即位式と「高御座」について――折口信夫に対する岡田の批判にふれて


 これもいま書いている本の研究史の部分です。高御座が神話的な存在であることの説明として上げておきます。

 よく知られているように、折口信夫は「真床覆衾の発見」によって、天孫降臨神話の全体を大嘗祭にむすびつけた。これに対して論文「大王就任儀礼の原型とその展開」において、始めて学術的な批判を展開した岡田精司は、天孫降臨神話はむしろ即位式に対応していると論じた。私はこれは基本的に正鵠を射ていると考える。
 そもそもこの論文「大王就任儀礼の原型とその展開」は、大王就任儀礼の本体は、大王が王宮において昇壇(高御座)し、群臣の宝器奉献と各氏族の寿詞の奏上をうけて大王に就任する即位礼にあることを初めて指摘したものであり、研究史上、単なる大嘗祭論ではなく、国家論全体にかかわる論議の口火を切った大論文である。この論文によっていわゆる大化前代、あるいはもうすこしさかのぼって六世紀以前から王位継承にあたって群臣が次の王を選出し推挙するというシステムの存在が明らかになった(参照、吉村武彦「古代王権と政事」『日本古代の社会と国家』)。今日ではこれが大王の連合的あるいは共立的性格を議論する際の基礎にすわっている。それ故に、天孫降臨神話と即位式の関係を探ることは、天孫降臨神話が国家システムのなかでどう機能したかを明らかにすることになる。
 さて、岡田は全体として天孫降臨神話と『書紀』の記す持統の即位式、さらに『貞観儀式』の巻五に規定された天皇即位儀を対比し、天孫降臨神話における高千穂は即位式における「壇」あるいは後の「高御座」に対応し、ニニギの随身する「宝器」も即位式における「璽印」の献上に対応するとした。これは天孫降臨も王の即位も就任という意味で共通性をもつ以上、それ以上の意味はないということもできる。しかし、岡田がいうように天孫降臨神話と大嘗祭の間には、そのような共通点もないのが実際である。
 しかし、それでは真床覆衾なるものは王権の王位就任儀礼にまったく関係がないのかということが問題になる。
 これについて岡田は高御座の「帳(とばり)」が「真床覆衾」にあたるとする。「帳」は「真床=聖なる台」をすっぽり覆う「衾」であるという説明である。もちろん、その可能性はあるが、そもそも「真床覆衾」は『書紀』の第九段(高千穂)の異伝六と、第一〇段(山幸海幸)の異伝四に登場するだけであって、奈良時代以降の即位式において「真床覆衾」のイメージがどれだけ正確に引き継がれたか、そもそも意識されていたかは不明であるといわざるをえないのではないだろうか。神話儀式はきわめて変化しやすく、多様なものであり、神話と祭儀の関係性はