌倉で同じ日に執筆されたと考えられる院宣と書状、つまり「文治勅許」の中心史料である文治一年一二月六日院宣関係史料と同一二月六日の頼朝書状の両方において、強調点は異なるとはいえ、頼朝の軍事的地位の全国的認定・軍事的国土支配の容認とそれにともなう地頭成敗が問題となっていたのである。これは偶然ではない。それはこれこそが内乱の必然的結果であることを物語っている。
④日本国惣地頭と地頭代官制*31
 さて、以上のように、頼朝の「日本国惣追捕使」としての地位は没官権を中心とする軍事的国土支配の宣言を意味していることが明かとなった。次の問題は頼朝の「日本国惣地頭」の地位をどう考えるかであるが、この問題の解明のためには、そもそも院政期に形成された「地頭」とはとのようなものであったか、そして右にふれた軍事的指揮権を前提とした「地頭職尋沙汰・成敗」がどのような地頭のシステムをもたらしたかから論ずる必要がある。
 まず従来、院政期の地頭、平家地頭は私的な庄官職であり、それが国制レヴェルの公的制度に展開したのは「文治勅許」を契機とするとされてきた。「惣地頭・惣追捕使」の地位を「朝恩」として与えられることによって、頼朝は公的な庄郷地頭の進退権をえたという訳である。それは、前記の一一八五年(文治一)一二月六日の「院宣」関係記事に「前々地頭と称するは、多分、平家家人なり、これ朝恩にあらず、或は平家、領内にその号を授けて補し置き、或は国司領家、私の芳志としてその荘園に定め補す、また本主の命に違背せしむるの時は改替す」とあり、また寿永三年(一一八四)の院宣に「彼の一族知行の荘領、数百ヶ所に及ぶの由、世間に風聞す。而るに院宮ならびに摂録家の荘園、或は私に芳恩の知行これ在り、或は所従など慇懃を致すの輩にこれを預く」(『延慶本平家物語』第五末・七)とあることによって支えられていた。たしかに、庄官領主としての地頭の補任の契機は本質的に私的な性格を有している。しかし、それと地頭職それ自身の性格は全く別の問題である。また最近、平家権力はそのような地頭の組織、濫妨排除や改替などをその政所を中心にシステム化していたのではないかという推測もある(五味「武家政権と荘園制」)。もし平家惣官職が十分に機能する余地があったとするならば、それは地頭職を支配する公的機構にまで展開した可能性が高いといわなければならない。また、そのような方向性は院権力と癒着した平氏権力の段階からすでに存在したというべきであろう。これらを無視し、「文治勅許」の「朝恩」に地頭の国制化を一元的に求め、「公」「朝恩」という固定的シェーマで満足するとしたら、それは事大主義以外のなにものでもないというべきであろう。地頭補任の契機が私的なものであるのは鎌倉期においても同様であって、それをもって平家地頭の私的性格を云々することは全く無意味である。
 本書第三部論文「土地範疇と地頭領主権」などで述べたように、本来「地頭」とは「地のほとり」「四至」あるいは荘園の立券・堺相論・検注などに際して実検を加えるべき特定の地点を意味する。「地頭」とは通説がいうような(安田『地頭及び地頭領主制の研究』二一頁)現地一般を示す言葉ではありえない。「地頭」とは山野河海をふくむ大地の境界の空間的な占取と管理を表現するのである。その意味では「地頭」支配とは大地を山野河海をふくめて領有する地域的な高権を表現する用語であるということができる。そして、職としての「地頭人」「地頭」とは院政期における堺相論の激発の中で、「地頭」の沙汰を行うべきものとして境界地域の領有を公的に承認された開発領主を意味した。それは院政期王権の下で、荘園の相論や立券のために派遣された院使・官使などによって公認され、同時にその地位を地域の領主連合によっても認められた開発領主を意味したのである。前節で「地頭の輩」とは「脇々の武士」でなく、より正統的な根本領主層地頭職であると述べたが、それはこのような見解を前提としている。これは主要な側面においては王権の側からの領主制の国家的な組織と編成であるが、他面、領主権力が王権の中に貫入していく形態であることに注意しておかねばならないだろう。その貫入を主導したのが武家権門であったことはいうまでもない。
 もとより頼朝の「惣地頭」の地位は「朝恩」という形式によって認証されたが、その地位とカリスマは原因ではなく結果であり、平安末期にすでに存在した庄郷地頭の公的な性格に対応して創出された新たな国家的暴力とイデオロギーの形態を表現するものであった。内乱の最中、一一八五年(元暦二)の後白河院庁下文が「近年以来、鎮西有勢の土民など、或いは権勢の武家の郎従となり、或いは得替の別当の充文と称し、地頭と号する有り、下司と称するの族有り」(『平』四二四一号文書、元暦二年四月二二日)と述べるような状況に対して、一一八四年(寿永三)の頼朝下文案は「武勇之輩、或は面々に荘務を張行し、或は私に地頭に任ずると称し、自由の威を施す、(中略)、尤も旁の濫妨を停止すべきなり」(『平』四一五六号文書、寿永三年五月八日)と通告した。ここで頼朝は明らかに「私」的な地頭呼称を抑圧する立場に立っている。頼朝は平安末期における国土高権と王土思想の下での公的・正統的な地頭呼称の在り方を当然の前提とし、その上で自己の公的な地位がその濫妨を停止するものであることを主張しているのである。それは院政期の国土高権のシステムとイデオロギーの下で創出された公的な地頭制度を軍事的覇権の下で継承することの宣言であった。
 特に注目すべきなのは、頼朝の地頭の補任・停廃の下文が「庄」「庄官」充などのほか、しばしば「某庄・某郷住人」充に発給され、これが鎌倉幕府の地頭補任下文の定形となったことである。それは義経・行家の「九国・四国地頭職」への補任が「四国・九国住人、宜しく両人の下知に従うべきの旨」という後白河院庁下文によって行われた範型を受けたものであったと思われる(『吾妻鏡』文治一年十一月七日条)。周知のように院庁下文の充所は一般に諸国の在庁官人であるが、この事例によると、地頭成敗の場合は充所に「住人」の語が入る場合が存在したのである。地頭成敗を行った院庁下文の実例としては蓮華王院領但馬国温泉庄の地頭を停廃した史料があるのみであり、その充所は「蓮華王院領但馬国温泉庄庄官等」、書止は「庄官等宜しく承知し、敢えて違失するべからず、故に下す」となっている(『平』四一六六号文書)。しかし、熊野夫須美神社文書に残る下司職成敗を行った後白河院庁下文案(前欠、充所なし)の書止は「庄官住人宜しく承知し、違失するべからず、故に下す」となっており(『平』三五九三号文書)、充所に住人の語が入っていた可能性もあるのである。そして、温泉庄の地頭が「地頭たるにより、下司職に補任」された存在であることからすると、後者を地頭成敗を行う院庁下文の在り方を傍証する史料として扱える余地は十分にあるだろう。
 そもそも、住人という用語は、領域的支配の下にある身分的に地域に土着した存在を表現する用語であるが、院庁下文の宛先に現れる「住人」、「四国・九国住人」は、さらに国家的・統治権的な支配をも表現しているといってよい。それは、右に上げた一一八五年(元暦二)の後白河院庁下文が「鎮西有勢の土民など、或いは権勢の武家の郎従となり」といい、先述の十二月六日頼朝書状が「土民あるいは梟悪の意を含み」などという場合の「土民」に連なる言葉である。この「土民」の解釈を巡って高橋が「『土民』の土は、『土人・浪人』の土または『土着』の土であろう。要するに『土民』とは特定の国に生活基盤を有する人々、つまり在地の人々を指す汎称なのであって、そこでは在地領主から百姓に至る様々な社会階層が『土民』という語でひとしなみに表現される」といっていることは重要である(高橋「文治国地頭研究の現状にかんする覚え書」)。一二九六年(永仁四)に執筆された「関東御式目」が式目四二条の注釈において「百姓是百官なり、而ここには土民百姓とせらる、百姓の内に土民もこもるへし、公家には土民・土俗・住民と知るべし」と注釈しているように(『中世法制史料集』別巻)、住人と土民は「公家」の観点からは共通したニュアンスをもった用語なのであって、「土民」は律令制以来の用語として新制においても支配対象としての民衆を表示する語になっているのである*32。地頭下文の充所に現れる「住人」の背景には、このような公的支配が存在し、義江のいう「地頭職尋沙汰」の権限とは、具体的には、地頭の沙汰に関するそのような下文を発給する権利を意味したのである。
 こういう中で追究された地頭職成敗が作りだしたのは、「日本国惣地頭」頼朝の代官としての地頭という形で地頭の公的性格を位置づけるものであった。つまり、石井進が注目したように一二二二年(承久四)一月の勾当僧蓮慶譲状案(『鎌』二九二三号文書)、島津忠久が日本国地頭職頼朝の「当御庄地頭御代官」に任じられ「奉行廿年」と明記されているように(石井『日本中世国家史の研究』三一八頁)、地頭制度は基本的に代官制の上に組み立てられていたということができる。それは日本国惣地頭頼朝と国地頭の関係も同様であったはずである。こうして内乱期の過程を通じて、尋沙汰の関係を公認された「日本国惣地頭」頼朝と国地頭、そして庄郷地頭は下文によって結合された正員代官制の形態をとって公的な土地領有関係の下に枠付けられていたのである。佐藤が、このような地頭制度における正員―代官制を一種の統属関係であるとしている。しかも「この場合の上下統属関係はいわゆる職務階統制にもとづくものではなくして、武家社会にとくに著しい主従制の投影ともいうべき正員代官制の上に形成された」ものであって、そのようなものとして土地所有関係の内部に組み込まれていたのである(『日本の中世国家』九二頁)。そして、ここで佐藤が「主従制の投影ともいうべき正員代官制」といっていることは極めて示唆的であり、それは「惣地頭ーー庄郷地頭」の関係が、主従関係と一定の関係の下にありながら、それとは相対的に区別された公的な土地領有関係の下に枠付けられていたことを意味している。
 そしてこの日本国惣地頭ー国地頭ー地頭正員―代官の関係が、同時に軍事的な関係であったことはいうまでもない。こういう正員代官制を通じて、この時期、庄園制的な土地所有関係自身がすでに深く軍事化の過程に入っていたのである。こうして、前述の「日本国惣追捕使」たる頼朝の軍事的国土支配の権能が、院政期国家の国土高権と土地所有体系の内部に結晶化したものが「日本国惣地頭」たる頼朝の地位なのであるということができるであろう。
⑤「下地一向領掌」と国土イデオロギー
 ただ、頼朝の「日本国惣地頭」の地位は、何度もふれた「下地一向領掌」という院宣の文言に表現されている。この「下地一向領掌」、あるいは『兼実日記』の表現では「惣じてもって田地を知行すべし」などの文言は、すでに述べたように軍事的な国土支配の主張を背後にもっているが、しかし、それ自体としてはやはり「日本国惣地頭」に表現される土地支配システムの問題として理解しなければならない。かって石母田は、「地頭の下地管掌といってもその具体的な意味は全く不明なのである」とし、この問題が「従来の文治地頭の研究における最大の難問」であることを確認している。石母田は「一般的な知行=領掌権を付与されたものと理解するならば、鎌倉中期になって本所と地頭との下地紛争が各地に発生し、そのなかで本所側は庄官百姓等名田畠は本所の進止に属し、地頭の下地知行はその給田・給名等に限定されている旨を主張して、地頭に対抗している理由および中末期における下地中分の発生等が合理的に解明できない」と述べている(石母田一九二頁)。
 以下、この問題を論ずることになるが、そのためには、軍事的な事実上の国土支配とは相対的に区別された国土支配権、いわゆる国土高権とは何か、そしてそれは院政期国家においてはどのように存在していたかという問題から議論していくことが必要になる。この国土高権とは従来の研究史でいえば佐藤進一のいう統治権的支配権に近接する概念であるが、統治権なるものを具体的に検証してみれば、それは少なくとも①国家的な軍事・警察権力、②政治的・イデオロギー的な国土領有関係、③狭い意味での統治権すなわち統治行政権などの諸側面をふくむものとして考察するべきであろう。これらの統治諸形態は、おのおのすべて階級的支配隷属関係の全社会的規模での編成の中から形成され、逆にいえば階級的支配隷属関係の全社会的規模での編成はそこからの公権力関係の形成によって完成されるのであるが、しかし、国土高権は、このような統治の諸形態のどれとも等置することができない実態をもっている。それはむしろ諸統治形態の中核に存在し、それを代表する王権のもっとも重要な権能として存在する。本書の付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」でも述べたように、国土高権とは、一般的にいえば、国家=王権が社会の代表としての地位を握って自然(あるいは他の諸民族)に対峙し、それを領有する関係であるということができる。王権の統治は、それが社会や共同体を自然に対して代表し、それによって社会を領導し、社会をつらぬく諸所有形態を総括するという関係において最終的には担保されるのである。
 さて院政期王権の掌握した国土高権を頼朝の地位との関係で論ずるときに、まず参照されるべきは五味の見解である。五味は「文治元年一一、二月の所謂守護地頭勅許に際して、頼朝は朝廷から諸国下地一向領掌権と共に、国衙在庁庄園下司惣押領使進退権を獲得した。前者は『於諸国庄園下地者、関東一向可令領掌給』という内容で、荘公下地の支配を意味する。後者は已にみたように荘公下職の支配であり、両者は相互に密接不可分な関係をもって頼朝の支配権を構成している。荘公下職の支配と荘公下地の支配、それはまさに院の荘公下職の支配と王土の支配に対応している」と述べている。もちろん、この五味の見解は石井進の研究を要約したという性格のもので、そのうち「文治勅許」において「国衙在庁庄園下司惣押領使進退権」なるものが宣旨によって認められたという石井の見解は、後にみるように成立しないものである以上、これにそのまま賛成することはできない。しかし、五味が頼朝による「下地一向領掌」を「保元新制の庄公下職たる武士の支配に基礎づけられた王土思想」に近いものとすることは参考になる(『院政期社会の研究』二五頁)。
 平安時代の国土高権は、本来は、遷代の国司とそれを支える国衙―郡司刀禰組織によって支えられた、いわゆる国衙荘園体制の上にそびえ立っていた。これに対して、本書第三部の論文「土地範疇と地頭領主権」で論じたように、院政国家の国土高権は、より強力で全国的な権威のもとに、荘園公領の境界を聖断の下におき、各地域における領主は、それをバックとして、地頭=境界=四至を管理し、その四至内を小規模であれ高権的に領有した。これが国家による領主の組織であると同時に、領主制の国家への貫入であり、上昇であることは先に注意した通りである。もとより、それは地域における領主のネットワークあるいは連合のなかで保証されるのであるが、そのネットワークは「権勢の武家」によって統括され、中央につなげられ、そこから代官=家人組織が展開することになる。五味のいう「武士の支配に基礎づけられた王土思想」は、ここに胚胎したのである。
 すでにみた頼朝の東国惣官職は、その典型である。これが東国に対する領域的な公権力であったことはすでに述べた通りであるが、そこで「東海道の内においては御居所たるにより静謐令るといえども、奸濫定めて他方に起こらんか。これを相鎮めんがため毎度東士を発遣せらるるは人々の煩いなり、国の費なり、この次いでをもって、諸国に御沙汰を交え、国衙荘園毎に守護地頭を補せらるれば」という大江広元の著名な「献策」(『吾妻鏡』文治一年一一月一二日条)を引用して指摘したように、この地域的公権の根拠は、東国が頼朝の居所であるということに求められていた。ここには東国全体を頼朝の「宅」であるかのように捉える見方が現れている。そして、そのような広域的な地域支配を「御居所」という言葉で現す仕方が本来的に領主制的なものであることは明らかである。それは領主制支配の本宅敷地的形態の発展的拡大というべきものであり(戸田芳実『日本領主制成立史の研究』)、頼朝の従者が東国各地に営んだ宅は、頼朝の本宅の敷地と観念されたのである。これは関東の諸領主の連合の全体が「権勢の武家の郎従」の組織となった以上、当然の観念であったろう。これは領主制による広域権力の包含する運動の結果であり、同時に広域的な権力と支配の機構を形成した幕府権力が、単なる領主連合から自立した姿態をとるにいたっていることの表現である。
 なお、かって石母田は東国の領主は相互に対立し反発するだけで階級をなさず、国家観念も国土観念から分化しきれていないと述べ、その上で頼朝文書のなかに「凡そ、吾が朝六十余州は立針の地たりといえども、伊勢大神宮の御領ならぬ所あるべからず」(建久五年二月一五日頼朝下文案、『鎌』七一二号文書)などという「神国思想」が明瞭にあらわれることをもってもっぱら「皇室尊崇」にひきつけて理解したことがある(『著作集』第八巻、七頁)。しかし、黒田俊雄の指摘によれば、神国思想の内容はそれなりに複雑なものである。つまり黒田によれば、神国思想の基礎となった「神道説が『日本は神国』なることをいう意味が、さきの『領主』『地主』的守護神を拡大した性格のものであること」「あきらかに『領主』制に似せてつくられた観念」であるという。そこでは領主の家産世界が一つの守護神をもち、日本の国土はそれらの守護神の重層する曼荼羅のようなものとして理解されるのである(「中世国家と神国思想)。たとえば『神道集』「三島明神の事」には、天皇が寵愛する貴族に四国を「垣内所」として支配することを委ねたという表現が存在するが、私は東国においても領主的な地域構造に対応する頼朝の東国支配に対応する諸観念が東国国家の中枢に存在したと考えるものである。
 ともあれ、「下地一向領掌」という要求は、鎌倉にとっては東国惣官職の内部に存在した「居所静謐」の論理を全国的・公法的に拡大するという自然な論理であったということであろう。彼らにとっては院政期の国土高権のシステムとイデオロギーの下で創出された公的な地頭制度を軍事的覇権の下で継承した以上、それは当然であるということであったろう。
 次ぎの問題は、こういう観点から一一八五年(文治元)十二月六日の院宣の「諸国荘園の下地においては、関東一向に領掌せしめ給うべし云々」という文言や、『兼実日記』の同年一一月二八日条の「件の北条丸以下の郎従等、相分けて、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜わり、庄公を論ぜず兵糧(段別五升)を充て催すべし、ただに兵糧の催にあらず、惣じてもって田地を知行すべし云々」などと現れる「下地=田地」の支配を全域的な領域性をもって行うという表現を論ずることである。
 前述のように、この問題は石母田が「最大の難問」としたものであるが、従来の見解としては、まず第一に、河内祥輔がこの一向領掌とは没官領跡、そして謀反人跡の所領の地頭職に関して「庄園領主の権限を無効とする意味」であり、あまり無限定に理解しない方がよいという指摘がある(『頼朝の時代』一八四・一九三頁)。これは要するにこの「下地一向領掌」という文言を軍事的契機のみで理解しようという観点であって、これは結局、先にふれた、この文言の主体を守護として、もっぱら軍事的契機において理解しようという石母田の「一応」の試論と同じものであって、ここでは採用することはできない。それだけで、これらの「田地知行」「下地領掌」という権限が説明しつくされるとは思えないのである。
 第二は中田薫とそれに依拠した石母田の見解であって、石母田の見解にそって説明すると、石母田は「下地一向領掌」とは「下地そのものを知行する権利にあらずして、単に下地に付帯せる所当、不動産視されたる所当を知行するの権利なり」「庄公の土地における段別五升の兵糧米の得分権と同一である」とした中田薫の説を認め、その上で、この兵糧米徴収制度は一つの一国平均役であり、その実現には国衙の検注権とその鎌倉による行政的掌握が前提となっているとした(『著作集』第九巻、一五八頁)。そして、石母田は前記の五味と同様に、「文治勅許」において「国衙在庁庄園下司惣押領使進退権」なるものが宣旨によって認められたという石井進の見解を認めて、これによって「国衙の機能をつうじて荘公を問わず国内の田地を検注し、兵糧米を賦課徴収する」「国衙・荘園の在庁・下司等を『進退』して田数を計注する」などという検注を中心とした行政権限をここに読み込んだのである。
 次ぎに、第三に、石母田説に代わって、最近、有力になっているもう一つの「下地一向領掌」の理解は、そこに勧農権の掌握の意味を読み込むもので、田中稔(『鎌倉幕府御家人制度の研究』六二頁)、石井進(『日本中世国家史の研究』三三二頁)と大山(「文治国地頭の三つの権限について」)に代表されるの見解である。三氏は、この「田地知行」に勧農権の掌握の意味を読み込んだ。この三人のうち中心的な位置にある大山の見解にそくして紹介すると、それはⅠ章で触れた一一八六年(文治二)三月の七ヶ国地頭辞止を上表した時政書状の「時政給わる七ヶ国地頭職においては、おのおの勧農を遂げしめ候はんがため、辞止せしむべきの由存ぜしめ候ところ也」という文言の解釈から出発している(『吾妻鏡』文治二年三月一日条)。そこでも触れたように、たしかに時政は「七ヶ国地頭職」という形で有していた勧農への関与の権限が、この春の勧農の季節において実際には農耕の妨害になるという事態を認め、それを「各」(おのおの)の営為たるべきことを述べており、この「各」に各国衙の勧農行為を想定すれば、それらを統括する時政の権限の中に勧農権を想定することは可能である。そう考えれば、『兼実日記』の「件の北条丸以下の郎従等、相分けて、五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜わり、庄公を論ぜず兵糧段別五升を充て催すべし、ただに兵糧の催にあらず、惣じてもって田地を知行すべし云々」という文言の中にも、ただに兵糧の催しのみでなく、さらに来春の勧農・下地知行を含むという臨時的な軍事的勧農権の主張を含んでいたと読めるかもしれない。また同じくⅠ章で触れたように、一一八三年(寿永三・元暦一)には頼朝が戦乱で荒廃した諸国に対して「今春より浪人等をして旧里に帰住し、安堵せしむべく候」という勧農の主張をし、さらに土肥実平が備中国で釐務を行い、有名な「鎌倉殿勧農使」比企朝宗が越中国で活動したように、「下地領掌」を支える頼朝の勧農行政を想定することもできるのである。
 ようするに、第一の河内は軍事的契機、第二の石母田は検注権、第三の田中・石井進・大山は勧農権という要素をもって、この「下地一向領掌」という文言を理解しようという訳である。第一の河内の見解は論の外におくとして、第二・第三の検注権・勧農権のような権限はどちらも土地支配において本源的な権限であるから、そう考えれば、以上の石母田と田中・石井・大山の二つの説は相互に矛盾するものではない。そして、それらが「下地一向領掌」という文言に反映している可能性を否定すべきではないだろう。しかし、石母田の場合は一国平均役に伴う国衙の検注権の掌握、大山の場合は「国地頭による公然たる国務干渉権すなわち一国勧農権の掌握」というシェーマを立てて、結局「下地一向領掌」をすべて統治行政権的な要素によって説明しまうことは本当に正しいであろうか。検注や勧農はそのものとしては土地の占取・領有それ自体に関わることではあるが、このように国衙の検注権や国務干渉権としての一国勧農権などという形で、国衙行政との関係で問題をとらえることは、結局のところ、「田地一向領掌」を土地の所有・領有関係からは切り離して理解することである。
 このような統治行政権の問題をどのように扱うべきかはⅢ章で検討するが、私見では、鎌倉による統治行政権の掌握については独自に検討するべき問題を含んでおり、それによって「下地一向領掌」の全てを説明することはできない。それを具体的な検注権や勧農権によって説明するのは形態の説明ではあっても、関東の権限、それ故に頼朝の「日本国惣地頭」としての地位を説明したことにはならないのではないだろうか。
 立ち戻るべきなのは、やはり「下地一向領掌」「惣じてもって田地を知行」という文言自体の意味であるように思う。これについて、もっとも普通の理解は、河内が「下地の領掌とはいかなる意味か。下地の語は、収益(得分)と区別されて、土地そのものを指す意味合いを含む。そこで、この史料の趣旨は土地所有権の帰属にあるとする理解も生まれる訳であるが、しかし、そのような抽象化された解釈が果たしてどれほど当時の実情にあうか、疑問とすべきであろう。下地の語はよく得分と対比的に用いられる。この史料の場合も、暗黙裏に得分と下地が対比されているのではなかろうか。つまり、頼朝勢力の権限は、”得分の取得にとどまるものではなく、”という陰の意味を踏まえた上で、”それは下地にも及ぶ”と繋いでみてはどうか」と述べたことであろう。
 最後の部分は、この「下地一向領掌」という言葉のニュアンスの理解としては十分にありうるものであるとは思う。しかし、「下地一向領掌」という言葉はより厳密に考えるべき要素をもっている。つまり、河内は「下地の語は土地そのものを指す意味あいがある。そこでこの史料の趣旨は土地所有権の帰属にあるとする理解も生まれる訳である」というが、これは河内が意識しているかどうかは別として中田薫が下地という語を「真の土地」あるいは「下地(地盤)」であると説明したことが常識化したものである。下地という用語の「下」は表層の土地ではなく、「地盤」=深層までをふくむ土地を指示する形容詞であるというのである。もしそうだとすると、下地という言葉は自然としての大地それ自体と変わらないということになり、「下地一向領掌」という表現は、大地それ自体を「一向」に全域的に領有する権限であるということになる。幕府がこのような「一般的な知行=領掌権」を要求するのはどういうことかという疑問が、「文治勅許」にかかわる諸論争における「最大の難問」として存在していた石母田がいうように、のである(石母田一九二頁)。
 しかしこれも本書第三部「土地範疇と地頭領主権」で述べたところであるが、下地という用語は、素地・素質・準備というような意味であって、土地について使われた場合は、「敷地」というのとほぼ同じで、むしろ逆に表層の土壌の有用的な性格一般を表現する用語である。下地を「地盤、真の土地」(中田)、「土地そのもの」(河内)などというのは正しくない。自然としての大地は、そうではなく実際には「地」と表現されたことは網野善彦がいう通りである。もちろん、網野も「下地」という言葉を「地」という意味で理解している(『著作集』⑬「中世都市論」一九七六、二三頁)という点では中田以来の図式になずんでいるのではあるが、しかし、「地」についての指摘自体は決定的であろう。なお石母田は『兼実日記』には「田地」とあり、『吾妻鏡』所載の院宣の一節には「下地」とあることについて、兵糧米は田地に賦課されるから「田地」が正しく、「下地」は「正確な表現」ではないとするが(石母田一七四頁)、「件の田の下地」という言葉もあるように、「田地」とは「田の下地」ということであある。石母田がしいて「下地」という表現を排除しようとするのは、この語の意味を「真の土地」とする中田の見解を石母田が継承しているためである。
 こうして河内の「”得分の取得にとどまるものではなく、”という陰の意味を踏まえた上で、”それは下地にも及ぶ”と繋いでみてはどうか」という指摘は、それとしてさらに了解しやすいものになる。つまり、『兼実日記』に「五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜わり、庄公を論ぜず兵糧(段別五升)を充て催すべし、ただに兵糧の催にあらず、惣じてもって田地を知行すべし云々」とある文脈のなかでは、段別の兵糧米(所当)の賦課を理由とし、突破口として田地=下地の知行を主張したと読むのは自然なことであろう。そもそも河内が「下地の語はよく得分と対比的に用いられる」というのは中田薫がその著名な論文「王朝時代の庄園に関する研究」で述べたことである。中田は、先にも引用したように、その立場から「下地一向領掌」を「下地そのものを知行する権利にあらずして、単に下地に付帯せる所当、不動産視されたる所当を知行するの権利なり」と述べた訳である。この「下地一向領掌」を「下地そのものを知行する権利にあらず」という中田の立言は、いわば法制史的強弁であって、史料の内在的な解釈としては成立しがたいものであるが、しかし、ようするに「得分=兵糧米」の収取が眼目であって、それが「下地領掌」という色彩をおびるのだという議論の仕方が実質的に意味することは河内と同じことであり、その限りでは「下地一向領掌」という事柄の一側面を言い当てているのは事実であると思う。
 しかし、そもそも地頭支配は、荘郷地頭においても「下地進止のごとく四至堺を定め」(『鎌』三一九一二)などという表現が示すように、本質的に四至内の下地の進止権あるいは開発権の付与をふくんでいた。本書第三部論文「土地範疇と地頭領主権」でも述べたこであるが、「地頭」という用語は、自然としての大地を空間的に管理する場合には「地本」とならんで使用されたものである。「地頭」とは山野河海をふくむ大地の境界の空間的な占取と管理を表現し、「地本」とはそれを前提として条里制的メッシュを「縄本・畔本」などを標識区分によって占取・管理することを表現している。四至を限った開発委託・請負は平安時代における開発・立券において本質的なものであったが、戸田芳実が、そこに領主的土地所有の「本宅敷地」的形態を発見したことはよく知られている。その際には「四至内」が「敷地」がとして占取されるのであるが、この「敷地」が「下地」とほぼ相似した用語であることもすでに述べた通りである。このようにして、平安・院政期の用語法からすると、地頭制度が「下地一向領掌」という要素をもつことはしいて疑うべきことではないのである。
 五味のいう保元新制以降形成された「庄公下職たる武士の支配に基礎づけられた王土思想」は、現実には内乱においてその形態を確立した。ここにおいて王土思想は分裂し、その中から生まれた武家支配に適合したイデオロギーが頼朝の「日本国惣地頭」の地位に反映し、「下地一向領掌」という文言に反映している.そして、今まで前提としてきた川合の見解を批判せざるをえないのはこの点である。川合は頼朝の「日本国惣地頭」とは後代に作られた観念・イデオロギーであるに過ぎないとする(「治承寿永の『戦争』と鎌倉幕府」)。たしかにそれはイデオロギー的な関係であるが、決して後代に作られたイデオロギーであるのではなく、内乱の過程で実質的意味をもって機能したイデオロギーだったのである。
 さて、「下地一向領掌」なる文言は、まずは直接には没官領跡・謀反人跡の所領に対する軍事的土地支配を反映していること、しかしそれのみではこの文言の示す独自な土地領有関係を捉えることはできず、その中心的背景として国土のイデオロギー的領有を置き、さらに田地支配の行政的権限を反映する側面も想定しなければならないこと、しかし、そもそも「下地領掌」という文言は地頭制度の本質を表現するものであり、その総体を表現するのが頼朝の「日本国惣地頭」の高権であること、以上がこの「難問」に対する私の一応の結論である。
 とはいえ、最大の難問が、この頼朝の高権の公権力総体の中での位置の問題であることはいうまでもない。頼朝の軍事的・暴力的な支配の実体をなす武装した身分集団が公権力の中でどのような地位に占めるか、占めることを志向したかについては、本稿の主題に即してⅢ章で検討することになるが、ここでの問題は、軍事的・暴力的な支配が階級的関係土地所有関係に反作用して、そこから新たな国土の高権的領有関係が形成されるという場合に、荘園制的土地所有都市貴族的土地所有自体は、頼朝自身にとっても権力の基礎であったことである。王権は中央都市を拠点とする最大の庄園領主権力としての地位を保持し、社会の貴族的・宮廷的秩序を代表する立場に立っており、国土高権の全体を放棄することはしなかった。そこに形成されたものは、同一の経済的基礎の上に立つ支配階級の諸集団の共同的統治であり、そのような公権力の構成が歴史的な土地所有関係・階級的支配隷属関係の形態の中からどのように現象したかの筋道こそが問題なのである。
 頼朝に「日本国惣地頭」の地位を付与した「於諸国庄園下地者、関東一向可令領掌給」という院宣は、頼朝がこの国土の軍事的支配の頂点に立ったことを媒介として、頼朝の軍事的覇権の結果として院が表明した意思である。それはいまだに荘園制的土地所有の頂点部分を掌握している王権自身が国土高権をすべて放棄しようという意思表示ではないが、決して「朝恩」によって与えられたものではない。それは武家に排他的な国土高権を与えたものではなく、「日本国惣追捕使」たる頼朝の地位と軍事的支配が軍事化を遂げつつある土地所有関係に反響するところに存在する限りでの政治的・イデオロギー的な国土高権の形態であったが、しかし、戦争状態の中で頼朝権力が何よりも実力をもって獲得したものであり、頼朝の国土領有に関わる政治的・イデオロギー的地位は実際には自動的に拡大する可能性を有していたのである。
 そして、このような土地所有の軍事化の形態をさらに推進したのは、前章でみた広域的惣官職権力とその下における領主連合権力の形成であった。惣官職権力は土地所有関係の軍事的編成替えを遂行した。Ⅰ章で述べたように内乱期の惣官職権力は国衙・庄園の年貢の沙汰権と没官・謀反人跡への地頭補任権および不服の輩に対する検断権を行使していた。さらに内乱の勝利によって頼朝が獲得した「地頭尋沙汰」の権限、より具体的には頼朝の「日本国惣追捕使」としての地位に基づく平家および義経勢力に対する没官行為、さらに謀反人跡所領に対する没官行為の展開は、その過程を急速なものとした。頼朝は挙兵の当初から没官およびその対概念である安堵を両輪として土地所有体系を軍事的に総括していったが(川合「鎌倉幕府庄郷地頭制の成立とその歴史的性格」)、前述のように、頼朝は「文治勅許」において一般的な「国家的恩賞授与権」を掌握し、没官のシステムにさらに勲功のシステムを統合・合流させて、それを発展させていったのである(大山「没官領・謀反人跡地頭の成立」)。牧健二が「源平の戦いは所領の大争奪を伴ふた変革であったから、本領安堵を得るが為に、武士が向背を決すると言うが如き現象は、実に此時において、初めて之が顕著にあらわれたことに相違ない」(『日本封建制度成立史』三五三頁)と述べているように、それはある意味で、所領をめぐる平安末期・院政期の大規模で大量的な相論の法的決着なのであって、内乱の社会的諸要因の決着でもあったのである。
 この観点からいえば、「日本国惣地頭」そして「日本国惣追捕使」とは、東国・畿内・西国の各地域に展開する惣官的軍事権力の全国的な総括と集中の表現だったのであり、ここに平家権力の中で顕在化した惣官職による全国的権力の再編成という動向は一応の完成をみたことになる。軍事的国土支配に媒介された頼朝の国土高権はそれを象徴していたというべきであろう。私は、このようにして頼朝の「日本国惣追捕使」の地位と「日本国惣地頭」としての地位はおのおの相対的に独自な意味をもちつつも、深く結び付いており、結局それは「日本国惣官」とでもいうべき地位を構成したと考えている。そして軍事的性格に貫かれた国土高権の「日本国惣地頭」としての確立は、鎌倉期社会における土地所有体系のさらなる全体的な軍事化をもたらしたのである。
⑥「守護地頭停止」と「天下澄清」
 以上の分析が正しいかどうかは別として、この「文治勅許」が、あくまでも一一八五年(文治一)年末の限られた政治的時間の中で起きたことであったことを忘れてはならない。史料の残存の在り方に規定されて、たしかにその復元は困難であるが、そのことは当時の人々にとってもこの過程が複雑なものであったことを意味しない。鎌倉の勝利とその直接的結果自身はむしろ単純なことがらであり、真に困難なのはこの勝利を内乱の政治史全体の中でどのように相対化し、右に述べたような土地所有関係の大変動を基礎として踏まえつつ、この勝利の局面がどのような現実の政治社会体制を結果したかを分析することにある。
 このような観点からすると、従来の研究は「文治勅許」の分析の困難が、あたかも「文治勅許」の達成の画期的性格を意味するかのようにしらずしらずに錯覚していたきらいなしとしない。しかもそれは、これ以降の政治史をあたかも「文治勅許」の達成からの後退であるかのように扱う錯覚と二重化して存在していた。しかし、院政期の社会と国家の諸矛盾の軍事的な突破は全く新たな展望をもたらしたのである。
 たとえば、義経追討軍を指揮した時政は、一一八六年(文治二)二月二七日に鎌倉を立って京都に向かった使者から、京都を撤退し帰参せよという頼朝の命令を受けたが(『吾妻鏡』文治二年二月二七日条)、それに相前後して三月一日に後白河院に対して「七ヶ国地頭職」を辞止する申状を提出しており、三月二七日には京都を立って、四月一三日に鎌倉に帰着している(『吾妻鏡』同日条)。この政治情勢の重要な転回点をなした事件も、それがどのような伏線の下に起きたのか、詳細な検討を受けないまま鎌倉と頼朝の後退の起点としてイメージされてきた。その具体的事情については三章で考える予定であるが、時政は、頼朝の命令を受け取る以前から京都撤退を予想していたと考えたい。時政は離京にあたって兼実によって「近日珍しき物か」と評価される政治的センスを有していたが(『兼実日記』文治二年三月二四日)、それは挙兵以来の鎌倉の貴族的社会の中で培われたセンスであったというべきであろう。
 もちろん、「七ヶ国地頭職」の辞止が一つの「妥協」であることは事実である。しかし、妥協が可能になるのはすでに戦略を構築する条件が発生していることをも意味するのであって、個々の局面における妥協によって政治情勢全体の判断をすることはできない。このような初歩的な錯覚をはっきりとまぬがれていたのは、やはりここでも石母田の研究、具体的には論文「文治二年の守護地頭停止について」(『著作集』第九巻所収)であった。石母田は、そのような研究心理の背後に、たとえば龍粛が「諸国平均に地頭を設置せんとした幕府の根本主旨は一年にならずして忽ちに崩壊したが、これは一つには公武両政治の分野を守って、相互に侵犯のことなきを望んだ幕府の互譲の精神に出たことであった」(『鎌倉幕府の政治』三五頁)と述べたような非歴史的な事大主義を見ていた。そして石母田は、「(この問題が)兵糧米の停止とならんで、院および本所領家の圧迫に対する鎌倉幕府の譲歩後退を示すもっとも重要な資料とされてきた。そのさい、従来の論議の何よりの欠陥は、それが正しい本文批判をともなわなかったことによるばかりでなく、その譲歩・後退の性質と内容およびその限界が、この時期の政治情勢の中で、正しく分析されなかったことにある」という観点の下に、一一八六(文治二)の守護地頭の停止の問題を、「文治勅許」後の政治史を考える上で最初の難関と位置づけて検討したのである。
 『吾妻鏡』によれば、一一八六(文治二)六月二一日、頼朝は「諸国守護の武士ならびに地頭等、早く停止すべし」という上申文書(「御書」)を帰京する院の使者大江公朝に託し、吉田経房を通じて奏聞し、さらに大江広元を上洛させた。石母田は、まず第一にこの広元の上洛の主要な任務が後白河・前摂政藤原基通と現摂政藤原兼実との間の深刻な対立の調停にあったことを明らかにした。公朝も、それに関係する「万事、君の御最たるべきの由」という趣旨の申状などの別の文書を持参していたのである(『兼実日記』文治二年七月三日条)。つまり頼朝はすでに京都の最高権力者内部の調停を行う立場に立っていたのであって、このことだけでも「守護地頭停止」なるものをもっぱら頼朝の「妥協」「後退」と単純に処理することができないことを示したのである。石母田はこれについて「幕府成立期というこの段階において、客観的には守護地頭問題が、院対兼実の対立よりも、より重要で本質的な政治問題であることも否定するものではない」(『著作集』第九巻、二五二頁)とするが、三章で詳しい検討を行うように、私は、むしろこの問題こそ政治史の展開にとってはより重要で本質的な問題であると考えるものであり、石母田の指摘の意義は石母田が考えるよりも大きいのである。
 そして、第二に石母田は「諸国守護の武士ならびに地頭等、早く停止すべし」という『吾妻鏡』の「地の文」そのものをも、そのままの形では信用できないと退けた。『吾妻鏡』には、六月二一日付の広元に渡された頼朝御判の文書が掲載されているが、石母田は『吾妻鏡』に全文引用されたこの文書のみを原史料として扱い、右の「地の文」はその原史料にもとづいて作文された疎漏な綱文であって採用できないとしたのである。この広元に渡された文書は、畿内・中国・および東海・東山諸国の一部、あわせて三十七ヶ国について、「国々守護の武士、神社仏寺以下諸人領、頼朝の下文を帯びず、由緒なく自由に任せ押領の由、尤も驚き思ひ給ひ候ところなり、今においては院宣を彼の国々に下され、武士の濫行・方々の僻事を停止せられ、天下を澄清せらるべきなり」と述べたものであり、たしかにそこには「守護地頭の停止」というよりも「国々守護の武士」の濫行・僻事の院宣による停止が述べられているのみなのである。それは後年の『吾妻鏡』がこの処置を「三十七ヶ国内の諸荘園、今においては武士の妨げあるべからざるの旨、奏聞の後、年序を歴おわんぬ」(『吾妻鏡』建久五年一二月一〇日条)と武士濫行の停止に引き付けて記していることとも対応している。
 石母田のいうように、『吾妻鏡』の「地の文」とその後に引用された広元に渡された頼朝文書の内容には一定の距離がある。同じく、石母田のいうように、「事実として文治二年以後庄郷地頭職は広範に存在して鎌倉権力の基礎となっている」のであって(『著作集』第九巻、二九六頁)、内乱期からこれらの国々で現実に活動を展開してきた地頭の存在を一片の法令によってくつがえすことはできない。この意味で石母田の視点は尊重されなければならないだろう。
 しかし、私は後に述べるような石母田が指摘した第一の点の重大さから考えると、院・基通・兼実の関係に介入するために、頼朝が最大限の妥協を選び、実際に「諸国守護の武士ならびに地頭等、早く停止すべし」という上申を行った可能性も否定できないと考える。『吾妻鏡』の「地の文」と頼朝文書がいくつかの媒介によって照応する可能性も否定できない。
 そこで『吾妻鏡』に引用された問題の六月二一日付の広元に渡された頼朝御判の文書の検討に進もう。まず、この文書の要点を示すものとして先に引用した一節の傍線部やこの文書の事書、「天下を澄清のため、院宣を下され、非道を糾弾し、また武士の濫行を停止すべき国々の事」に現れる「天下澄清」という文言は、大山が述べたように一一八六年(文治二)四月三〇日の頼朝奏状に現れるものであり、頼朝のこの段階での政治理念・キーワードである(「文治国地頭の停廃をめぐって」)。三章で触れるように、この大山の指摘は、この時期の政治過程を理解する上で決定的な意義をもっており、この四月三〇日の「徳政興行」の頼朝奏状、そしてそれを受けて六月九日に鎌倉に到着した「勅答条々」という形で展開した過程は、内乱後最初の本格的な「徳政」を主導しようという頼朝の意思を表現するものなのである。「天下澄清」は「頼朝の平和」を象徴している。
 このことを確認した上で、この文書の古文書学的性格を検討してみる。この文書は今までは「頼朝書状」と呼ばれてきた。それはその末尾に「此趣きをもって、奏達せしめ給うべきの由、師中納言に申さしむべきなり」とあるところを、おそらく師中納言吉田経房あての披露状と取っていたのであろう。しかし、この時期、頼朝は身分からいっても経房に対して披露状を出すようなことはなく直状を使用していたし、何よりも「披露せしめ給うべし」というような披露文言および書止文言がなく、「師中納言に申さしむべきなり」という命令形で終わっていることは、これが書状といわれるべきものではないことを示している。特に、最近の黒川高明の研究によれば、この時期の経房充の頼朝の書状はすべて「裏御判」の形式をとっている。そして黒川も指摘するように、この六月二一の頼朝文書は「日下に署名がなく『御判』と記された文書」なのである(「源頼朝の裏花押文書について」)。これが尊大な形式であることは黒川の所論に照らして明らかであり、要するに、この文書はその受取者に経房への上申を命じたものであり、受取者はむしろ頼朝の下にいる存在であった筈なのである。
 『吾妻鏡』は、この事書状を「諸国守護の武士ならびに地頭等、早く停止すべし」という「御書」についての「地の文」を終えた後に、「又、因幡前司広元、使節として上洛するところなり」と記して全文掲載している。この順序に従えば、この事書状は京都へ上る広元に与えられたものであることになり*33、書止が「師中納言に申さしむべきなり」という命令形で終わっていることは、そう考えることによって初めて理解できる。つまり、この充所を欠く事書状は頼朝が広元の経房との交渉のために特命委任の証として作成した交渉メモあるいは口上書というべきものなのである。それはこの時期の頼朝文書に幾つか例の見える事書状、事書注文ともいうべき文書の長文のものであって、おそらく折紙に記されていたに違いない。だから、かって羽下徳彦がその可能性を指摘したように(「石母田氏『文治二年の守護制度停止について』を読んで」)、この文書は当然のこととして院側に渡されなかったのであり、そのために広元の手許に残って『吾妻鏡』の編纂材料として利用されることになったのであろう。
 問題は「地の文」に「諸国守護の武士ならびに地頭等、早く停止すべし」と要約された公朝の持参した「御書」とこの広元の持参した「事書」の関係にある。現在残されていない「御書」は『吾妻鏡』に「師中納言をもって奏聞すべきの旨」とあることからも経房に充てられた書状である。それに対して「事書」は、たしかに守護・地頭の停止を明言している訳でないが、しかしこう考えてみると、それは正規の「御書」の存在を前提として読まねばならないことになる。両者の間には、正規の文書とメモの相違、いわば建前と本音の違いがあったのではないだろうか。こう考えれば多くの研究者を悩ませたこの事書状の読み方も明瞭となるだろう。頼朝自身、すでに現実に存在する守護地頭の活動を一片の法令によってくつがえすことができないことは自覚していたに違いない。事書にはそれを踏まえた関東と頼朝の本音が述べられているのである。
 このようにして、『吾妻鏡』の「地の文」も事書状もおのおの独自の意味をもつ史料として生かすことができるのである。ようするに、「守護地頭停止」は実際に頼朝によって奏上されたが、そのままの形では「実現」しなかったのである。このような説明はあるいは「奇妙」に見えるかも知れないが、しかし、これによって、頼朝による守護地頭の成敗の放棄が少なくとも建て前としては本気のものであったことが明かとなる。頼朝は、地頭については「近国没官跡においては然るべからず」という限定を付けたものの、西国方面の三七ヶ国における「守護の武士」が院宣によって一括的に支配されるべきことを宣言したのである。もとより院宣による武士の支配は当初からの原則であり、それは事実上の関係を総括したという側面をもっているが、それが一括して法的に宣言されたことの意義は大きい。それは結局「文治勅許」によって獲得した権限から頼朝が手を引き、頼朝が関西方面の守護・惣追捕使に対する指揮権を放棄し、事態収拾の責任を相手側に委ねるぞと半ば脅しをかけつつ、その指揮系統の一部を院に譲ったことを意味している。日本国惣守護の法的地位は関西については辞止されたのである。それは時政による「七ヶ国地頭」辞止によって始まった「妥協」路線の完成であるということができる。ただし、後の経過から考えると、時政の七ヶ国地頭辞止は、そのままでは実現せず、その地位は頼朝の日本国惣地頭の地位に還流したものと考えられる。それは先の時政奏上に対する院の回答が示唆した「国毎に惣追捕使を置く」という方向にそって、西国における広域的軍事行政が清算されたことを意味している。この意味で、この過程を通じて「国地頭」の体制が停廃されたという大山の見通しは事態の中心を捉えている(「文治国地頭の停廃をめぐって」)。内乱期的な「守護地頭」のシステムが転換したことは明らかである。
 しかし、以上の分析によってそれが単なる妥協でないことも明かとなったであろう。それが頼朝は「日本国惣追捕使=日本国惣地頭」の地位、いわば武王としての地位に一度はついたという国制身分のカリスマは維持ししたはずである。地位自身を放棄するものでなかったことはもちろんである。それはむしろ、守護・地頭の存在とそれに対して頼朝が指揮権を握ることは前提としつつ、その西国における指揮権の一方を院に対して譲ったものなのである。それはいわば関東と院に両属・二重帰属する武士を大量に生み出すことによって、内乱の成果を体制化したのである。そもそも、時政自身、その七ヶ国地頭職は結局頼朝に回収されることになったとはいえ、一度は院に対して「辞止」したのであって(『吾妻鏡』文治二年三月一日条)、それは時政が頼朝に属するとともに院より七ヶ国地頭職を「分かち賜は」(『兼実日記』文治一年一一月二八日条)ったという意識を維持していたことを物語っている。早く上横手が関東御家人の「二重の隷属関係」「二重の存在形態」を指摘しているように(上横手『鎌倉時代政治史研究』一九四頁)、それは体制的な必然であった。
 石母田は「この書状の根本思想の一つが、三七ヶ国と鎮西において、院と師中納言と頼朝の三人が果たすべき役割または法的機能を明確にしようとした点にある」(『著作集』第九巻、二六四頁)と述べている。その視点は正確である。それは一一八五年(文治一)に一応確認された頼朝の全国的な軍事支配と国土高権の地域的調整であったのであって、それが裏側にどのような国家構想を孕んでいたか、それは後章で明らかにされることになるだろう。
Ⅲ 頼朝の徳政と後鳥羽新制
 頼朝が「日本国惣追捕使」・「日本国惣地頭」として確保した国土の軍事的支配と高権的領有、そしてそれを支える「東国惣官職」を法的基盤とする地域国家の形成は、内乱とそれを総括する「文治勅許」の過程において、王朝国家の中に受胎した武家軍事貴族が国家中枢を実質上は領有したことを意味している。東国に形成された地域権力を東国国家と規定すべきかどうかの議論はいまだに決着をみていないが、早く佐藤進一が述べたようにそれが一つの国家的存在であることは否定できず(佐藤「幕府論」)、とくにこのように決定的な国家位置をもつ地域権力を地域国家=東国国家と規定するのは自然なことである。こうして大山の言を借りれば「社会と国家の体制そのものが軍事的構成へと編成がえをされていく過程」(「文治の国地頭をめぐる源頼朝と北条時政の相剋」)は、列島の一地域に小国家の形成を結果し、それにともなって以降の国家史に伊藤喜良のいう地域複合国家ともいうべき特徴をあたえることになったということができる(伊藤『中世国家と東国・奥羽』)。
 次の問題は、それに対応する政治過程の筋道を論じることにある。それは軍事的・経済的な諸過程とは区別された過程であって、その基礎には、鎌倉の権力が「公戦」を戦い抜きつつ徐々にその独自の国家構想を展開するイデオロギー的な運動が存在した。このような政治過程の分析によって内乱を経過した国家権力総体の変容を把握することが可能になるはずである。そして、そこでは、今までの叙述では隠されていた支配階級の政治的イデオロギーと政治的な肉体、要するに彼らの政治能力や身分的地位の問題が具体的に現れることになるだろう。
①以仁王と円暁
 まず問題となるのは、一一八〇年(治承四)の頼朝の蜂起を直接に支えたイデオロギーである。それは三浦義明が「吾、源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋に逢ふ」と述べたと伝えられているように、貴種・源家の再興という観念であった(『吾妻鏡』治承四年八月二六日条)。もとより、最近の研究が強調するように、平安末期東国における平氏権力の伸長は顕著なものがあった*34。しかし、東国が伝統的な源氏の拠点であって、蜂起した武士集団・戦闘集団の中に、蜂起の直前、伊豆走湯山の覚淵が「八幡太郎(義家)の遺跡をうけ、旧の如く東八ヶ国の勇士を相従え」(『吾妻鏡』治承四年七月五日条)と述べたような観念が存在していたことを否定することはできない。
 そのような観念およびそれと関係する「源平交替」の観念の鼓吹は『吾妻鏡』の所々にみることができる。そもそも以仁王令旨が「諸国の源氏」に対して発給されたこと自体が、源平交替の観念を下敷きにしていた。そして一一八一年(養和一)秋の頃、頼朝が後白河に対して「若しなお平家を滅亡せらるべからずんば、古昔の如く源氏・平家相並び、召仕ふべきなり、関東は源氏の進止たり、海西は平氏の任意たり」と述べたと伝えられ(『兼実日記』養和一年八月一日条)、また一の谷合戦の後、鎌倉に連行された平重衡が「源平天下の警衛たるの処、頃年の間、当家独り朝廷を守り」と述べたとされているように(『吾妻鏡』元暦一年三月二八日条)、それは平安末期の軍事権門の在り方に関する国家的イデオロギーであったのである。
 それは単純に家人関係と等置できる関係ではなく、より国家的な観念であった。青山幹哉は、東国において「封建的主従関係を超え」る超越性を有する「『源氏カリスマ』とでも称すべき氏族カリスマ」が存在し、それはまずは「王朝国家の軍事担当部門、すなわち将軍は同一氏族の出身であるべき」という王朝国家のイデオロギーにもとづいていたとする(「鎌倉将軍の三つの姓」)。青山はそれを佐藤進一のいう「家業の論理」(『日本の中世国家』)に引き付けて理解しているが、佐藤自身がそれを専業氏族の業としているように、より正確にいえばそれは古代的・伝統的な「名負の氏」の論理が、平安時代初頭以来、変容しつつ下降拡大する中から形成された国制観念としての「氏」イデオロギーであり、そのようなものとして室町時代まで持続したものである。
 要するに、「源氏・平家相並び召仕ふ」とは、「氏」というイデオロギー的形式の下での軍事的職能・「公戦」の「道」の国家的組織を表現するのである。「君は正統なり」(『吾妻鏡』治承四年六月一九日条)といわれた頼朝は、このイデオロギーを受け継ぎ、拡大して、自己を国家に奉仕する武家としての源家の正統すなわち「長者」に擬していたと考えられる。「義家朝臣、年来武士の長者として多く無罪の人を殺す」(『中右記』天仁一年一月二九日条)といわれていることはよく知られているが、右のような国制イデオロギーの下において、「長者」という用語は職能集団(「道」)と氏族集団(「氏」)の両方を表現するのである。
 もちろん、氏長者とはそれ自体としては制度的な用語であって、頼朝は源氏長者を自称してはいない。しかし、子どもの実朝が「関東長者として、去る七日、従五位下の位記ならびに征夷大将軍宣旨」を受けていることが重要である(『吾妻鏡』建仁三年九月一五日条)。青山が鋭く指摘したように、この源家の「関東長者」というイデオロギーが鎌倉時代を通じて鎌倉殿を深く規定し続けたのであり、「関東長者」という言葉は「氏」と特定の地域権力の結び付きを示すものとして重大な意味をもっている。それは「東海道惣官職」の伝統的・氏族的な表現形態なのである。幕府が「御曩跡」の地である鎌倉に置かれなければならなかった理由はそこにあったし(『吾妻鏡』治承四年九月九日条)、また、たとえば奥州合戦において頼朝が「曩祖」頼義の故実を強調したことの意味はそこに求められなければならない(川合「奥州合戦ノート」)。
 しかし、三浦義明の「吾、源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋に逢う」という言明は単に右のような伝統的イデオロギーの確認であったのではない。蜂起の前提となった以仁王の行動は、後白河の第二子(令旨にいう「一院第二皇子」)としての王位継承権を主張する立場から、高倉・安徳の王統と結合した平家を追討することを号令したものである。それ故に、以仁王の令旨に応じたという立場は、中央における王位継承争いへの参加を意味したのであり、そこでは王位継承に対して東国の惣官とその下の武士団も参加しうるようなものとして国家と天皇制の伝統は相対化されていたということもできる。そのような争いに参与しうる地位こそが東国武士にとっての頼朝の「貴種」性であったのであり、そのような意義を含めて源家貴種の再興というイデオロギーは内乱の旗印となったのである。
 頼朝は、このような文脈において、以仁王の令旨をフルに利用した。頼朝は、少なくとも蜂起の翌年、一一八一年(養和一)九月七日に藤原兼実が入手した伊勢神宮あての願文に至るまで、つまりほぼ一年間の間、以仁王の檄を自己の正当性の根拠として掲げ続けた(『兼実日記』養和一年九月七日条)。しかし、以仁王はすでに死去しており、同じ年の初め、二月には関東の武士が「宮御座さざるの由を聞き、多く頼朝にそむくの者あり」(『兼実日記』治承五年二月二〇日条)という風聞が京都にまで届いている。それが事実であったかどうかは別として、この問題は頼朝にとってそのままに放置できない性格のものであった。一つの選択としては生存が確認されている以仁王の子息を鎌倉に迎えることも可能であったろう。たとえば養和一年一一月には以仁王の近臣の相人(そうじん)(占者)で「彼宮、必ず国を受くべきの由」を占い、「此の如きの乱逆、根源、この相にあり」といわれた相少納言宗綱(『兼実日記』治承四年六月一〇日条)が逮捕され、以仁王の所在を尋問されているその中で、彼の「昵懇」であった源頼政の一族・「加賀竪者」が鎌倉に逃亡してきた(『吾妻鏡』養和一年一一月一一日条、『兼実日記』養和一年十月八日条*35)。この加賀竪者などのルートを辿れば、以仁王の子息を鎌倉に迎えることも十分に可能であった筈なのである。 しかし、頼朝はその道を選ばなかった。一一八二年(寿永一)二月の伊勢神宮への告文では以仁王は無視されるに至ったのである(『吾妻鏡』寿永一年二月八日条)。頼朝がこの告文で展開したのは、「方今、無為・無事に参洛を遂げ、朝敵を防ぎて、世務を元のごとく一院に任せ奉り」という論理であり、それ以降、頼朝の主張から以仁王の檄は消失した。それは高倉の王統を否定し、それ故に後鳥羽の地位を否定する以仁王を謀反人とみる「一院」・後白河と宮廷の意向を、頼朝が受け入れたためであった(河内『頼朝の時代』七三頁)。その直接の事情は詳らかではないが、頼朝と後白河の間には、上西門院統子(後白河の同腹の姉)や文覚を通じての連絡があったという想定が正しいだろう(上横手「院政期の源氏」)。
 そして頼朝が旗印としての以仁王令旨を放棄し、後白河ー後鳥羽王統への接近の意思を表明したことはすぐに都鄙に知れ渡ったと思われる。というのは、この年一一八二年(寿永一)七月、行方の判らなかった以仁王の子供、「三条宮子宮」(後の北陸宮・加賀宮)が乳父の「讃岐前司重季」や「前馬允行光三条宮侍、専一者なり」、「上野国住人奈越太郎家澄」などの武士とともに北陸に向かったのである(『兼実日記』寿永一年七月二九日条、『同』八月一一日条、『吉記』寿永一年七月二八日条)。これは、当面、以仁王の遺児を鎌倉に迎える意思が頼朝にはないことが知れ渡っていたことを意味するのではないだろうか。東国武士の向背と以仁王蜂起の関係は人的関係を含めて通り一遍のものでなかったのであって(河内『頼朝の時代』四二頁)、そのような情報の伝播は急速であった筈である。特に千葉氏と以仁王の円城寺を媒介とした関係は重要な意味をもっている。
 先述のように、上総介広常など、関東の武士たちの中には以仁王を推戴するような「両主制」を期待する心理があった(佐藤『日本の中世国家』)。しかし、「両主制」とは固定的なものであったのではなく、それは、全国的な権威の獲得と頼朝の専権の制約の二つの志向の関数であったというべきである。ともあれ、その道は以仁王遺児の北陸行と翌年末の広常の誅殺とによって最終的に封殺された。頼朝にとっては以仁王の子供を推戴する道は選択の対象外であり、彼にとっては、所詮、以仁王令旨は蜂起の名目として利用すべきものに過ぎなかったのである。
 もちろん、頼朝は王位継承問題一般への介入の意思を放棄したわけでない。それを象徴するのは、一一八二年(寿永一)、以仁王の遺児の北陸逃亡と前後して鎌倉に招請されて鶴岡八幡宮別当となった園城寺の法眼円暁の存在である(『吾妻鏡』寿永一年九月二〇日条)。彼は、『吾妻鏡』が「是、後三条院の御後、輔仁親王御孫、陸奥守源朝臣(義家)の御外孫」とするのによれば、後三条院の死後、兄の皇太子実仁親王の死去の後を受けて皇太子に擬せられた輔仁親王の孫であり、義家の外孫であるという。これは『尊卑分脈』第三巻(後三条源氏)に輔仁→法眼行恵→円暁という系譜があるのと照応する*36。園城寺が以仁王の蜂起において大きな役割を果たしたことは周知の事実であるが、その中にはこのような人脈が含まれていたのであって、円暁の鎌倉到着は園城寺と鎌倉の関係にとって大きな転換点となったに違いない。
 円暁は伊勢神宮に立ち寄り祭主親隆の歓待を受けて送り付けられたために間に合わなかったものの、八月一二日の政子の出産の祈祷のために招請されたという。そしてこれ以降、鶴岡八幡宮の別当は基本的に園城寺から入寺することになるが(佐々木馨『中世国家の宗教構造』一三四頁、同「中世北辺の仏教」)、いうまでもなく鶴岡八幡宮は源氏の氏寺として源氏の氏族血統カリスマを象徴している。鶴岡を軸線に都市鎌倉が形成されたことはいうまでもなく、私は、そのようなイデオロギー的環境の下に、鎌倉には京下の公家貴族・官僚・上層武士の構成する一種の貴族的宮廷社会が形成されていくと考えている。その意味で、円暁の鶴岡八幡宮別当就任は、蜂起以降、形成されてきた東国社会の新たな秩序を総括するものでもあったのである。
 ここには、頼朝自身およびその後継ぎ・頼家の「貴種」たる地位を確定し、源家の血の中に後三条の王統との関係があることを誇示して京都に臨む姿勢があった。そしてこれは、平安末期内乱の総過程の必然的帰結であった。つまり、周知のように、後三条院は平安時代の冷泉・円融の両王統の血を引く王として両統の迭立を解消する役割を担い、さらに冷泉系の三条・小一条の血を引く基子との間に生まれた実仁を皇太子に据えるために、中継ぎの天皇としての白河に譲位して院政を開始しようとした。ところが、後三条は譲位後いくらも経たずに死去し、白河は皇太子実仁の死去の後、後三条の王位継承プランを無視して堀河を即位させ、自身は譲位して院政を開始したのである。しかし、鳥羽院が「朕、未だ生まれざる以前、故堀河院、疾病せらるるなり、天下、心を三宮に帰す」と述懐したように(『台記』康治一年五月一六日条)、実仁の同腹の弟・輔仁の即位を当然視する世論は強く、白河院は「位ノ時、三宮輔仁ヲオソレ給」(『愚管抄』巻四)と伝えられている(龍粛『平安時代』九三頁、河野房雄『平安末期政治史研究』二七頁)。
 このような後三条の実仁・輔仁に対する偏愛とそれに反発する白河の偏執が平安末期内乱の遠因をなしたのである。そしてその最初の発火点が、鳥羽の即位後、七年を経た一一一三年(永久一)、輔仁親王の護持僧仁寛*37が兄の勝覚の童子を語らって企てた鳥羽殺害計画であった(『殿暦』永久一年一〇月五日条)。結局、仁寛は伊豆国に流されて、投岩自害したと伝えられるが(『中右記』永久二年四月一四日)、注目すべきなのは、その時、仁寛兄弟の父として縁座の嫌疑を懸けられた、左大臣源俊房の周辺に義家がいたことである。『古事談』(第四、勇士)によれば、義家は陸奥前司の頃、常に俊房のところへ参って囲碁を打っており、それは同時に俊房の身辺護衛を兼ねてのことであったという。義家が俊房に臣従する立場にあったことは確実である。そして、俊房が参議基平の娘、すなわち問題の輔仁の母・基子の姉妹を妻とし、また仁寛が輔仁の子供の仁操を弟子としているなど、この俊房一族が輔仁親王を支える集団の中心にあったことは明らかである。
 このような人脈の中で、義家が輔仁・俊房らの爪牙としての位置を与えられ、輔仁に娘を捧げたのである。それが何時頃のことであったかは不明であるが、義家が輔仁に賭けることによって、「前陸奥守義家随兵の入京ならびに諸国百姓田畠公験をもって、好んで義家朝臣に寄するの事を停止」といわれた「武士の長者」の権威をえたことは確実であろう。この一〇九一年(寛治五)の堀河天皇宣旨は「ある個人の立てた荘園に対する禁止令とは、この義家以外にまったく例がない」(石井進「院政」)ものとして有名であるが、それが「天下、心を三宮に帰す」という状況の一環であった可能性は高い。しかし、結局のところ、この義家の行動は、一〇世紀以来の宮廷の内紛で陰の役割を担い、最有力な中央軍事貴族としての地位を確保していた源氏の凋落を導き、白河院政初期における義家の不遇と源氏の内紛といわれるものの真の原因をなしたのである*38。
 もとより、裏切りを本性とする武士として、義家は一〇九八(承徳二)に正四位下を与えられて院昇殿を許され、白河院に屈従したが、それはすでに白河院が地方的棟梁武士に過ぎなかった平正盛を抜擢する意思を固めた上でのことであった。そしてここに、王家内部の暗闘が源平の対立と結合し、惨酷な闘争のコンプレクスの種が蒔かれたのである。頼朝による円暁の鎌倉招請は、その対立の全てを清算し、歴史を後三条の段階へ復古させ、自己の正統性をその中で誇示するものであったというべきであろう。私は、頼朝を貴種として戴いた東国御家人が、この義家以来の内乱と相克の歴史を踏まえていたことは確実であると思う。
 以仁王令旨を投げ捨てた頼朝の野望は、このようなものであった。そして、彼は以上のような王権と関わる氏族的血統カリスマの存在を前提として、直接に後白河・後鳥羽との関係で自己自身を位置づけるに至った。それを象徴するのは、挙兵直前の一一七八年(治承二)、伊豆山権現に政子とともに避難した頼朝を護衛していた安達藤九郎盛長が見たという霊夢、つまり頼朝が左右の袂には月日を宿し、左足は奥州外ヶ浜を右足は鬼界島を踏まえて箱根山の上に立ったという夢である(『妙本寺本曽我物語』、参照、大石「外が浜・夷島考」)。この頼朝の姿は「主上、上皇」の「御後見」として「日本秋津島の大将軍」となる前兆であると占われている。
 もとより、この夢想の記録がどこまで事実を伝えているかについては慎重な顧慮を必要とするが、しかし、この夢想の伝承は鎌倉初期からもてはやされていた可能性は高い。そこで最も興味深いのは、頼朝の「日本秋津島の大将軍」の地位と天皇・院の「御後見」の地位が一連のものと語られている点である。それは王権を軍事力をもって「後見」しようという頼朝の意思を象徴している。そしてこの夢物語のコンテキストからいうと、頼朝は「新皇」以仁王ではなく、最初から「主上・上皇」の後見、つまり具体的には後白河・後鳥羽の王統の擁護者として自己を位置付けていたことになるのである。いうまでもなく、後鳥羽は、平家が安徳を擁して西走した後、三歳で慌ただしく三種の神器なしに即位した「半帝」である。頼朝は後鳥羽を「後見」して権威ある天皇に成人させることによって、自己の覇権を確立しようと意図していたことになる。
 このような国家構想は、それ自体としては決して革新的なものではありえない。それは義家以来の平安期王朝国家の軍事貴族の伝統的イデオロギーであって、またそれを最初に実現した平氏権力と清盛の歩んだ道を自分も歩もうという意思に他ならない。そこにあるのはまさに「源平交替」の観念なのであり、すでに平家権力が軍事貴族として初めて高倉・安徳という王統の外戚として新たな王統の形成に参与していた以上、頼朝にも同様の可能性が開かれたと見ることには十分な理由があったのである。しかし、自ら内乱を勝ち抜いた頼朝の企図は清盛を越えるものであり、それがいわば軍事的「副王」「後見王」として全国を支配し、新たな王統の形成者となろうとする野望であったことは以下の行論が明らかにするであろう。
②頼朝の徳政と大姫入内計画
 以上のような国家構想を実現するためには、頼朝の上洛がどうしても必要である。王の後見は、頼朝が自身で上洛して直接に政治的な人格関係を取り結ぶことによってしか実現できない。一章で触れたように、頼朝は蜂起の最初から上洛を狙っており、その噂は頻々と京都に届いていた。それが徐々に延引していったのは、端的にいえば頼朝が「京攻」あるいは「平家追討」という軍事的行動の責任を取ることを躊躇したためである。河内祥輔がいうように「京攻め」ということは慎重な顧慮を必要とすることであることは確かであって(『頼朝の時代』四六頁)、頼朝は義仲のような軍事的冒険はできない。しかし、ここで問題なのは「京攻」ではなく頼朝の上洛自身であり、後者は軍事的行動である前に、一つの政治的行動である。そして、結局のところ、臆病な頼朝は軍事的緊張の中では上洛しないという判断、逆にいえば先に引用した一一八二年(寿永一)二月の伊勢神宮への告文の文言を取れば「無為・無事に参洛を遂げ」るという判断をした(『吾妻鏡』養和二年二月八日条)。
 これは別にふれるように、一時問題となった大姫と摂政基通との縁組み話を拒否し、朝廷政治との関わりは九条兼実のような傀儡を作って、遠隔地から間接的に左右した方が面倒がないという判断をしたということである。そしてそれは他面において、頼朝が関東をおさえたことの優越的な地位を自覚したことを意味する。頼朝は、ほぼ一一八四年(元暦一)七月以降は、上洛の計画にふれることがなくなったが、これは頼朝が、徐々にいわば東国国家の権力と支配の機構を構築し、その中枢において、鎌倉の主としての地位を確保するという方向に梶を切ったことを意味する。
 逆にいえば、それはより政治的=「平和」的な上洛をするという判断にほかならない。しかし、上洛の遅延が、諸条件を整えた上での入洛という政治的野望の拡大と同意義であったことが問題である。つまり、右の告文がさらに「朝敵を防ぎて、世務を元のごとく一院に任せ奉りて、禹王の慈愍を訪らはしめ、神事を如在に崇め奉りて、正法の遺風を継がしめむ」と述べるように、この入洛計画は頼朝による「正法」の興行すなわち徳政の興行の主導という政治プログラムと同意義であった。そして、このような姿勢を京都に向かって頼朝が初めてはっきりと述べたのは、一一八三年(寿永二)九月末に京都にもたらされた「勧賞を神社仏寺に行はるべき事」「諸院宮博陸以下の領もとの如く本所に返付せらるべき事」「姦謀の者といへども斬罪を寛宥せらるべき事」という三箇条からなる頼朝の申文であって(『兼実日記』寿永二年十月四日条)、これについて佐藤が「一つの徳政立法を構成する」ものであったと指摘した意義は大きい(佐藤『日本の中世国家』七四頁)。
 一章で検討した寿永二年十月宣旨は、このような頼朝の宣伝を直接の前提に発布されたものだったのであり、またこの徳政が一一八三年(寿永二)八月に踐祚した後鳥羽の代替徳政の意義を担っていたこともいうまでもない。頼朝がこの時点で挙兵当初からの治承の年号を捨てて寿永の年号に切り替えたのも当然であった。そして、この路線は義仲との競合によってすぐに実現はしなかったが、義仲を討ってすぐ、一一八四年(寿永三)二月二五日の「朝務等の事」「平家追討の事」「諸社の事」「仏寺の間の事」からなる四箇条の奏状においても、「朝務等の事、右、先規を守り、殊に徳政を施さるべく候」などという形で繰り返されている(『吾妻鏡』寿永三年二月二五日条)。
 この一一八四年(寿永三年=元暦一年)における頼朝の徳政興行の主張は相当具体的なものであったと考えられる。『兼実日記』一一八五年(文治一)一一月一四日条によると、この日、兼実は前月二四日の南御堂の供養から始まった義経追討のための頼朝の上洛や「若宮別当」円暁の上洛の詳細な情報を記録している。まさに事態は急を告げていたのであるが、さらに兼実は後白河が、関東の軍勢の上洛を前にした一一月三日、「女房冷泉殿」に対して摂政基通のところへいって次のように語れと命じたと記している。周知の史料であるが引用すると「世間の事、今においては帝王といえども執柄といえども、さらに恥辱を遁れるべからず、今度の怖畏、つらつら次第を案ずるに、偏に朕の運報の尽くるなり、何ぞいわんや、頼朝忿怒の由、その聞こえあり、摂政の辺のこと受けざるの由、もとより風聞、右府の辺の事、賢相たるの由庶幾せしむと云々、去年の比、再三申すの旨あり、しかれども朕の抑留により、その意を遂げず、今度定めて重ねて申す事あるか、今においては朕の力の及ぶところにあらず、よって未だその事を聞かざる以前に、目を遮り職を避け、右府天下を沙汰せしむる事、もっとも穏便か」とある。つまり、一一八四年(寿永三年元暦一年)において、頼朝は兼実が「賢相」であるとの理由で摂政の交替を要請していたのである。これが兼実を摂政にして徳政を展開する意思を通告するものであったことは明らかであろう。
 しかし、事態はストレートには進まなかった。頼朝は一一八五年(文治一)九月にも、大地震をうけて、「徳政を天下に満遍せらるべき事、ならびに崇徳院御霊、殊に崇め奉らるべき事」などを上申しているが(『吾妻鏡』文治一年九月四日条)、一〇月に義経が反逆し、その軍事的結果が二章でみたような「文治守護地頭設置」を結果したのである。しかし、この時も頼朝は自分で上洛するという判断をせず、東国国家の主である自分は軍事的に行動するということはしないという態度を維持した。そして、頼朝は徳政を主導せんとする年来の名目にそって行動したのである。周知のように、頼朝は義経・行家の要求した頼朝追討宣旨の発給に反対した兼実を支持し、一一八五年(文治一)一二月に兼実を内覧に推挙するとともに、追討宣旨に与同した公卿を一掃し、さらに翌一一八六年(文治二)一月二六日、「伊予守義経謀逆の事により雑説あり」という理由で基通の摂政辞任を奏上した(『吾妻鏡』文治二年一月二六日条)。それは後任の摂政については春日社で「置文」の結果をまって決定するというものであったらしいが(『兼実日記』文治二年二月五日、十三日条)、結局、文治二年三月一二日、兼実が基通に代わって待望の摂政・氏長者の地位につくことになったのである。
 圧倒的な軍事的勝利の下、ここに頼朝の徳政を外から押しつける条件が与えられた。頼朝は前章で触れたように、時政の鎌倉帰着(四月一三日)をまって、四月三〇日、「天下の政道は群卿の議奏により澄清せらるべきの由」と始まる徳政興行の奏状を提出したのである。『吾妻鏡』の翌五月一日条には、鶴岡八幡宮に黄蝶の大群が飛行して偏満したという恠異を伝え、(反逆の者が横行するが)「能く神と君を崇め、善政を申し行はば、両三年の中に水沫の如く消滅すべし」という託宣があったことを伝えている。たしかに、頼朝の徳政の展開にとってはここが正念場であり、それはこのような「平和」への予感をこめた妖言や託宣という形において都鄙に知れ渡っていたのである。そして、鎌倉権力は、ともかくここを乗り越えた。それは、六月九日の後白河院勅答条々、六月二一日頼朝の奏状という形で進展し、結果として守護地頭問題に関する重大な妥協が行われたことは前節で見た通りである。この妥協が頼朝による軍事的覇権の確立のみでなく、政治過程における徳政の主導という全局の掌握の下で可能になったものであったこともすでに明らかであろう。
 問題は、頼朝が妥協して後白河側に恩を売る背景となった、後白河と兼実の対立とは何であったかということである。それはこの間激化の一途をたどり、兼実の摂政就任後、四月をはさんで五月初には義経と行家が院と基通の家中に潜み兼実を夜討するという噂が飛ぶところにまでなった。さらに五月一四日に鎌倉に到着した院使公朝は「(兼実が)偏に射山を蔑爾し、己の威を振るひ、院御領を停廃し、院近習等を解官せんとす」「これにより、法皇、頭を剃らず、手足の爪を切らず、寝食通ぜず、御持仏堂の中に閇籠し、修行する所の業をもって、悪道に廻向すべきの由、肝胆を摧く」と頼朝に報告したと伝えられている(『兼実日記』文治二年七月一四日条)。一一八五年(文治一)年末、帝王の誇りを打ち砕かれて一度は基通に辞任を勧告したものの、後白河はやはり基通の立場に立って最後の手段ともいうべき「持仏堂への閇籠」をもって抵抗したのである。よく知られているように、基通は平清盛の女子を妻とし、平家クーデタによって関白に就任した経歴を持ちながら、後白河と男色関係にあり、平家西走時、後白河を強制連行から救い、院との男色関係をたよりに都に止まって結局摂政の地位を維持したという人物である(五味『院政期社会の研究』四三四頁)。それが後白河の妄執の背景にあったことはいうまでもない。こういう院と基通の肉体関係の一面をなした政治的関係については、先に一部を引用した『兼実日記』一一八五年(文治一)一一月一四日条の関係する全体を引用する。右に触れた院の摂政辞任勧告を取り次いだ女房冷泉殿こそ院と基通の「艶言御戯」「交搆」の「媒」となった女性であったのである(『兼実日記』寿永二年八月一八日条、元暦一年七月二四日条)。
 この後白河・基通と兼実の対立が二章で触れた守護地頭停止問題の底流にあったのであり、六月二一日の頼朝の事書状をもって京都に向かった大江広元の第一の任務は、院の基通への妄執にともなう怒りを宥めることにあったのである。頭髪と手足の爪を伸ばし、断食して「悪道に廻向」する後白河の姿は「此経を魔道に廻向して魔縁となって遺恨を散ぜん」と称したと伝えられる保元の乱の敗者・崇徳上皇の死に様を髣髴させるものがある(『古活字本保元物語』)。この兄にしてこの弟ありということでもあろうが、崇徳の呪詛こそが平安末期内乱の真の原因であると考えられていたことは有名な事実である。徳政を呼号する頼朝は体裁上もその再現をどうしても避けなければならなかったのである。
 なお、崇徳の問題は、このころも一つの生きた問題であった。たとえば、前年・一一八五年(文治一)の一二月末、鎌倉の地主神・鎌倉権五郎景政と称する老翁が政子の女房の夢に現れ、「讃岐院、天下において祟りをなさしめ給ふ。吾制止申すといえども叶わず、若宮別当に申さるべし」と告げたという事件が発生した(『吾妻鏡』文治一年一二月二八日条)。この前後、頼家が俄に病気となるなどの一連の恠異が起きていたためもあったのであろう(『吾妻鏡』文治一年一二月一一日条)、この夢想は重大視されて「若宮別当法眼坊」において崇徳院の祟りをなだめるための「国土無為の御祈り」が行われたという。よく知られているように崇徳は曾祖父・白河が孫・鳥羽の妻に産ませた子供であり、保元の乱における鳥羽・後白河と崇徳の対立はそれを一つの契機としていた(角田文衛『待賢門院璋子の生涯』)。その祟りを宥めるのに、さらに古い王統対立の落とし子である若宮別当円暁は実に適役であったといわねばならないだろう。円暁の存在は鎌倉の京都対策にとって、このような具体的な意味があったのである。
 頼朝はすでに「東海道惣官職」であるのみでなく、東国国家の主としての地位を確保していたが、頼朝の徳政にとって困難であったのは、それがこのような内乱を経過した直後の王権をめぐるイデオロギー状況と複雑な人的諸関係の再編を遂行し、そこに頼朝自身の位置を確保しなけばならなかった点にあったということができよう。その点でさらに興味深いもう一つの夢物語は、「去此」に枕上に一人の貴僧が現れ、「射山(院)の事、尤も重んじ奉るべし、然らざれば慎みあるべし」と宣したという一一八六年(文治二)二月四日の『吾妻鏡』に記録された頼朝自身の夢である。この夢は、同日、幕府の北山の麓に生まれた狐の子が頼朝の帳台に入ったという事件が凶と卜筮され荒神供が修せられる中で、「去年以来、頗る恠異あり」という事態とあわせて「去比、御夢想あり」と想起されたものである。
 夢物語から潜在的意識を推定するのは危険なことではあるが、しかし、おそらくこの「射山の事、尤も重んじ奉るべし」という夢見は、先に触れた一月二六日の頼朝による基通の摂政罷免の奏上の前後のことであるに相違なく、頼朝の心理に後白河院との関係でやり過ぎたかという躊躇があったことの証拠であるといってよい。そしてこの事件が頼朝の心の琴線に触れた理由は、それが「狐」の恠異に関係するものとして夢合わせされたことにあったといってよいだろう。清盛が「狐」=荼枳尼天=「荒神」の法を修めることによって裕福となり、「天子の位に昇」る大威徳法成就の実をえたという先蹤を頼朝も知っていたに違いない(『源平盛衰記』巻一)。この夢をみた頼朝は後白河に対して非礼があれば幸運から見離されると考えたのである。
 この夢についても円暁による「荒神供」の祈祷が行われたことの意味はそこに求めるべきであろう。そして別稿(保立「平安時代の王統と血」)でも述べたように、王家の性神として強い霊力を観念された「狐」の与える幸運の中に、頼朝が自身の「帳台」と家族の運を含めて考えたのは自然なことであったろう。私は、そこには頼朝が徳政興行の前提として狙っていた野望を見て取ることができると考える。それはいうまでもなく、徳政の名義上の代表者である後鳥羽と実質上の執行者である頼朝を直接に結び付けようという計画、つまり長女・大姫を後鳥羽に嫁そうという計画である。頼朝は、そのためにこそ祖父・後白河の意思を忖度することを、彼の朝廷対策の中心に据えたのではないだろうか。
 杉橋隆夫によれば、頼朝の娘の入内計画の明証を確認できるのは一一九一年(建久二)春のことであり、一一九〇年(建久一)年末の頼朝の第一回目の上洛の時には院やその近臣との間で話題に上ったと推定されている(「鎌倉初期の公武関係」)。しかし、ということはより以前からその計画は存在したことになる筈である。そう考えると、一一八八年(文治四)二月最愛の男子・内大臣良通を失って悲観した兼実がその四十五日までに出家しようとしたが、娘任子の入内立后の神告をえて思い止まったという『愚管抄』(巻六)の記事が注目される。それによると、兼実は「法皇モ御出家ノ後ナレド、丹後ガ腹ニ女王ヲワス、頼朝モ女子アムナリ、思サマニモカナハジト思テ」と娘の立后を危ぶんだとあり、すでにその頃には頼朝の娘と後鳥羽の婚姻は世上の噂に上っていたとしてよいのである。
 この希望が頼朝の心中でいつ成熟したかが問題であるが、それはおそらく右にふれた一一八六年(文治二)二月の頼朝の夢までの時期、具体的には一一八五年(元暦二)四月頼朝が越階して従二位となって公卿に列して以来のことであると考える。そしてその相談相手となったのは同じ一一八五年(元暦二)五月、妻とともに鎌倉に下り、翌年二月まで滞在した一条能保であっただろう。彼は大姫入内計画の発端からそれに関与していたと推定されており(杉橋「鎌倉初期の公武関係」)、頼朝は、一一八六年(文治二)二月六日に彼ら夫妻が上洛する時に、その妻(頼朝の同母姉にあたる*39)を後鳥羽の乳母にするように上申しているのである(『吾妻鏡』同日条)。姉を乳母にすることが娘を入内させることと同時に構想された可能性は極めて高い。そして前記の狐事件は、そのような意図をもって能保夫妻が上洛する前々日なのであって、その意味をめぐって「卜筮」が行われ、頼朝の夢合わせが行われたのは当然であったといわなければならない。
 平安時代の新制が王の肉体の新生と国家統治法の維新を連結する構造を有していたことは別稿で触れたが(「平安時代の王統と血」)、頼朝にとっても徳政興行の意思は、後鳥羽の血と自己の血を混交させて新たな王統の肉体性を創出することと結び付いていたのである。「皇室尊崇」の観念に溢れ、また形式的な善行を強調する人間が、実際には赤裸に権力を志向する俗物的活力にも溢れていることはよくあることである。もとより頼朝の徳政が個人的なものではなく、鎌倉権力の中で体制的に構想されたイデオロギーであったことはいうまでもない。徳政の本質が「復活」にあり、それを支える「信仰(社会的共感)」の存在こそが徳政を徳政たらしめたという笠松宏至の著名な定式化を想起すれば(『日本中世法史論』一六三頁)、(もとよりそれは徐々に表面から退いていったとはいえ)先述のように歴史を後三条段階へ復古させようという密かなる意思を有していたと想定される頼朝が、大姫と後鳥羽の婚姻を期待したのは一つの必然であったというべきであろう。そして、徳政の内部に存在していた「器量」という融通無碍な能力主義的観念が「生得の身分・家などと切り離すことのできない観念」(『日本中世法史論』一九五頁)であったという指摘を受けるならば、「器量」に富み「血統」も特殊な頼朝が王の嫁を出すのは、頼朝個人でなく鎌倉の体制全体にとっても当然の帰結だったようにもみえる。
 ともかく頼朝は明らかに娘をそのような構想に利用する存在として位置付けていた。一章で述べたように、一一八三年(寿永二)、「不快」の関係の発生した義仲と和睦するために、義仲の息子・木曽義高が鎌倉に呼び下され、大姫と義高は婚約した。しかし、翌一一八四年(寿永三)一月に義仲が滅亡し、四月一〇日、頼朝が従四位に叙されて京都の貴族社会への復帰の展望が確保されるやいなや、四月二一日、頼朝は義高抹殺のために大姫と義高の「帳台」を襲撃する(『吾妻鏡』同日条)。そして、義高が死んで四ヶ月も経たない、一一八四年(元暦一)八月、『兼実日記』は「伝へ聞く、摂政、頼朝の聟たるべしと云々、是法皇の仰せと云々、よって五条亭を修理し移住せらる、頼朝上洛の時、新妻を迎えんがため云々」という噂を記録している(『兼実日記』元暦一年八月二三日)。
 ここには頼朝の上洛とは同時に家族の上洛であり、娘の政治的な結婚を意味するという捉え方が明示されている。そして、これが前述の一一八四年(元暦一)における徳政の推進と摂政の交替をめぐる後白河院と頼朝との直接折衝に関係するものであったことはほぼ確実である。「法皇の仰せ」は、頼朝に対して、兼実でなく基通を選択せよ、その場合に娘は基通に引き取らせるという趣旨を含むものであったに違いない。しかし、打算にたけた聟殺しの父親にとっても、男色の帝王の相手・基通によって自分の娘を肉体的に占有され、娘が後白河院による間接の肉体的支配に置かれるという選択肢は存在しなかったのかもしれない。ここには内乱の時代を生きた支配層の歪小なる野望と乱倫なる政治的肉体が露出しているように思う。
③建久新制と征夷大将軍
 二章で検討した文治二年三月一日における時政の七ヶ国地頭辞止に始まり、同六月の守護地頭停止に至る鎌倉と頼朝の政治的「妥協」の背景となった頼朝の徳政は、以上のような経過の下で開始されたのである。鎌倉が徳政の構想を主導しうると考えたからこそ「妥協」が重視されたことは明らかである。その直接的起点は二月四日における「狐」事件と翌々日の一条能保とその妻の帰京にあり、そして実は時政の鎌倉召喚はそれらの過程から導かれたものといわねばならない。
 このような頼朝の徳政路線に対して、後白河院と京都側の要求は、まずは実利を取るという点にあった。いうまでもなく、それは兵糧米などを名目とした地頭による年貢対捍を訴え、国衙・荘園の年貢の上進を追及する交渉の記録としてこの時期の史料に頻出する。従来の研究は、これらの交渉の中に荘園体制の擁護というようなレヴェルの問題を直接に観察するのであるが、問題はもっと即物的なものであったに違いない。それは要するに、王家や公家貴族が内乱中に我慢していた奢侈的・儀礼的な消費を充足することをベースとした要求であり、新たに鎌倉に打ち立てた貴族的社会における奢侈の味を堪能した頼朝は、これに対応することの戦略的な重要性を熟知していた。
 問題は、この奢侈の要求が王家と頼朝の具体的な人格関係を調停・媒介したことである。『大日本史料 四編之一』を繰ればわかるように、一一八六年(文治二)以降、頼朝は後白河や後鳥羽に対して盛んに様々な贈与を行っている。まず一月二一日に後白河の六十歳を賀す進物を献上し、それを受けた二月三日の院宣は院の熊野詣に対する助成を要求した。頼朝は、以降、この熊野詣雑事の負担をほぼ連年負担することになる。さらに二月一九日には伊豆国土産の甘苔を貢上し、同四月から後白河潅頂用途を頼朝の管国に賦課し(文治三年七月、四天王寺において実施)、同八月二〇日には後白河の両社行幸用途を献上し、同九月頃から後鳥羽の妹・潔子の初斎宮群行の諸用途を献上し(文治三年九月に実施)、さらに、一一八七年(文治三)二月四日条の『兼実日記』によれば「禁中の事、内裏の修造といい、禁裏の雑事といい無沙汰の由、返々不便に候、計らい仰せ下さるべく候」と上奏し、同年六月二一日には大江広元を上洛させて「閑院皇居、修復を加ふべきの由」を上申している(以上、『大日本史料、四編之一』を参照されたい)。
 これ以外にもより国家的な性格をもった王家への奉仕として、一一八六年(文治二)一二月の伊勢公卿勅使雑事への助成、文治五年から始まる伊勢神宮役夫工米徴収への助成なども重要であり、実質上一国平均役徴収の幕府による代行とも評すべきこれらの事実がどのような意味をもったかは後にも触れることになる。ここで第一に確認すべきなのは、これらの贈与が、一一八六年(文治二)がちょうど後白河の六十歳の賀にあたることを名目に始まり、近い将来に迫った後白河の死を意識していたことである。たとえば、右に触れた熊野詣に対する助成を要求した二月三日の院宣は、「御熊野詣、この六・七年すでに絶つ。連々思しめし立つといへども、自然遂げられず候、返すがえす遺恨、(中略)、今春は遂げばやと思しめすの由、源二品に仰せ遣はすべきなり、(中略)、兼ねて又、御山に物なしと云々、少々米なんど運進めてんやと仰せ遣はさるべきなり、廿八度御参、三十度に満まほしく」(『吾妻鏡』文治二年二月九日条)と述べている。さらに、一一八七年(文治三)九月二〇日の院宣は、よりはっきりと「御熊野詣の事、御宝算、今明年を過さしめ御ふべからざるの由、かたがた思しめすところなり、向後の御年籠を合期しがたきにより、御参詣あるべきの由、思しめし企つところなり、御僧供米千石、前々の如く沙汰し進らしめ給はらん、他の御計略なきにより仰せ遣はすところなり、また軽物も少々訪ひ進め給ふべし」とまでいっているのである(『吾妻鏡』同日条)。これは死を迎える「帝王の御無心」とでもいうべき感がある。
 そして第二に注目されるのは、いうまでもなく閑院内裏の修復と造営への助成であって、その正式の上申は右に触れたように一一八七年(文治三)二月のことであるが、『大日本史料四編之一』(一四一頁按文)が指摘しているように、すでに一一八六年(文治二)二月六日、例の狐事件の翌々日に上洛した一条能保が上申した「禁裏・仙洞の事」が内裏(および院御所)修造の意思を表明したものと思われる(『吾妻鏡』同日条)。そしてそこに後鳥羽とともに居住するのが頼朝の娘・大姫と予定されていたことはいうまでもなく、いってみれば能保は後鳥羽の乳母として自分の妻を差し出すと同時に、姪の大姫が後鳥羽と結婚後居住する住宅の世話までも申し出たといえるのである。後白河の「死」の準備への奉仕と比較すれば、ここでは後鳥羽の結婚と新たな「生」への奉仕が意識されているといってよいだろう。その事情は朝廷にも理解されていたに違いない。『兼実日記』同年八月一九日条によれば、頼朝はその後にも「大内等修造」に尽力する用意を上奏しているが、結局その実施は一一八六年(文治二)まで延引したのである。
 このようにして、頼朝の徳政およびそれと裏腹の関係で進められた贈与・奉仕路線は、一一八六、八七年(文治二、三)頃までには相当の成熟と安定をみせるに至った。そして、これらの贈与は、実際上は対等な存在のあいだで営まれる贈与であったことは明らかであって、その意味で朝廷と幕府の関係が一種の外交関係であり、幕府が東国国家と規定すべきものであることを示しているといってよい。彼らは、相互の奢侈をみとめあうという形においてその対等性を確認したのである。
 そして、頼朝の国家構想のダメオシをする位置に置かれていたのが、一一八七、八八年(文治三、四)の鬼界島征討と一一八九年(文治五)の奥州合戦であった(入間田「鎌倉幕府と奥羽両国」)。頼朝の伊豆走湯山での夢物語はまったき現実となった。それは石橋山以降、直接の戦闘の責任を取ることを避け続けていた頼朝が、勝てることを知って遂行した惨酷な殱滅戦であり、頼朝の「徳政」が、本質的には暴力と戦争によって支えられるものであったことがここで改めて赤裸々となったのである。奥州合戦に勝利した頼朝は、「今においては見参に罷り入るの外、今生の余執なし、明年に臨み、参洛すべし」と院奏したという(『吾妻鏡』文治五年一二月二五日条)。すべての意味において、この奥州合戦は東国国家を確立するものであったといってよいだろう。ここ頼朝が「今生の余執」という言葉を使っているのは、実は頼朝が早くから奥州征服を最大の国家目標においていたことを示している。あるいは義経と頼朝の齟齬の最大の要因はここにあったのではないかというのが、私の想定である。
 翌一一九〇年(建久一)一一月、入洛した頼朝は後白河・後鳥羽および摂政兼実などに面接し、大納言、右近衛大将に任じられる。頼朝上洛の意味については多くの研究があるが、上横手がいうように第一に重要なのは右大将への任官であって、それは諸国守護権、日本国惣追捕使の地位を伝統的官職体系によって表現したものである(『鎌倉時代政治史研究』一五六頁)。頼朝は奥州合戦の勝利を前提として、軍事力の国家的公認の新たな形態を要求したのであって、それは頼朝が、入洛の当初、兼実に対して「頼朝、すでに朝の大将軍たり」と語ったことに示されている(『兼実日記』建久一年一一月九日条)。また『妙本寺本曽我物語』が建久上洛において「日本将軍」の宣旨を与えられたと伝えていることもこれに対応するといってよいだろう。上横手の見解には杉橋による詳細な批判があり、研究の方向が示されているが、本稿の立場からは、その批判の中で杉橋が「この時代の貴族社会では、将軍なる語が必ずしも征夷大将軍を指すとは限らず、むしろ近衛大将の義に用いる場合の方が多いとさえいえる」事実を明らかにしたのが重要である(「鎌倉右大将家と征夷大将軍」)。
 これは「日本国惣追捕使・惣地頭」たる頼朝の地位を発展させる要求であるが、第二に注目すべきことは、それを前提として頼朝の徳政が新たな段階に到達したことである。兼実に対して「頼朝、すでに朝の大将軍たり」と語った頼朝は、同時に「当今の御事、無雙に仰ぎ奉るべし、然れば、当時、法皇天下の政を執り給ふ、よって先ず法皇に帰し奉るなり、天子は春宮の如くなり、法皇御万歳の後、又主上に帰し奉るべし、(中略)、又天下遂って直し立つべし、当今幼年に御す、尊下又餘算なお遥かなり、頼朝また運あらば、政何ぞ淳素に反らざらんや、当時は偏に法皇に任せ奉るの間、万事叶ふべからず」と述懐している(『兼実日記』建久一年一一月九日条)。これは頼朝が最終的に目指したもの、その国家構想をよく示している。一言でいってそれは後白河の死(「御万歳」)を期待し、その後、後鳥羽の下で「政を淳素に反す」こと、すなわち後鳥羽徳政を主導する中に自己の「運」を求めることにあった。そして、兼実の意思も後鳥羽の即位にともなう新制・徳政を主唱せんとする点にあったのであり(奥田環「九条兼実と意見封事」)、頼朝と兼実の提携は自己目的ではなく、後鳥羽の後見者たらんという両者の意思に支えられていたのである。そもそも鎌倉初期の政治史は、この後鳥羽の後見体制、すなわち彼の成人と婚姻をどのような条件の下に行うかを巡って展開したのであって、すでに見たように、鎌倉初期政治史の最初の山場が後鳥羽の「後見」体制の制度的中心、つまり摂政の地位をめぐる近衛基通と九条兼実の対立であったことはこれに対応していた。
 このような認識にもとづいて、頼朝と兼実はさらに議論を行い、頼朝は「天下の政、忽ちに直し立つべきの由、まったく見え給はず、しかれども御申し及ぶところ懈緩すべからず云々」(『兼実日記』建久一年一二月九日条、『大日本史料』の翻刻による)と述べて兼実の主張を承認する。そして一二月一八日には後白河の側で新制興行の中心となっていた藤原隆房*40が「群盗の事ならびに新制の事」よりなる「前大将(頼朝)申状二ヶ条事」を承認する後白河の意思を伝え(『兼実日記』建久一年一二月一八日条)、ここに兼実の主導の下に統治法として充実した内容をもった建久二年三月の新制の発布が実質上確定されたのである(佐々木文昭「公家新制についての一考察」)。
 第三に、一一九〇年(建久一)上洛の前後に大江広元が大姫と後鳥羽の婚姻問題に関する具体的な折衝を開始し、翌一一九一年(建久二)四月には「頼朝卿の女子、来る十月に入内すべし」という情報が兼実の耳に入るに至る(『兼実日記』建久二年四月五日条、杉橋「鎌倉初期の公武関係」)。これは兼実の政敵・源通親との縁故を頼ったものであり、兼実と頼朝の離間の条件となり、以後の政治史に決定的な影響をもたらした。縷々述べてきたように、その実現は、頼朝の徳政が新たな王統の後見者としての地位を含めて全面的に展開することを意味する。そして私が注目したいのは、頼朝上洛の年、一一九〇年(建久一)の一月に後鳥羽が十一歳で元服していることである。つまり、建久一年の上洛というのは、元服によって当事者能力を有するにいたった後鳥羽との面接に大きな意味があったのであり、上洛の政治スケジュールは後鳥羽の動物的身体の成熟によって規定されていたのである。兼実が「当今、御元服チカキニアリ、八ニナラセ給、十一ニテ御元服アランズランニ、是(任子)ヲ入内立后セント思フ心フカケレド」(『愚管抄』巻六)と考えたと伝えられるように、後鳥羽の元服は直接に立后・婚姻問題が政治の焦点になることを意味していた。上洛した頼朝が後鳥羽に対して娘聟との面通しという意識をもっていたことは明らかである。そして、計算され尽くしていたといわれる奥州合戦の日程は(川合「奥州合戦ノート」)、後鳥羽の元服前に戦争を終了し上洛の折衝に入るということに規定されていたのではないだろうか。
 ともあれ、右大将に任官し、建久新制を準備し、大姫の婚姻に見通しを付けた頼朝の上洛は大きな成功をもたらしたようにみえる。頼朝はこれによって国家高権の中にいよいよ深く食い込んだ。しかし、生物としての人間は政治の術策のままに動くことはできない。予定では婚姻の時とされた一〇月に入って、「大姫君、御違例、はなはだ御辛苦」という事態が発生したのである(『吾妻鏡』建久二年一〇月一七日条)。『吾妻鏡』は義高を殺害された大姫が「周章、魂を銷さしめ給ふ」「その事以後、姫公御哀傷の余り、すでに病床に沈み給ふ」とし(『吾妻鏡』元暦一年四月二一日、同年六月二七日)、さらに一一八六年(文治二)には大姫が邪気に襲われたと伝えている(『吾妻鏡』同年五月二七日条)。義高の殺害が大姫に精神的外傷を与えたことは十分に想定されよう。しかし、この一一九一年(建久二)の決定的な時期の疾病が果たして義高を慕う感情を処理できなかったためか、それとも別の事情があったのか、それは不明である。そして、一一九三年(建久四)にも大姫の不例の記事があり(『吾妻鏡』建久四年八月一二日条)、さらに一一九四年(建久五)七月には大姫の容体が悪化する。『吾妻鏡』は「志水殿、事あるの後、御悲嘆の故、日を追って御憔悴、断金の志に堪へず、殆ど為石の思いに沈み給ふか、かつがつ貞女の操行、衆人美談となすところなり」とする(『吾妻鏡』建久五年七月二九日条)。このような「婦道」の強調はうさんくさいが、しかし、娘の身を心配した政子が一条能保の子供、高能との結婚話を進めたのは自然なことではあったろう。とはいえ、一一九八年(建久九)に二三歳で死んだ高能は『尊卑分脈』で知られる限りでも公家・武士の娘五人を妻としており、大姫がこの結婚に対して、「身を深淵に沈むべし」と拒否したのも当然であったろう(『吾妻鏡』建久五年八月一八日条)。
 他方、一一九二年(建久三)三月、後白河は六六歳で死去した。これによって「めずらしく後院の庁務なくして」「殿下・鎌倉の将軍、仰せ合せつヽ、世の御政はありけれ」(『愚管抄』巻六)という体制が成立したのである。そして、一一九二年(建久三)七月、頼朝は待望の征夷大将軍補任の除書を受け取った。これは源家因縁の対蝦夷「公戦」権の国家的承認を意味する。そして逆にいえば、平安期における軍事的「平和」の法観念(石井紫郎『日本人の国家生活』)の制度的総括をも意味する。『吾妻鏡』に「本より御意を懸けらるといえども、いまに達せしめたまはず、しかるに法皇崩御の後、朝政初度、殊に沙汰あり、任ぜらるる」(『吾妻鏡』建久三年七月二六日条)とあるように、それを妨げていたのは後白河の存在であり、後白河の死後は頼朝の野望をさえぎるものはない。内乱を勝ち抜くことによって国制上「東海道惣官」「関東長者」「鎌倉殿」としての地位を確保し、さらに「日本国惣地頭・惣守護」の地位についた頼朝は、一一九〇年(建久一)の上洛によって近衛右大将として諸国守護権を認証され、さらに征夷大将軍の地位につくことによって、官制上も奥州合戦の勝利を前提とした「東夷成敗」権を認められ*41、より高いレヴェルにおいて「東海道惣官」と「諸国惣追捕使」「日本国惣守護」を統一的に掌握する地位についたのである。
 しかし、その時、大姫は前記のような状態に陥っていた。これも支配層の政治的肉体と生命に対する内乱の因果の巡りというべきであろうか。とはいえ、頼朝の娘入内による新たな王統樹立の構想は政治史の筋書きであり、彼にとって娘の健康は問題ではない。彼はこの時から傷ついた大姫を後鳥羽の妻に入れるための利己的な策動を開始するのである。頼朝が行ったことは、まずは一一九四年(建久五)一〇月の征夷大将軍辞任である(石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』八七頁)。石井進がこの辞任を、娘の入内を計るための後白河の旧側近である丹後局ーー源通親ラインへの接近の「手みやげ」であるとしたのは事実の一半を突いている(『鎌倉幕府』二三四頁)。ただ杉橋の批判があるように、通親側も頼朝の征夷大将軍補任に反対であった訳ではないから「手みやげ」という表現は適当ではなく(杉橋「鎌倉前期政治権力の諸段階」)、これは自己を空位に置くことによって新たな地位を要求するという頼朝の手法であった。頼朝はその先に天皇の義父としての新たな地位を展望していたというべきであろう。頼朝は武官としての地位を形式上は返上して「前近衛右大将」という地位に戻り、次に王の後見者として公家集団の実質上の長となることを目指したのである。そこに王の居所としての京と畿内の掌握の意図が秘められていたのはいうまでもない。
 一一九五年(建久六)、頼朝は政子や長女大姫らを連れて再び上洛し、周知のように、大姫の入内の黙契を交換条件として、源通親と結んで兼実を裏切った。しかし大姫の健康は結婚を許さず、彼女は一一九七年(建久八)七月に死去してこの構想は頓挫した。それにもかかわらず、頼朝は懲りない男である。『愚管抄』(巻六)に「頼朝ハコノ後(大姫の死去の後)、京ノ事ドモ聞テ、猶次ノムスメヲ具シテノボランズルト聞ヘテ、建久九年ハ過グル程ニ」とあるように、彼は、大姫の死去後も大姫の妹・乙姫の入内計画を推進した。
 しかし、それが順調に進みえたかどうかはわからない。頼朝の二度目の上洛の時、すでに後鳥羽は一九歳に成長し、王としての権威を回復し、政治史は新たな展開の季節に入っていた。周知のように一一九五年(建久六)、兼実の娘・任子が王女を産んだのに対して通親の養女・在子が皇子為仁を産み、翌一一九六年(建久七)、任子は宮廷を追われ兼実は罷免され、一一九八年(建久九)には、後鳥羽は為仁(土御門)に譲位して院政を開始した。王の肉体の再生と代替りの決定的季節は過ぎたのである。
 このような新たな政治史の展開を決定づけたのは、いうまでもなく一一九九年(建久一〇)一月の頼朝の突然の死去である。『尊卑分脈』に「女御の宣旨を蒙る」とあるように乙姫の入内は約束されていたが、それが頼朝の死去の前であったか、後であったかは不明である。そして周知のように頼朝の死去後、その計画は頼家が引き継ぐこととなり、さらに鎌倉は実朝の後にも後鳥羽の子・冷泉宮頼仁親王を鎌倉に迎えようとしたが、後鳥羽はそれを容認しなかった。後鳥羽は「イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事オバシヲカンゾ」(『愚管抄』巻六)と、それを拒否したのである。このような後鳥羽の姿勢はすでにその院政の開始時に確定していたというべきであろう。
④御家人と大田文
 このようにして、頼朝の徳政が展開した国家構想は、結局流産に終わった。それは頼朝にとってはたいへんな徒労であったというべきかもしれぬが、死者は美化され、その野望は隠され、「副王」「後見王」を目指した頼朝の姿勢を単なる「皇室尊重」として伝承する様々な虚偽観念が発生した。
 しかし、内容の喪失は形式の喪失と等置することはできない。少なくとも歴史上はじめて東国の地に地域国家が形成され、以降の国家史は地域複合国家ともいうべき段階に入っていった。そして、鎌倉期武臣国家の枠組みが、この頼朝の徳政、その国家構想に深く規定されていたことは明らかである。頼朝の徳政は平安末期から鎌倉初期にかけての内乱と国家形態の転換を総括したのであり、それを通じて領主階級総体の階級的結集形態を再編した。それは王家から公家・武家の貴族、そして地方の領主たちの政治的肉体とイデオロギーを、軍事的かつ政治的な試練と消耗と破産の場所に引き出したのであり、そこにおいて、程度の差はあるものの、彼らはすべて否応無しに中央・地方における国制の中枢との関係で自己を位置付け、また国家的なイデオロギー・制度として存在する徳政・新制の理念との関係で自己意識せざるをえない位置に立った。それが内乱をもたらした社会的諸矛盾の中から形成された、暴力と軍事力を支えとする武臣国家の背骨を形成したのである。
 この武臣国家の初発の形式を示すのは、第一に、いうまでもなく、頼朝の直接の関与の下に発布された一一九一年(建久二)の新制である。そこでは全国の海陸の盗賊・放火について「前右近衛大将源朝臣ならびに京畿諸国所部官司等に仰せて、件の輩を搦め進める」という形で頼朝の地位が確認された。それが「日本国総守護」の地位に対応していたことはいうまでもない。もとより、これは頼朝が「仰」に従って警察行為を行うという規定にすぎず、頼朝の権限を積極的に表現するものではない。この鎌倉殿の地位をあたかも単なる「王朝の侍大将」「軍事担当権門」であるかのように表現する条文は、頼朝の路線にとってはあくまでも経過的な獲得物である。このような新制的性格をもった宣旨による軍事的組織の公認はすでに平氏権力段階から存在したことは、平重盛に賊徒討伐権を与えた一一六七年(仁安二)宣旨に触れて明らかにされているところである(五味「平氏軍制の諸段階」)。
 もちろん、このような形で頼朝の軍事組織が新制の中で公認されたことの意味は大きかった。それは「前征夷大将軍源朝臣遺跡を続ぎ、宜しく彼の家人郎従などをして、旧の如く諸国の守護を奉行せしむべし」(『吾妻鏡』正治一年三月六日条)、あるいは「諸国司ならびに左近衛権中将藤原頼経郎従などに仰せ、尋ね捜せしめ、よろしく禁遏せしむべし」(後堀河天皇宣旨、寛喜三年十一月三日新制、『鎌』四二四〇)などという形で引き継がれ、軍事力とその人的組織・家人郎従制を公認する形式となったのである。ここでは黒田俊雄が強調するように、幕府の侍所ー守護ー御家人というシステムは、直接に主従関係と等置できるものではなく、国家制度の一環に枠付けられたものとなっている(「鎌倉幕府論覚書)。
 そして、佐藤進一の古典的研究が指摘するように、建久年間に頼朝と御家人の関係を象徴する「下文」の形式が袖判から政所下文に変化し、御家人制度の制度化が進んだ(『日本の中世国家』)。そしてそれのみでなく、この下文更改によって御家人の知行する職が地頭職に統一され(上横手『日本中世政治史研究』二三三頁)、またその所職の安堵は即時的性格を脱却していったという(工藤勝彦「鎌倉幕府による安堵の成立と整備」)。この「安堵」の問題は御家人制と鎌倉期国家の統治権の理解において基幹をなす問題であり(笠松「安堵の機能」)、ここでの議論の枠から外れるが、ただ論述の関係で、御家人制の制度化といわれるものが奥州合戦の軍事的動員体制の中から形成されたことだけは確認しておきたい(川合「奥州合戦ノート」)。このようなシステムはもちろん平安時代以来の侍制度の連続であり、また前記のような伝統的「氏」イデオロギーの形式を保っている。しかし、建久新制は治承・寿永内乱から奥州合戦に至るまで眼前に展開した国家的暴力を新制(律令制的にいえば格式法・式条法)という形式において直接に公法的に認証した点で、国家史を画するものなのである。領主階級は、このような形で自己の暴力を法的に正当化したのであり、そのように半ば公法的な意味での御家人制という軍事的・法的な主従関係は室町期まで国家の基幹をなす「より一般的・抽象的な一つの社会身分」として持続したのである(福田豊彦「室町幕府の御家人と御家人制」)。
 第二に重要なのは、建久年間以降、幕府が諸国在庁に一国大田文を調進させる権限を行使していることである(石井『日本中世国家史の研究』一二〇頁)。このような諸国の「田地知行」の統治行政権に関わる諸問題は、本来的には平安時代以来、新制の重要な一環として、王権の国土高権を表現する「荘園整理令」に基づいて処理されていた。一一九一年(建久二)三月二二日の新制の第一条も「保元已後新立庄々」に対する整理令であったのである。しかし、前述のように頼朝の「日本国惣地頭」の地位に基づく「下地一向領掌」の成立は、そのような国土高権の軍事的奪取を意味し、幕府はこの行政的領域に対しても介入する権限を確保したのである。そして幕府は、国衙に対して石井のいう「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」に基づく「文書(大田文)調進の命令権」を発動した。もとより現在残る幕府大田文は一一九七年(建久八)以降のものであって、建久新制に直接に対応するものとはいえない。しかし、私は、このような大田文の調進命令権自身が、頼朝の「日本国惣地頭」の地位に対応する統治行政権の発動であったことは疑いを入れないと思う。
 二章で述べたように、このような統治権的な国衙権力への指示は、頼朝の「日本国惣地頭」の地位に基づく国土高権自身とは区別される行政的な権限である。ここで問題となるのは、そのような権限を幕府がどのようにして法的に確保したかにある。まず石井説を紹介しておくと、石井のいう「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」を承認した宣旨とは一一八七年(文治三)九月一三日の平盛時奉*42の関東御教書(『吾妻鏡』同日条)に、「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了」と引用されたものである。石井は、ここでいう「進退」とは補任や改易の権利を含まない広義の支配・命令権を意味するとし、それは「少なくとも大田文の作成、一国御家人交名の注進、御家人役の賦課など一連の文書作成事務の執行」を命ずる権限を含んでいたとする。そして石井はこの宣旨の発布時期について、「文治一年十一月をおいて他には求めがたいであろう」、つまり文治「勅許」において同時に下されたものであると推断し、「頼朝は、その際同時に国衙在庁に対する文書調進の命令権の獲得を公家政権に承認させることを忘れなかったのである」と結論したのである(『日本中世国家史の研究』一八八頁)。そしてさらに、石井が「国衙在庁進退権の具体的なあり方について」「補説」するとして、それが平家没官領・謀反人所帯跡の国衙在庁職に対する頼朝の補任権や在庁の国務違乱を咎める成敗権の存在をも指摘している(『日本中世国家史の研究』三二八頁)、
 これに対し、五味は、この「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」を主従制支配と論理化しているが、私には諸国在庁・庄園下司・惣押領使一般に対して頼朝が主従制的支配を展開したとは考えられない(『院政期社会の研究』三〇頁)。「進退」という用語の意味は石井のいうように考えるほかないと思う。頼朝の主従制はやはり右のような意味での御家人郎従制に求めなければならないだろう。また、最近河内は、石井のいう「進退権」は右の説明のみではその実態が希薄であるとし、その疑問から出発して、この「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了」なる宣旨は一一八五年(文治一)十二月六日の宣旨(院宣)の勝手読みであって、石井のいう「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」を独自に承認した宣旨なるものは存在しなかったと結論した(『頼朝の時代』二八〇頁)。河内の最初の疑問は納得できる部分もあるが、その推論はあまりに乱暴である。
 たしかに問題は広義の支配・命令という場合に文書調進以外に何を想定できるのか、「文書調進命令」という関係に現れた統治権的関係、行政的関係の具体的内容は何であったかということになるのであるが、その際、石井が補説の中で、頼朝下文が在庁に対して直接下されることが「頼朝の在庁に対する命令権の発動を示す」と示唆していることが重要であろう(『日本中世国家史の研究』三三一頁)。広義の支配・命令権とは、いいかえれば「諸国在庁・庄園下司・惣押領使」に対する頼朝の下文発給権なのである。一一八六年(文治二)二月の大江広元書状に、紀伊国阿弖川庄に対する濫妨を「院宣をもかまくら殿の御下文をももちいぬよし、申させたまひたるなり」といわれるように(『鎌』五四号文書)、頼朝の下文が院宣の下でそれと連称されるような権威をもっていたことは確実であり、そのような下文発給権こそ「広義の支配命令」「進退」権にふさわしい。
 地頭成敗に関する頼朝の下文と院庁下文が「住人」充てに発給される点で共通の形式を有し、それが頼朝の日本国惣地頭としての高権を端的に表現していたことは前章で述べた通りであるが、ここで問題とする頼朝下文は、当然そのような頼朝下文の権威と無関係ではないものの、より一般的・行政的な内容のものである。たとえば、一一八七年(文治三)七月二七日に、頼朝は善光寺造営の勧進上人に対して土木・人夫の助成を行うべき旨を「信濃国庄園公領沙汰人」に対して、下文をもって命令している(『吾妻鏡』同日条)。もちろん、この時信濃国は頼朝の知行国であって、このような下文発給を知行国主の権限であると理解する余地もあるが、しかし、すでに頼朝下文の発給は広範囲に及んでおり、このような命令権を知行国のみに限定するべきではないだろう。そもそもすでに平安時代前期において支配階級の上層部の政所は「告書」という「自己の管轄外の下級公的機関を対象にして命令的内容を有する意志を伝達した令外の文書」を発給する権限を有していた(菊池武雄「日本の『告書』について」)。また鎌倉期国家の年中行事が諸国充ての行事所や本家の下文以下の文書で調達されていたことも知られている(井原今朝男「中世国家の儀礼と国役・公事」)。何度か引用した守護地頭設置に関する大江広元の奏言が「諸国に御沙汰を交え」と呼号しているように、国土高権を軍事的に奪取した頼朝自身がそのような国務干渉権を行使していたことは明らかである。
 もちろん、これらの下文は無限定に効力を有した訳ではない。それは基本的には院宣の下で機能するべきものであったし、また少なくとも形式的には国家意思を表現する行政的指示としての性格を有するものであることを必要としていたと思われる。右の善光寺造営のための一国平均役に関する指示などは、その最も典型的な事例であるということができるだろう。そして「①文治二年(一一八六)末の公卿勅使駅家雑事、②文治三年(一一八七)の斎宮群行雑事、③文治五年(一一八九)から始まる伊勢神宮役夫工米、④建久三年(一一九二)から始まる宇佐宮造営用途など、事実上の内乱の終息とともに、こうした国家的行事の用途調達に幕府が積極的に乗り出している」とされているように(川合「治承・寿永の『戦争』と鎌倉幕府」)、実際に、幕府がそのような一国平均役に関して行政的指示をすべき場面は増大の一途を辿ったのである。
 これが先記の頼朝と幕府の王家への贈与と奉仕の路線の一環であったことはいうまでもない。そして後白河の側もそれを歓迎し、むしろ頼朝の協力を期待したのである。たとえば、東大寺の造営について、一一八七年(文治三)三月、頼朝は院に対して「関東方ハ頼朝勧進御使として相励むべく候なり、それも君より仰せ下されて候しをもて、沙汰致すべく候なり」と述べているのである(『鎌』二一九号文書)。しかもこの事例で注目されるのは、同じ九月、東大寺再建の勧進上人であった重源に対して、頼朝が「然る如きの家人をもって、国々行事として、催促せしめ候はゝ、□(諸)人の訴え出来か、この条は顧みるべからざるといえども、同じくは、院に申せしめ給て、仰せ下さるることなど候はば、宜しきか、先日、院より材木引きの間の事、仰せ合わされて候ひし間、公領ハ国司に付け、庄園ハ領家に付けて、御沙汰あるべきの由申せしめて候なり」と述べていることである(『鎌』二六一号文書)。つまり、ここでは勧進のために国々の行事として頼朝の家人を派遣することが要請されているのであり、そのような気分が支配層の中枢に近いところに存在していたことがわかるのである。「先日、院より材木引きの間の事、仰せ合わされて候ひし」という部分は、それが院の意思であった可能性さえも読み取れるであろう。
 私は、「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」なるものは、このような経過で頼朝の手中に入った、あるいはむしろ逆に頼朝に要請されるに至ったと考えるものである。それを規定した「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了」なる宣旨は、この宣旨の引用をふくむ摂津国における在庁についての言及をふくむ時政奉書が発せられた一一八七年(文治三)九月の直前、おそらくこの年の春頃以降に、いわゆる文治記録所の活動の初期に*43下達されたものであろう。この進退権なるものが、頼朝の下文発給権であるとすると、時期的には、それがふさわしい。
 ただ、よく知られているように、石井進は、この「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」なるものを問題の関東御教書*44において「国中の庄公下司・押領使の注文」の作成を命令する根拠が「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由」という宣旨に求められていることとの関係で論じた。つまり、石井進は、この宣旨が、一一八五年(文治一)の守護地頭「勅許」において同時に下されたとしてたのである。石井は、「頼朝は、その際(「文治勅許」の際)同時に国衙在庁に対する文書調進の命令権の獲得を公家政権に承認させることを忘れなかったのである」したのである。石井の議論は、すべてその想定のもとに組み立てられているのであるが、それはきわめて疑問が多い。つまり、まずこの「勅許」なるものが院宣によって行われたというすでに述べた事実からすろと、そういう「宣旨」が同時に下されたとすることはできない。そもそも、川合のいうように、幕府による諸国国衙の国務の掌握は、そのような法的手続きを超越して、むしろ内乱の時期に軍事的実力をもって実現されていた。そして、このとき何よりも問題であったのは、まずは「守護地頭」問題についての「勅許=院宣」を確保することであり、そのような状況の中であらかじめ時政に指示して「文書調進」に関する宣旨を忘れずに要求するということがあったとは思えない。そもそも石井の判断の背景には「文治勅許」以降、「頼朝はそのその(公家本所側の)圧力に一歩一歩妥協しながら後退を余儀なくされるにいたっていた」(石井『日本中世国家史の研究』一八四頁)という認識に立って、「宣旨」が「勅許」以降に下されることはありえないという判断がある。これは石母田が批判した妥協論そのものであってとても賛同しえない。
 むしろ「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了、(中略)、速やかに在庁官人に就き、国中の庄公下司・押領使の注文を召され、内裏守護以下の関東御役を充て催さるべく候」という文脈、「了、ー速やかに」という文脈からしてもこの宣旨は一一八七年(文治三)九月の直前に発布されたとすべきであろう。勿論このような宣旨の発給がこの時期に行われたという記事は『兼実日記』や『吾妻鏡』にはみえないが、すべての宣旨(特にこのような地方行政に関わるもの)が『兼実日記』『吾妻鏡』に載せられていたと考えることはできない。そして、私には時政が文治三年の段階で約一年一〇ヶ月前に発給された宣旨の解釈に基づいて政策的助言を行ったとは思えないのである。
 問題はほとんど状況判断に懸かってくるが、一国平均役以下の事業の推進者として幕府が登場し、それにともなって頼朝の下文が制度的に位置づけられるとともに、頼朝の家人が「国々行事」として活動することが期待されるほど御家人制が国家機構の一部に編成され、幕府による統治行政が京都側の容認の下に進展した段階で、一一八七年(文治三)にこの宣旨が発給されたという判断も成立しうるではないだろうか。石井が「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」なるものと「地頭に関する頼朝の権利」を統一的に理解するべきものである(『日本中世国家史の研究』三二六頁)として、「地頭に関する頼朝の権利」=「下地一向領掌」を「諸国在庁庄園下司惣押領使進退権」=「庄公下職等進退権」によって解説するというのは、初歩的研究としての意味はあるものの、「下地一向領掌」を土地所有・領有の問題としてとらえることをしない安直な制度史的発想にすぎなかったといわざるをえない。何度も述べたことであるが、この「宣旨」を「院宣」によって処置された「文治勅許」の不可欠の一部と考え、そしてその統治行政的内容によって「文治勅許」段階における「下地一向領掌」の内容を説明することは逆転した発想である。
 もとより、頼朝による諸国の統治行政権の掌握は内乱の最中から活発に進展したであろう。それが「文治勅許」の段階において実質的に強化されたことも疑いを入れない。しかし、二章で述べたように、このような統治権的な国衙権力への指示は、「文治勅許」において確認された頼朝の「日本国惣地頭」の地位に基づく国土高権自身とは区別される行政的な権限である。大田文の全国的調進、すなわち王権の国土高権を表現する「荘園整理令」に対応するレヴェルの地方土地行政への介入は、一一八七年(文治三)頃に発給されたと考えられる上記の宣旨を媒介として、最終的には本章のテーマとして解明してきた頼朝が主導した新制・建久新制における「保元已後新立庄々」に対する整理令を経て実現するに至ったのである。
Ⅳ展望にかえて
            ーー承久の乱と北条徳政
 最後に若干の見通しを述べておきたい。頼朝の死後、その子供頼家と実朝は、頼朝の「日本国惣守護・惣地頭」としての地位を保持した。しかし、そこに発生した代替り問題は王権におけるよりもさらに深刻なものとなった。その中で、頼家は頼朝の軍事的・専制的な体質を引き継ぎ(入間田宣夫「守護・地頭と領主制」)、実朝は頼朝の京都向けの徳政の顔を受け継ぎ、全体として頼朝の「日本国惣守護・惣地頭」としての「威権」は分裂の道を辿った。そして続く北条氏の覇権によって「日本国惣守護・惣地頭」の実像は闇に葬られることになったのである。
 示唆的なのは、頼家が危篤にあたって行った「御譲補沙汰」である。彼は、「関西三十八ケ国地頭職」を弟の千幡(実朝)に、「関東二十八ケ国地頭ならびに惣守護職」を長子一幡に譲った(『吾妻鏡』建仁三年八月二七日条)。今まで、この「関東二十八ケ国地頭ならびに惣守護職」は関東二十八ヶ国の地頭職と全国の惣守護職として理解されてきた。私はこの惣守護職は、東国惣守護職のみを意味した可能性が高いと考えているが、これについては別の機会に述べたい*45。ともあれ、この「御譲補沙汰」は正規のものとして行われ、譲状も作成されたことは確実である。そこには頼朝の残した「威権」としての「日本国惣地頭」を東国と西国で二分し、嫡子と叔父でそれを共同統治する構想が存在した。ここに西国管領の問題が国家支配の根本問題として登場したのである。この観点からいうと、いってみれば頼朝の国家構想は東国惣官職を固有の拠点とし、一度畿内・西国から公法的に撤退する姿勢を見せながら、実際には王家との婚姻関係を結び、天皇の「後見」王としての立場から京都に張り巡した人的紐帯を通じて全国に対する高権を確保しようとするものであったといえるだろう。だから、頼朝の構想が実現したとしても、おそかれはやかれこのような問題が発生したことは容易に想定できるのである*46。
 そもそも、このような西国問題が、二章で述べたような一一八六年(文治二)三月の時政による七ヶ国地頭職の返上から一一八六年(文治二)六月の「守護地頭停止」に至る過程で発生した畿内近国の高権的領有関係の特殊性に遠因することはことはいうまでもない。それは頼朝の国家構想においては大姫問題に関連していた。しかし、今回の頼家と実朝による国土の東西分割問題は、初期鎌倉権力における基底的な矛盾であった北条氏と比企氏、一章でいうところの「嫁路線」と「乳母路線」の対立に結び付いていたのである。ここに全ての炎環は閉じ、後から生まれたものたちに悲劇がふりかかる。結局この問題が頼家の伊豆押し込めと比企氏の討滅、頼家の嫡子・一幡の焼死を結果したのである。
 このような鎌倉における代替り問題の経過は、東国に発生したばかりの未熟な地方的貴族社会の一つの運命であったといえるかも知れない。これに対して、古代以来の爛熟した貴族社会に守られて代替り問題を乗り切った天皇制は、たとえば五味が「院が直接守護(惣追捕使)に命じて狼藉停止を行ったことは、当時西国の守護人の多くが在京御家人として京都におり」「院は幕府の西国における支配組織である守護をも自己の支配下に位置づけ、その支配権の行使にあたらせた」と述べているように(『院政期社会の研究』一六頁)、西国を独自な基盤として再編成することに成功した。周知のように承久の乱でほとんどの畿内近国守護が院側についたことは、その証明である。二章末尾で述べたように、一一八六年(文治二)六月の「守護地頭停止」は、守護・地頭の存在とそれに対して頼朝が一方の指揮権を握ることは前提としつつ、その指揮権の一方を院に対して譲ったものなのであり、それはいわば関東と院に二重帰属する武士を大量に生み出す結果となったのである。鎌倉初期の守護とは、このような人的関係の二重性の上に構想された曖昧な職であったというべきであろう。
 早く上横手が「乱の原因の一は御家人の二重の存在形態にあった」としているように(『鎌倉時代政治史研究』一九六頁)、結局のところ、それが承久の乱をもたらした。周知のように承久の乱は、一二一九年(承久一)一月の実朝の暗殺、同二月の後鳥羽皇子六条宮雅成親王または冷泉宮頼仁親王を将軍として迎えることを願う関東使者の発遣と「イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシオカンゾ」(『愚管抄』巻六)という後鳥羽の拒否、同じく二月の「東国管領宣旨」を期待した阿野時元の挙兵、六月の九条頼経の鎌倉下向、七月の大内守護源頼茂の追討という経過を経て、一二二一年(承久三)に勃発した。
 この承久の乱に幕府が勝利したことによって、事態は一変する。まず注目すべきなのは、乱の直後に設置された六波羅探題である。私は、これは実質上時政の「七ヶ国地頭兼惣追捕使」の系譜を受けるものであったと考える。ここに広域的国地頭の体制は畿内において復活したのである。石母田を初めとして、「国地頭は消滅する」(『著作集』第九巻、二〇六頁)、国地頭制度が廃絶したというのが、今までの基本的な捉え方であるが、むしろ六波羅の設置によって、時政の権限形式は再現したとすべきであろう。
 そして、一二二四年(元仁一)の北条義時の死、一二二五年(嘉禄一)の政子の死を経て、執権北条泰時は同年一〇月九日、将軍頼経の元服を前にして初めての武家新制を発布する。五味がいうように、これは事前に予め連絡をとって公家新制と同時に発布されたものであったと考えられ、その意味は大きい(五味「執事・執権・得宗」)。もとより、その新制は承久の乱によって後鳥羽とその系列の王が廃立される中で、一二二一年(承久三)、即位した後高倉院の子・後堀河とその子ども四条という新たな王統の新制と連動して展開したものである。しかし、この新制はすでに平安時代の新制とも、またその母斑を濃厚に残す頼朝の建久新制とも、歴史的段階を異にしている。それは平安末期の内乱を経過した領主諸階級の総体が広汎に参加する武家新制であり、北条徳政であったのである。
 一二二五年(嘉禄一)一〇月二九日の公家新制には、その三二条に「可停止自今以後新立荘園事」という条文がある(水戸部正男『公家新制の研究』一七九頁)。現在残されているのが事書のみであるために、その詳細な規定は不明であるが、「貞応以後新立と称し、東大寺ゝ務聖尋申せしむるの間、徳治の院宣に任せ、国衙に付けられ了(『鎌』二九二二〇号文書)、「そもそも橘嶋保の事、国衙の妨を停止すべきの庁宣、申し請ふべく候也、当保、貞応以後に立地せらるるにあらざるの条、宣旨以下分明に候といへども」(『鎌』二四〇六九号文書)などという形でしばしば史料に確認できる「貞応以後新立庄園整理令」がその実態なのではないだろうか。この整理令については、最近稲葉伸道が研究を行っており、貞応年間(一二二二年ー二四年)に「貞応ニ武蔵前司入道、日本国ノ大田文ヲ作テ庄郷ヲ分テ」(『太平記』巻三五)と伝えられていること、また貞応二年に二通の大田文が残されていることを指摘し、「貞応二年の大田文作成は幕府のみならず王朝にとっても、新しい国家秩序の出発点であった」と結論していることは極めて重大である(稲葉「鎌倉後期の『国衙興行』・『国衙勘落』」)。
 特にこれらの大田文は西国、石見国と淡路国のものであり、石見は石井進の分類では国衙型大田文ではあるが(『日本中世国家史の研究』一四〇頁)、文中に「守護所の沙汰」なる文言が見え(『鎌』三〇八〇号文書)、幕府の関与も明らかなのである(なお淡路は幕府型)。残されている限りでは、これ以前の大田文は九州三通と能登一通であり、このことは承久前の限界を越えて幕府が西国の大田文を握ったことを意味する可能性もあるだろう。一二二二年(貞応二)には、「一、新地頭補任の庄園公領、本地頭下司得分、御使の沙汰として注進せしむべき事」「一、未だ地頭を補せられざる没収の所々、御使の沙汰として注進すべき事」なる条文をもつ追加法が発布されており(『中世法制史料集』巻一、追加法五・六条)、そして石井進の有名な論文「平安・鎌倉政権下の安芸国衙」が指摘したように、「御使」の実例として泰時の「内管領」といわれる被官中の最有力者である平盛綱が「安芸国巡見使平三郎兵衛尉盛綱」として確認できるのである(『鎌』三〇六六号文書、なお石井『日本中世国家史の研究』一八七頁、川合「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」も参照)。また、伊予国の一三〇〇年(正安二)の相論文書によれば「貞応二年三月日近藤中務丞国盛田畠注進状」なるものが、該田地が「御家人役勤仕の地」であることを証明する文書の一通として提出されており(『鎌』二〇五八三号文書)、彼も御使として検田を行っていることが明らかである(なお彼はおそらく鎌倉殿御使として著名な近藤国平の近親・子孫であろう)。彼らが西国の大田文の作成と督促に大きな役割を果たしたことは確実であろう。
 なお、右の追加法が新地頭補任に関わるものであり、そこにいう「新地頭補任の庄園公領」の調査は在地の権利関係に関わるものであって、それが直接に大田文の作成に連動していたと結論するべきではないという意見もあろう。しかし、石井が「いわゆる地頭の新補率法とそれがどの地頭に適用されるかという決定は、まったくこの御使の注進報告の結果によった」ものであるとしたように、御使自身が新補率法に関わっていることは確実である(石井『日本中世国家史の研究』一八七頁)。そしてで触れたように、収納物の率法を変化させることは、平安時代以来、新制の重要な側面であったのであって(保立「中世前期の沽価法と新制」)、実際に一二二三年(貞応二)の新補率法もまずは宣旨(「制符」)によって指示されたものであった(『中世法制史料集』巻一、追加法九条)。それを単に在地的あるいは武家独自の問題と処理することはできないのである。そもそも追加法が貞応から始まったこと自体、幕府が新制・徳政に対する法意識をシステムとして飛躍的に強化したことを示すのではないかというのが、私の想定である。
 ようするに、嘉禄新制は承久の乱の戦後処理や没官・新補地頭補任などと関係して、貞応以来、すべて武家側で準備され、その上に出されたものとして画期的なものなのである。それは鎌倉幕府による国土高権と統治権の再確認の意味をもったといってよいだろう。そしてそれは意外な影響力を有していた。まず、岸田裕之によれば、室町期の瀬戸内海地域の検注帳類に現れる「貞応」とは貞応の大田文にもとづく公田のことを意味するということであり(岸田『大名領国制の構成的展開』一九六頁)、貞応年間における大田文作成は後々までを規定するものだったのである。さらに示唆的なのは、いわゆる「廻船式目」の日付が「貞応二年三月十六日」で統一されていることである(『鎌』三〇六八号文書)。そこに何らかの意味が仮託されていることは確実であり、少なくとも大田文において「浦」が独自の扱いを受けていたという海老沢衷の見解との関係を想定することは許されるだろう(海老沢「若狭国惣田数帳における『浦』について」)。
 さて、後堀河の王統は幕府によって擁立された初めての王統である。この王統は後堀河が二三歳で一二三四年(文暦一)に死去し、四条は一二四二年(仁治三)に死去したため大きな影響を残さなかったが、北条氏権力の展開にとっては大きな意味をもったのである。この王統自身をさらに分析すること、そしてこの王統の断絶と後嵯峨の即位が、鎌倉政治史の大きな展開となった事情を究明することは全く新たな課題である。

本章文献目録
 以下に本論文中で引用した文献の目録をかかげる。なお、著書に収められた論文についてはかならずしも論文名をかかげなかったが、その場合も基本的には本文中の注記でページ数をかかげてある(研究者名のアイウエオ順)。
                 
青山幹哉「鎌倉将軍の三つの姓」、『年報中世史研究』一三号、一九八八年
浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』、法政大学出版局、一九八一年
石井紫郎『日本人の国家生活』東京大学出版会、一九八六年
石井進「平安・鎌倉政権下の安芸国衙」、『石井進著作集』第三巻(岩波書店)、初出一九六一年
石井進『鎌倉幕府』、『日本の歴史⑦』、中央公論社、一九六五年
   「鎌倉幕府論」、『石井進著作集』第二巻、初出一九六二年
   『日本中世国家史の研究』(『石井進著作集』第一巻)、岩波書店、初出一九七〇年
  「平家没官領と鎌倉幕府」、『石井進著作集』第二巻、初出一九七七年
  「義江著書書評」、『史学雑誌』八九編六号、一九八〇年
   「院政」、『石井進著作集』第三巻、初出一九八四年
  『鎌倉武士の実像』、『石井進著作集』第三巻、初出一九八七年
   「比企一族と信濃、そして北陸道」、『石井進著作集』第五巻、初出一九九〇年
石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』(増補版)、創文社、一九七二年
石母田正『石母田正著作集 第六巻 古代末期の政治過程および政治形態』、岩波書店
    『石母田正著作集 第八巻 古代法と中世法』、岩波書店
    『石母田正著作集 第九巻 中世国家成立史の研究』、岩波書店
稲葉伸道「鎌倉後期の『国衙興行』・『国衙勘落』」、『名古屋大学文学部研究論集』一一〇、史学三七、一九九一年三月
井原今朝男「中世国家の儀礼と国役・公事」『日本中世の国政と家政』校倉書房、初出一九八七年
入間田宣夫「鎌倉幕府と奥羽両国」『中世奥羽の世界』東京大学出版会、一九七八年
   「守護・地頭と領主制」、『講座日本歴史③中世①』(歴史学研究会、日本史研究会編)、東京大学出版会、一九八四年
   『百姓申状と起請文の世界』、東京大学出版会、一九八六年
  「日本将軍と朝日将軍」、『中世武士団の自己認識』三弥井書店、初出一九九〇年
 「鎌倉幕府はいつ、いかにして成立したか」、前掲『中世武士団の自己認識』、初出一九九一年
上横手雅敬『日本中世政治史研究』、塙書房、一九七〇年
   『鎌倉時代政治史研究』、吉川弘文館、一九九一年
   「院政期の源氏」、『御家人制の研究』、吉川弘文館、一九八一年
海老沢衷「荘園公領制における浦」(原題「若狭国惣田数帳における『浦』について」)『荘園公領制と中世村落』校倉書房、初出一九八〇年
遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」、『松浦藩と松前』九号、一九七六年五月
大石直正「外が浜・夷島考」『中世北方の政治と社会』校倉書房、初出一九八〇年
大山喬平「没官領・謀反人跡地頭の成立」『史林』五八巻六号、一九七五年
  「文治国地頭の三つの権限について」『日本史研究』一五八号、一九七五年
「文治国地頭の停廃をめぐって」、『日本史論叢』(横田健一先生還暦記念会編)一九七六年
同   「鎮西地頭の成敗権」『史林』六一巻一号、一九七八年
同  「平家没官領と国地頭をめぐる若干の問題」、『日本史研究』一八九号、一九七八年
同   『日本中世農村史の研究』、岩波書店、一九七八年
同   「文治国地頭をめぐる源頼朝と北条時政の相剋」、『京都大学文学部研究紀要』二一号、一九八二年
奥田環「九条兼実と意見封事」、『川村学園女子大学研究紀要』一号、一九九〇年三月
笠松宏至『日本中世法史論』、東京大学出版会、一九七九年
    「安堵の機能」(「中世の安堵」を改題)『中世人との対話』東京大学出版会、初出一九八六年
川合康「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」『鎌倉幕府成立史の研究』校倉書房、初出一九八五年、
「鎌倉幕府荘郷地頭制の成立とその歴史的性格」『鎌倉幕府成立史の研究』、初出一九八六年
「荘郷地頭職の展開をめぐる鎌倉幕府と公家政権」『鎌倉幕府成立史の研究』初出一九八六年
同「奥州合戦ノート」『鎌倉幕府成立史の研究』、初出一九八九年
同「治承・寿永の『戦争』と鎌倉幕府」『鎌倉幕府成立史の研究』、初出一九九一年
菊池武雄「日本の『告書』について」、『東京大学史料編纂所報』一三号、一九八年
岸田裕之『大名領国制の構成的展開』吉川弘文館。一九八三年
工藤勝彦「鎌倉幕府による安堵の成立と整備」、『古文書研究』二九号、一九八八年
黒川高明『源頼朝文書の研究』吉川弘文館、一九八八年
黒川高明「源頼朝の裏花押文書について」、『中世古文書の世界』、吉川弘文館、一九九一年
黒田俊雄「中世国家と神国思想」『黒田俊雄著作集』第四巻、法蔵館
 「鎌倉幕府論覚書」『黒田俊雄著作集』第一巻、法蔵館
河内祥輔『頼朝の時代  一一八〇年代内乱史』、平凡社、一九九〇年。
河野房雄『平安末期政治史研究』、東京堂出版、一九七九年
五味文彦「平氏軍制の諸段階」、『史学雑誌』八八編八号、一九七九年八月
五味『院政期社会の研究』、山川出版社、一九八四年
五味文彦『平家物語 史と説話』、平凡社、一九八七年
五味「執事・執権・得宗」、『中世の人と政治』、吉川弘文館、一九八八年
五味「武家政権と荘園制」、『講座日本荘園史②、荘園の成立と領有』、吉川弘文館、一九九一年
佐々木文昭「公家新制についての一考察」、『北大史学』一九号、一九七九年九月
佐々木馨『中世国家の宗教構造』、吉川弘文館、一九八八年
佐々木「中世北辺の仏教」、『北日本中世史の研究』、吉川弘文館、一九九〇年
佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』、東京大学出版会、一九七一年
佐藤『日本の中世国家』、岩波書店、一九八三年
佐藤進一『日本中世史論集』、岩波書店、一九九〇年
佐藤進一「幕府論」(『日本中世史論集』所収、初出一九四九年)
三田武繁「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」、『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、初出一九九一年
杉橋隆夫「鎌倉初期の公武関係」、『史林』五四巻六号、一九七一年一一月
杉橋隆夫「鎌倉前期政治権力の諸段階」、日本史研究一三一号、一九七三年
杉橋隆夫「鎌倉右大将家と征夷大将軍」、『立命館史学』四号、一九八三年六月
多賀宗準「平清盛と富士」『日本歴史』五一三号、一九九一年
高橋富雄「地頭の下地領掌権」、『歴史』第九輯(東北大学史学会)、一九五五年三月
高橋昌明「文治国地頭研究の現状にかんする覚え書」、『日本史研究』二〇八号、一九七九年一二月
田中稔『鎌倉幕府御家人制度の研究』、吉川弘文館、一九九一年
角田文衛『待賢門院璋子の生涯 椒庭秘抄』、朝日新聞社(朝日選書)、一九八五年
戸田芳実『日本領主制成立史の研究』、岩波書店、一九六九年
戸田芳実『シンポジウム日本歴史⑥、荘園制』、学生社、一九七三年
外岡龍二「伊豆の製鉄関係遺跡ーー主として南伊豆を中心に」、『歴史手帖』十一巻二号、一九八三年
永井路子『北条政子』文藝春秋社(文春文庫)、一九九〇年
中田薫『法制史論集』第二巻、岩波書店、一九八三年
貫達人「後白河院と源平二氏」『日本人物史大系一 古代』朝倉書店、一九六一年
野口実『坂東武士団の成立と発展」、弘生書林、一九八二年
羽下徳彦「石母田氏『文治二年の守護制度停止についてー『吾妻鏡』の本文批判の試み(その二)」を読んで」)、『中世の窓』第一号、一九五九年
  「以仁王『令旨』試考」『豊田武博士古稀記念 日本中世の政治と文化』、吉川弘文館、一九八〇年
平泉澄「守護地頭に関する新説の根本的誤謬」(『史学雑誌』三四ー一、一九二二年
平岡豊「後鳥羽院西面について」『日本史研究』三一六号、一九八八年
平岡豊「藤原秀康について」、『日本歴史』五一六号、一九九一年
平田俊春『私撰国史の批判的研究』、一九八三年、国書刊行会。
   「文治勅許の守護の再検討」『日本歴史』四五九号、一九八六年
福田豊彦「室町幕府の御家人と御家人制」『御家人制の研究』吉川弘文館、一九八一年
星野恒「守護地頭考」『史学叢説』冨山房、一九〇九年
保立道久「律令制支配と都鄙交通」、『歴史学研究』四六八号、一九七九年
   「中世における山野河海の領有と支配」、本書第二章、初出一九八七年
  「町の中世的展開と支配」、『日本都市史入門Ⅱ、町』、東京大学出版会、一九九〇年
  「平安時代の王統と血」、『天皇制』(別冊『文芸』)、一九九〇年
  「中世の諸身分と天皇」(講座『前近代の天皇』青木書店一九九三年)
   「中世前期の沽価法と新制」『歴史学研究』六八七号、一九九六年
 「藤原教通と武家源氏」『古事談を読み解く』笠間書院二〇〇八年
 『義経の登場』NHK出版、二〇〇四年
牧健二『日本封建制度成立史』、弘文堂書房、一九四一年
牧「書評、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』」、『法制史研究十』、一九六〇年
水戸部正男『公家新制の研究』、創文社、一九六一年
義江彰夫『鎌倉幕府地頭職成立史の研究』、東京大学出版会、一九七八年
義江彰夫『鎌倉幕府守護職成立史の研究』吉川弘文館、二〇〇九年
義江「院政期の没官と過料」、『奈良平安時代史論集』下巻、吉川弘文館、一九七七年
安田元久など座談会「いわゆる『文治の勅許』について」(『日本歴史』一五八、一五九、一六一号,一九六一年)。『石井進著作集』第二巻(岩波書店)に収録されている。
安田元久『地頭及び地頭領主制の研究』、吉川弘文館、一九六一年
    『日本初期封建制の基礎研究』、山川出版社、一九七六年
龍粛『平安時代』春秋社、一九六二年
  『鎌倉時代』上巻、春秋社、一九五七年  
*1石母田の「文治守護・地頭」論争関係の論文は、最近、『石母田正著作集 第九巻 中世国家成立史の研究』にまとめられた。本稿は、これによって初めて石母田の全関係論文を読んだ経験から出発している。石母田の守護地頭問題に関する仕事の意味については、著作集本巻の懇切な解題(石井進)を是非参照されたい。石母田はこの仕事を完成することはできなかったが、解題に収録された「頼朝の皇室尊崇(ーーイデオロギー)。制度・法に客観的に表現されたもので、そのイデオロギーをとらえるべきだ」などの石母田の構想を示すメモの意味は大きい。
*2川合康「鎌倉幕府庄郷地頭職の展開に関する一考察」、「鎌倉幕府庄郷地頭制の成立とその歴史的性格」、「庄郷地頭職の展開をめぐる鎌倉幕府と公家政権」、「奥州合戦ノート」、「治承・寿永の『戦争』と鎌倉幕府」。川合の構想の全貌は最後の論文で提示されているが、それは内乱期軍事史を、その物質的基礎から明らかにする方向を示した点で画期的なものである。
*3「文治の守護・地頭問題の基礎的考察」。本稿は「一国地頭」論の批判という視角を、三田の論文によって確保した点から出発しているが、しかし、本質的に「国地頭」はより広域的な複数性をもつという結論は、結果的に三田の論文の逆をいくこととなった。
*4河内祥輔『頼朝の時代  一一八〇年代内乱史』。史料を可能な限り即物的に読もうという河内の姿勢には学ぶところが大きい。王権・後白河を中心的視野に入れて全国的な内乱軍事史を戦略論的な立場から把握する筋を通した点を評価したい。河内の仕事の方法的特徴は、古代史家らしく王朝の古代的秩序を強調するところにあり、平安時代史との巨視的な比較に優れている。しかし、河内が内乱以前の国家・社会を古代的なものとするのは、「中世的とは戦場を死に場所と心得るような合戦の仕方をいう」(二八㌻)という観点にも関係しているといえようが、私にはとても賛成できない。社会・国家の軍事化の形態と社会構成史上の問題は等置できないはずである。
*5【追記】ここで「没概念で事大主義的な史観に対する石母田の批判」としたのは、石母田が論文「鎌倉政権の成立過程について」(『石母田正著作集』第八巻)において「この見解は中央国家または公家法による『承認』の有無が、『私権』と『公権』をわける基準になっている。この考え方は鎌倉政権の確立過程を、主として『幕府』のーーそれは多かれ少なかれ公家法との関連をもつ制度であるーー成立時期に解消する傾向となって、伝統的に強く存在した。(中略)牧健二氏が、日本封建制度の特色となす『委任封建制度』の理論によって、八五(文治元)年の守護地頭設置の『勅許』をもって幕府の成立とみた見解は、その典型的なものである。これらの考え方のなかに一貫しているものは、公権=公法的存在は、旧権力の承認によるものであって、それが欠けている状態にある権力は『私権』であるという思想である」とした一節である。いちおう石母田が批判した牧の主張の中心部分を引用しておくと、牧の『日本封建制度成立史』には、「我国で委任制封建制度とも言うばきものが成立したことは、まったく日本の特殊なる国体によるものであって、皇位の神権的並に族長的尊厳に基づき、其神聖不可侵の光彩が実は此時に発揮せられた。武家時代を以て国体の暗黒時代の如く言ったのは、王政復古時代の思想である。日本国体論は史実を直視して為さるべきである」とある。ここにはファシズム天皇制段階にふさわしい「国体論」を作って世に迎合しようという牧の姿勢が露骨に現れている。なお、石母田は批判をさけているが、これは中田薫も同じことであって、その有名な論文「鎌倉時代の地頭職は官職に非ず」において、中田は「頼朝は其名義は一朝官に過ぎずと雖、其実は天皇と相対したる第二の主権者に外ならざるなり。朝廷は頼朝に対して六十六ヶ国の守護権を委任したるなり。頼朝は身已に六十六ヶ国の守護権を委任されたり。故に自家の御家人を各地の守護に補任して、以て自己が朝廷に依て委任されたる守護の職務を分掌せしめたるなり。然れどもこれが為めに頼朝自ら六十六ヶ国の守護たるの権を失わざること、猶日本帝国が伊藤侯爵を統監に任命したることに依て、自ら韓国外交権の主体たることを失わざると同一なり」などと述べている。中田の理解は頼朝に法論理において主権を認める点において正当な点をもっているが、しかし、中田も、その実を委任に求めていることは明らかであり、さらには帝国的外交と国家主権問題を偏見にみち没概念な法形式論をもってアナロジーする点で、その議論も本質的には牧と変わらない通俗性をもっている。
 川合は二〇〇四年にまとめた著書『鎌倉幕府成立史の研究』の序章において、公権委譲論を批判しつつ、「いま重要なことは、まずは鎌倉幕府権力それ自体の実質的形成について解明することであろう。かって石母田正氏が『国家権力の問題がもっとも典型的に提起されているこのような歴史的時期の研究が、公権対私権という形式的抽象的な概念によって処理されてきたために、内容的歴史的研究がおろそかにされてきた』と指摘された状況はいまだに克服できていないと考える」と述べている。川合は、この点で「石母田の批判を正当に受け継い」でいるのであるが、ただ、川合の議論には、実際上、石母田の議論をふくめて、これまでの研究全体を「もっぱら朝廷からの公権委譲を重視して、公武交渉の過程を詳細に検討し、精緻な議論を積み重ねてきている」(一二頁)と総括するかのようなニュアンスがある。つまり、この石母田の論文は佐藤進一の見解を前提として牧健二や龍粛の議論を批判するという構成をとっているが、川合は牧・龍と佐藤の見解を区別せず、それ故に、佐藤の東国政権論を前提として展開された石母田の見解をも実際上は牧らの見解と同様の限界をもつものとしているようにみえる。この点で、川合が牧批判にふみこんで、石母田の公権委譲論批判の意味に言及していないことには若干の違和感がある。そもそも、石母田の牧の委任封建制論に対する批判は、右に引用した部分でも牧が「皇位の族長的尊厳」としていることからもわかるように、氏族関係、同族関係の優越を「日本封建制」の特徴とする議論に対する批判を含んでいた(『中世的世界の形成』)。川合の仕事の意味は大きく、石母田・佐藤の見解に、様々な限界があることはあきらかであるが、それだけに石母田・佐藤の学史的な意味が曖昧になっている部分もあるように思うので、以上、やや詳しく述べた。
*6以仁王令旨については参照、羽下徳彦「以仁王『令旨』試考」
*7蒲屋御厨は伊豆の南東部、相模湾に面する小平野に位置する伊勢神宮領の御厨で、伊勢大神宮神領注文(『鎌』六一四号文書)によると「上分鍬五十勾、起請雑用料百勾」、計一五〇勾の鍬を供祭物とする製鉄を行う御厨であった。外岡龍二「伊豆の製鉄関係遺跡」によると、伊豆南部は砂鉄採取による製鉄地帯であり、蒲屋御厨内にも田牛金草原などの有力な製鉄遺跡が存在している。文献史料でも平安時代には伊勢造宮に関係して伊豆国所課の鍬が見え(『中右記』寛治八年八月二日条、嘉保二年一二月四日条)、鎌倉時代に入っても伊豆国に対して斎宮寮が納物として鍬を請求したことが見える(伊豆守親盛請文案、『鎌』六四七四号文書)。この鍬が伊豆南部の産出にかかるものであったことは明瞭である。関東南部および東海地方における鉄材の供給のあり方の実際について知識はないが、おそらく伊豆国は、相模国・駿河国などに鉄・鍬を供給していたのではないだろうか。
 本文で触れたように、蒲屋御厨内には鯉名泊が存在したと思われ、その鉄材はその港から搬出されたであろう。それに関わる国衙関係の製鉄・鋳物師工房や港湾施設が存在した可能性も高い。このような南伊豆の中心地帯であったそのために目代の親戚の史大夫・知親が館を構えていたのである。なお、五味文彦は、山木兼隆が「目代を中心に営まれる伊豆一宮三島者の祭日」に参向していない点から、兼隆が伊豆国目代であったという通説に疑問を呈し、むしろ、この知親こそが伊豆国目代であったとしている(同『鎌倉と京』七二頁)。たしかに兼隆が目代であったという『平家物語』の記事(および『曽我物語』の記事)を疑うことはできるが、しかし、知親が蒲屋御厨にいたという『吾妻鏡』の地の文を疑う根拠もなく、知親が目代であったという仮定は、兼隆の場合と同じ難点がある。むしろ、知親は上記のような意味で伊豆国南部の支配者、目代というならば半国目代であったと考えたい。また、五味は『本朝世紀』久安二年(一一四六)の記事にみえる「右少史中原知親(文章生)」、また『十訓抄』の「長面の進士」知親が、この知親にあたるとするが、そう断定できるかどうかは保留したい。さらに河内祥輔はこの下文発給の事情として「おそらくこのとき参集した武士の中に、蒲屋御厨に利害をもつ者が存在したのであろう。逃亡しかない彼らにとって無用の文書にもみえるが、だからこそ心の慰みが必要であったともいえる」とするが(『頼朝の時代』二三五頁)、そのような消極的な評価には賛成できない。
*8ただ、河内祥輔がこの「諸国の使節」を東海・東山・北陸の三道全体の「諸国の使節」という意味に限定しているかに思えることには必ずしも従えない。以仁王の令旨は諸国あるいは諸国の源氏群兵に対する宣という形を取り、また一般的に「勝功あるにおいてはまず諸国の使節に預かり」と述べているのであって、それが三道諸国全体を統括する使節であると限定している訳ではない。それは道単位の使節から国単位の使節に至るまでさまざまな場合を許す表現であったとするべきである。
*9旗の蝉本に文書を付すことについては、参照、保立「律令制支配と都鄙交通」。
*10この文書は大庭御厨と鎌倉郡の境界争いに義朝が介入したことを示すものであるが、そこに「国役を御厨田に伐り充て、御厨田を宮寺浮免に曳き成し」とされていることは興味深い。関連文書には「義朝、字鎌倉の楯(たて)を伝得すと称し、居住せしむる間」とあり、義朝が鎌倉に入部して「館」(たて)を構えていたことが知られるが(『平』二五四四文書)、この「宮寺浮免」の存在は、石清水八幡宮の別宮が、この段階で鎌倉に存在していたこと、そして義朝がその経営に努めていたことを示す。頼朝の鎌倉入部と鶴岡の経営が、義朝の跡を追う一体のものであったことも明らかである。
*11ただし常胤は一一九一年(建久二)に垸飯沙汰人となっている。なお、千葉氏と正月椀飯の儀式との係わりを語る史料としては、常胤の曾孫・胤綱と三浦義村との間の座次相論が有名である。『古今著聞集』(巻一五)によれば、和田合戦の後の正月朔日の椀飯の際、千葉介胤綱が座上に座っている三浦介義村のさらに上に座ろうとして、「下総犬はふしどをしらぬぞとよ」と罵られ、「三浦犬は友を食らふ也」と罵り返したという。これが和田義盛を裏切った義村に対比して、広常誅殺後の冷遇を甘受した千葉氏の誇りを物語るものであり、そして胤綱の意識の中に初代の椀飯沙汰人・常胤の正嫡であるという意識が存在したことも明らかであろう。初期の鎌倉幕府政治史を北条と比企の対立を軸に捉えるべきことは先述の通りであるが、その対立は、さらに千葉・三浦の対立のようなおそらく平安時代以来の関東の豪族的武士団相互の競合関係の上に展開していたのである。このような平安時代以来の脈絡を前提とすると、いわゆる宝治合戦が画期的であったのは、三浦泰村と千葉秀胤が名越氏を担いで北条得宗に対抗し、両者に壊滅的打撃が加えられた点にあるのではないだろうか。
*12この観点からいって興味深いのは、上横手が「肉親への酷薄を非難される頼朝も、同母の弟妹や、外家である(熱田)大宮司家には、こまやかな愛情を示している」としていることである(上横手「院政期の源氏」)。ここではさらに、頼朝の人間的性格を示す挿話として、佐竹義政の誅殺(『吾妻鏡』治承四年一一月四日条)や一条忠頼の誅殺(『吾妻鏡』元暦一年六月一六・一七日条)などの際のだまし打ちの問題に注意しておきたい。特に一条忠頼の場合は、その場で誤って同士討ちをした鮫嶋四郎を「御前に召し、右手の指を切らしめ給ふ」という処置を加えている。それは典型的な反映刑の形式であり、武士のヤクザ的本質及び内乱期に顕著な騙し討の問題(石井『日本人の国家生活』五三頁)からいって当然であるとはいえ、やはり、頼朝の性格に、前近代の支配層にしばしば見られる異様性の肥大化を感じざるをえない。
*13この「ともし候へば」が「ともすれば」の丁寧表現であることは、上横手『鎌倉時代政治史研究』(一六三頁)を参照。
*14以下「後白河」という場合、それは個人としての後白河に関するものでなく、後白河の代表するシステム、院近臣や廷臣組織全体を表現する場合がある。個人としての後白河は「無能無見識な人物」であって買いかぶってはならない(貫達人「後白河院と源平二氏」、また河内『古代政治史における天皇制の論理』二五七・八頁)。
*15この点もこれまで十分注目されてこなかったが、この問題が奥州合戦の底流として続くのである。これについては『兼実日記』文治三年九月二九日条を参照。また「貢馬・貢金」の問題の全般について、遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」を参照。
*16なお、石井の掲げた史料の他、最近紹介された「医心方裏文書」(『加能史料研究』4号、第二三・二四号文書)にも、この勧農使の存在は確認され、院政期以降の国衙支配の中で、特任使節としての勧農使が活躍していたことは、いよいよ明瞭となった。
*17【追記】「守護――追捕」は一種の対語となっており、「守護」は「追捕」という軍事警察行動に対して、逆に組織を防衛する側面をも表示する。私は、そのなかで多様な諸要素が守護という職能によって表現されることになると考えている。しかし、守護論については、義江彰夫『鎌倉幕府守護職成立史の研究』(吉川弘文館、二〇〇九年)が発刊され、国家論・制度論的にも全体的な展望が可能になり、研究状況が大きく変わっている。現在の私見は本書第四章「院政期東国と流人・源頼朝の位置」の末尾で若干述べたが、当面、それ以上言及する用意はない。
*18この部分を『吾妻鏡』(国史大系本)は「今度、支配せらるる国々の精兵の中」と返り点を付すが、本文のように読みたい。また安田『地頭及び地頭領主制の研究』(一七六頁)は、この「支配」をガヴァーンという意味での支配ととっているが従えない。
*19頼朝は「諸国平均に守護・地頭を補任」することを要求したのであるが、この時要求した「諸国」の範囲が具体的には畿内近国・西国であったことは石母田の述べる通りである(『著作集』九巻、一九七頁)。しかし、石母田はそれをもって頼朝の「日本国惣地頭」への「補任」は一一九〇年(建久一)の頼朝の上洛の時であるとする(『同』二〇二頁)。しかし、東国における惣地頭職が「東海道惣官職」の一部をなす権限として単に事実上でなく法的・国家的に存在していた以上、一一八五年(文治一)に頼朝が「日本国惣地頭」に「補任」されたと考えて何の問題もないし、その方が二章で検討する「文治勅許」全体の史料及び三章で検討する政治過程とも整合的である。
*20なお天野遠景については、その出自を三章で触れる輔仁親王の流れに求める興味深い伝承がある。『姓氏家系大辞典』によれば、「天野系図」(別本)には「後三条院第三子輔仁親王の後」、その子供中将、少将の子供とし、三河国の天野氏は「後三条院の皇子、輔仁親王三代の後胤」とし、『系図纂要』(別巻一、後三条源氏・天野)は、輔仁親王ー花園左大臣源有仁ー「良仁」ー遠景という系譜を掲げる。これをそのまま事実とすることはできないだろうが、遠景の特殊な地位の説明としてこれが適合的であったことは、三章でみる輔仁親王の問題が鎌倉期の武士にとって重要な意味をもっていたことの傍証たりうるであろう。
*21『吾妻鏡』同日条にはさらに(摂津国)今南庄がでる。今南庄と石負庄についてはすでに『吾妻鏡』文治二年三月二日条に院宣によって兵糧米賦課を停止する時政下文が発給されていたことが記されている。両荘は長講堂領であり(『国史大辞典』長講堂領の項、奥野高広執筆)、その関係から弓削杣も長講堂領であるとしなければならない。そして、長講堂領目録(応永二〇年、『京都御所東山御文庫記録』甲一〇八)によれば丹波国弓削庄は「年貢七八寸木二百支、椙大槫二千寸」を負担しており、杣としての実質をもっていたから、『吾妻鏡』の「弓削杣」とは丹波国弓削庄を意味する。すると、『吾妻鏡』文治二年二月二一日条にいう「弓削庄兵糧米」に関する記事も同じ兵糧米賦課事件に関わるものであることになるが、そこに時政が「沙汰の者を召し問い言上せしむべきの由、今日請文を進めらる」とあることからすると、時政は沙汰人を統括する位置にあったことは明らかである。そこで本文のように考えた。
*22【追記】川合康は、「(塙保己一は)頼朝の日本国総追捕使補任の事実を否定している。筆者もこれらの官職は実在したものではなく、反乱軍の軍事体制から形成された荘郷地頭制を、王朝国家の秩序から説明する観念として広まったものと理解している。つまり、ここには鎌倉幕府権力の形成を官職補任という公権委譲からとらえようとする発想が示されているのであり、公権委譲論は鎌倉期の公武権力にとって適合的な観念として、すでに鎌倉前期、承久の乱前後から存在したのである」(『鎌倉幕府成立史の研究』序章一七頁)と論じている。川合の見解で問題なのは、「日本国総追捕使」などの職名を「官職」の名称であるととらえることである。川合はそれが頼朝の身に付着した個人的「威権」・カリスマ・国制身分であった可能性を最初から排除している。石母田正はこの地位を「鎌倉殿としての地位そのものに附属し、かつ世襲さるべき性質のもの」(著作集第八巻、二〇三頁)と論じている。つまり石母田は、この地位を単純な「官職」と理解していなかったのである。これに対して、川合は、「日本国惣地頭」「日本国惣追捕使」などの地位を「官職」であるとし、しかもそれが事実として存在したことを承認する見解そのものを牧健二が論ずる意味での「公権委譲論」と等置してしまう。ここには若干の問題がある。
 なお、川合は「日本国惣地頭」という「観念」の形成を右に引用した著書序章の一節が示すように「承久の乱前後」と措定している。しかし、頼家危篤の際の一二〇三年(建仁三)の史料に、この観念は明瞭に登場しているというのが中田薫・石母田の立論である。川合は、それを具体的に批判することなく、「日本国惣地頭職というものが意識されることがあったことを示しているが、それが(中略)明瞭にあらわれているのは、承久四年(一二二二)一月日『僧蓮慶譲状案』である」とするのみである。これは中田・石母田説に対する史料にそくした批判になっていないと思う。
*23論争史については、高橋昌明「文治国地頭研究の現状に関する覚え書」、関幸彦『研究史地頭』を参照されたい。
*24平泉は「吾妻鏡十二月二十一日の条の記事を以てその院宣が鎌倉に到着したことを意味するものと解し」と述べ、高橋は『吾妻鏡』一二月二一日条の一節を「勅(おそらく院宣)の内容記録」であると述べ、また最近の指摘としては平田も「十二月六日にようやく勅許の院宣が下された」(「文治勅許の守護の再検討」)としている。しかし、そこではこう述べられているだけで、特に院宣その根拠と意味は示されていなかった。さらに、
*25なお、牧健二は、問題の文章は頼朝に対して最高敬語を使用している点からみて宣旨の原文ではなく、それは「地の文」であるとしている(牧「書評、石井良助『大化改新と鎌倉幕府の成立』」)。この文章はその書状用語からして宣旨の文章でないことは、その通りであるが、しかし、だからといって、それをすぐに「地の文」ということはできない。
*26この点については笠松宏至の教示をえた。なお、石井進も『吾妻鏡』寿永三年四月六日条所載の池大納言家沙汰所領注文にふれて『吾妻鏡』においては「云々」という用語は引用符として使用されるのが最も普通であると述べているが(「平家没官領と鎌倉幕府」)、その論文の末尾注記によると、石井の見解も笠松との討論による部分があったらしい。
*27佐藤進一は「この文書は綸旨の文言そのままの写しというので適当である.だから一般的な場合のように説明の文言がないからそれだけであやふやなものだと否定することはできない」としたという(笠松宏至による紹介。安田元久など座談会「いわゆる『文治の勅許』について」(『日本歴史』一五八、一五九、一六一号,一九六一年)。
*28なお、大胆な想定であるが、この院宣の奉者は高階泰経であった可能性もあると思う。もちろん、彼は義経問題での自己の立場を陳弁した書状に対する頼朝の一一月一五日付けの返報(『吾妻鏡』同日条、京都には一一月二五日到着[『兼実日記』同日条])で「日本第一大天狗」と罵られた直後であって(河内『頼朝の時代』二〇一頁)、『吾妻鏡』によれば泰経はこの一一月二六日に院の「勅定」により篭居している。彼が院宣の奉者になることは普通に考えればありえないことかもしれないが、しかし、この院宣の中心問題は没官領に関する事柄であった。彼が後白河の下で没官領問題を扱っていたのは、本文でも触れた『延慶本平家物語』所載の一一八四年(寿永三)三月の院宣から明らかである。そして、河内が注目したように、一二月六日院宣の状況把握は右の院宣の状況把握と整合的であり、用語まで相似している(河内『頼朝の時代』一八三頁)。また『兼実日記』文治一年一二月三日条には泰経が陳謝のために「来る七日、関東に向かうべし」という噂が記されており、四日には院使が頼朝の返札を院にもたらし、「院中、頗る安堵、その状、和顔の趣あり」と伝えられているから(『兼実日記』文治一年一二月四日条)、院の籠居の「勅定」なるものがどれほど真剣なものであったか疑わしいと思う。『吾妻鏡』の一二月二一日条が「説明の文言」がなく、不体裁のままになった理由はわからないが、あるいはこの院宣の執筆者の問題に関わるのかもしれないと想像している。
*29なお、石母田正は日本国惣地頭の地位は、一一九〇年(建久一)のことであるとする。これについては石井進「文治守護地頭試論」がいうように、やはり一一八五年のことであると考える。
*30このような地頭領主制の前提を大山が平安時代から想定していることは大山『日本中世農村史の研究』(五三頁)を参照。
*31【追記】本節および次節は、本書第三部「土地範疇と地頭領主権」、付論「網野善彦氏の無縁論と社会構成史研究」などの論述にあわせて再構成しなおした。ただし、論述と論理の再整理・再検討は行ったが、基本的な事実や史料解釈は変更していない。
*32【追記】保立「中世の諸身分と天皇」(講座『前近代の天皇』青木書店一九九三年)
*33石母田は「又」以下の広元に関する記事を一種の挿入句と理解した。そして広元の京都到着が七月一二日であることから、六月二一日に鎌倉を出発していることは疑わしいとして、この「守護地頭停止」を記した『吾妻鏡』の地の文の史料価値を疑う。たしかに、広元の鎌倉出発が六月二一日であるということは考えられない。しかし、『吾妻鏡』は別に広元の鎌倉出発の日時を特定している訳ではなく、ただ、この事書状の日時に懸けて、広元の上洛を合叙しているだけである。公朝の出発の時に「御書」を作成するのと同時に、その「御書」の趣旨を説明する交渉用文書が作成されたというのは十分考えられ、『吾妻鏡』が手元にあった原史料の日付けにもとづいて、そのような合叙を行ったことは編纂の手際を物語るものではあっても、記事内容を疑う根拠とはならない。
*34野口実『坂東武士団の成立と展開』一八一頁、五味「平氏軍制の諸段階」を参照。ただし、これについての私見は、本書第四章で詳述した。
*35なお、宗綱は平家に逮捕されて流された後、何時の頃か、鎌倉に下向しており、『兼実日記』元暦一年一二月二三日条によると、前日に鎌倉より上洛して頼朝が兼実を高く評価しているという噂を伝えている。彼が徳政の興行を狙っていた頼朝の意思を受けて使者としての役割を負っていたことは明らかである。
*36【追記】輔仁と義家の関係については、保立「藤原教通と武家源氏」で論じ、義家娘と輔仁の関係は早く、一〇九六年以前には男子、行恵が生まれていたのではないかと推定した。ここでは行恵→円暁の関係について述べると、円暁は一一四五年生、一二〇〇年死であるから、円暁は行恵が四〇代末のころの子息であろう。問題は、「鶴岡八幡宮寺社務職次第」(『群書類従』第四輯)に円暁の母は「六条判官為義女」とあること、つまり行恵が為義の娘との間に円暁をもうけたということに矛盾はないかということであるが、右稿で述べたように、円暁の生まれたころは、為義と有仁(輔仁子、行恵の兄弟)の関係がまだ想定できるころであるから、これも強いて疑問とするには及ばないと思う。この系統は源氏と累代の関係をもったいたものと思われる。
*37仁寛が真言密教立川流の祖であり、立川流が伊豆国大仁に流された時に武蔵国立川の陰陽師に真言を伝授したのに始まるとされていることはいうまでもない。このような伝承の発生に、仁寛自身の験力のあり方が影響しているのか、あるいは円暁の東国における位置が影響したのか、その詳細は当面不明とせざるをえない。
*38義家が白河院・堀川院父子をモノノケから護衛したという周知の伝説もいわば裏切り者を晒し者にして悪霊に向かわせたというべき事柄であり、また彼が「無間地獄」に落ちたと伝えられるのも(『古事談』第四、勇士)、この裏切りと無縁のことではなかったのではないだろうか。なお、上横手は、義家の孫でその跡を継いだ為義が、輔仁親王の子供の花園左大臣・源有仁の所領、近江国佐々木庄の預所を勤めており、その地域の武士を家人にしている事実を明らかにした(上横手「院政期の源氏」)。この関係は輔仁ー義家の段階の関係を受け継いだものである可能性があると考える。そして、このような記憶は源氏の家人の間にも受け継がれていた筈である。
*39【追記】姉とする説と妹とする説があるが、姉説をとっている(保立『義経の登場』八二頁)。
*40隆房が京都における都市新制の執行者であったことは、参照、保立「町の中世的展開と支配」。
*41東夷成敗については、参照、遠藤巌「中世国家の東夷成敗権について」。
*42【追記】原論文では『吾妻鏡』が時政奉とするのをそのまま踏襲したが、黒川高明『源頼朝文書の研究』によりあらためた。
*43【追記】この点については、保立「平安末期から鎌倉初期の銭貨政策」(『中世荘園の基層』二〇一三年、岩田書院)で必要なことを述べた。
*44【以下の注記は原論文では本文のなかにあったものであるが、冗長であるためにここに移した】問題の一一八七年(文治三)九月一三日の平盛時奉の関東御教書を見直してみよう。それは『吾妻鏡』に「摂津国在庁以下ならびに御室御領の間の事、その法を定めらる、今日北条殿の奉として、その意を得べきの由、三条左衛門尉の許に仰せ遣わさる、その状に云く」として掲げられたものである。
摂津国、平家追討跡として、安堵の輩なしと云々、惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由宣旨を下され了、てへれば、縦へ領主権門たりといえども、庄公下職等国在庁においては、一向御進退たるべく候、速やかに在庁官人に就き、国中の庄公下司・押領使の注文を召され、内裏守護以下の関東御役を充て催さるべく候、但し、在庁は公家奉公隙なしと云々、文書調進の外の役を止むべく候、兼ねて又、川辺の船人をもって、御家人と名づけ、時定、面々に下知状をなし給ふと云々、事若し実たらば然るべからず、速やかに停止せらるべし、そもそも御室御領の預所、数輩の寺官と称し、御家人役を充て催すの由、御訴訟あり、所詮、三人の寺官の外は、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる、その旨を相存ずべし、仰せにより執達件のごとし、
      文治三年九月十三日          平
 この関東御教書については、まとまったものとしては、石井の外、上横手雅敬(『日本中世政治史研究』二〇四㌻、『鎌倉時代政治史研究』一二二㌻)、および先述の河内の分析があるが(『頼朝の時代』二七八㌻)、決定的な史料の一つであるので、若干脇道に入ることにはなるが、それらによりつつここで詳しく検討しておくことにしたい。問題は、この文書から石井のいう意味で「文治勅許」の際に「文書調進命令権」なるものが認定されたと読み取れるかどうか、そして問題の「宣旨」の発布時期が「文治勅許」と同時であったとしなければならないかどうかにある。
 さて、この関東御教書の受取人「三条左衛門尉」を摂津国の守護あるいはその高位の関係者とみるべきことは明らかである。そして、彼を後に承久の乱で京都側に立って活躍した三条五条有範と考えるか、北条左兵衛尉の誤記と考え、北条時定に比定するかについては上横手の詳細な分析があり、上横手は結局後者を選択している。しかし翻って奉書の文面中に「兼ねて又、川辺の船人をもって、御家人と名づけ、時定、面々に下知状をなし給ふと云々」と、「時定」が呼び付けにされている文脈は、時定による御家人編成が過去(おそらく直近の過去)に属することを示している。またこの奉書には右の部分を含め四ヶ所に「云々」が現れるが、それが摂津国側からの上申の内容を示すことは明らかであり、このこともそれがおそらく前任者・時定の時期に発生した事態であることを示唆している。そして、受取人を時定とすることができないとすると、上横手のいうように疑問点は残るとしても、それを三条有範とせざるをえない。彼は一条能保の推薦によって左兵衛尉に遷任していることからすると京都守護・能保の家人であり(『玉葉』文治二年十月十一日条。参照平岡豊「後鳥羽院西面について」)、そのような立場において摂津国の守護と目される位置に就いたと考えられよう。
 『吾妻鏡』の地の文に「摂津国在庁以下ならびに御室御領の間の事、その法を定めらる」とあるように、この奉書の主題は二つあり、一つは摂津国に存在した「御室御領」の庄園に関するもので、上横手がいうように、この仁和寺領庄園は貴志庄である。この前年の一一八六年(文治二)正月、幕府は、摂津国貴志の輩を御家人に加えた上、彼らについては関東番役を止め、一条能保の宿直を勤めるようにと定めた(『吾妻鏡』文治二年正月一〇日条)。これに対する仁和寺側の訴訟が提起され、それとの関係で能保の家人・摂津国「守護」である三条有範に問い合わせが行われたというのが、問題の発端であったに違いない。それに対して有範は「云々」と引用されたような上申を行って事情を釈明したのであるが、幕府はそれを待たずすでに仁和寺の意思にそって「御返事」を済ましており、有範に対して「所詮、三人の寺官の外は、他人の妨げを止むべきの由、御返事を申さる、その旨を相存ずべし」と通告したのである。こう考えれば「抑」という文言が生きてくるであろう。
 この関東御教書のもう一つの主題は、『吾妻鏡』地の文にある「摂津国在庁」の件である。有範は、おそらく仁和寺からの訴訟に関係して、①「摂津国、平家追討跡として、安堵の輩なしと云々」、②「在庁は公家奉公隙なしと云々」、③「兼ねて又、川辺の船人をもって、御家人と名づけ、時定、面々に下知状をなし給ふと云々」という三つの事情説明を関東に連絡したのであろう。このうち、問題は①と②であり、ここから分かることは摂津国には御家人が少なく、また摂津国の在庁が「公家奉公」を理由として有範の所勘に従おうとしなかったという事実である。奉書はそれに対して「惣じて諸国在庁・荘園下司・惣押領使御進退たるべきの由」という宣旨を援用して、「庄公下職等国在庁」は「一向御進退たるべく候」と述べた。ここには摂津国在庁の一部が「権門」所属を理由として有範の所勘に従おうとしなかった事実が想像されよう。
 そして関東御教書は「速やかに在庁官人に就き、国中の庄公下司・押領使の注文を召され、内裏守護以下の関東御役を充て催さるべく候」とした。これが摂津国における御家人の組織化の困難を認識し、その解決の方向を示したものであり、ここでいう「内裏守護以下の関東御役を充て催さるべく候」という文言が注文に従ってひとわたり関東御役を課し、それに従うものを御家人に認定しようという政策を示すものであることも上横手(『日本中世政治史研究』二〇八㌻)、河内(『頼朝の時代』前掲箇所)のいう通りであろう。文末に「御室御領の預所、数輩の寺官と称し、御家人役を充て催すの由、御訴訟あり」とあるように、「充催」自身はまさに「宣旨」で認められた「進退権」の一部であって主従制の枠内に限られるものではなかったのである。
 そして、在庁にはこの「充催」を行わないというのが、幕府の態度だったのであって、在庁には、この「充催」のための注文を作成する役のみが懸けられたのである。「文書調進の外の役を止むべく候」とは、そのような意味だったのであって、幕府は、摂津国の在庁が「公家奉公」を理由として有範の所勘に従おうとしない状態の中での対処策を有範に対して助言したのである。
*45【追記】これについては、本書第二部第四論文「鎌倉前期国家における国土分割」を参照されたい。
*46佐藤はいわゆる「両主制」が鎌倉幕府にとって本来的な国家構想であったとし、頼朝の大姫「入内」構想は「一般に考えられているような頼朝の天皇家の外戚たらんとする野望ではありえず、頼朝の外孫として生まれるであろう後鳥羽の皇子を鎌倉に迎えることであったにちがいない」とする(佐藤『日本の中世国家』一〇五頁)。しかし、私は、本稿で述べたように、頼朝の国家構想として本質的なものは「徳政」であって、「両主制」的傾向はあくまでも条件的なもの、あるいは歴史的な展開結果であったと考える。たしかに頼朝の死後幕府内部で続発した諸事件は、佐藤が明瞭に示したように、「創立以来幕府が抱えている根本的な矛盾の表出に外ならず、その矛盾は(中略)王朝に対する幕府のあり方如何の問題であった」(『同』一〇四頁)ことは事実であるが、佐藤の議論には、頼朝死後の幕府の展開過程の中での両主制的構造によって、頼朝の時期のまだ不定形な国家構想を判断するかのような傾向があるように思う。

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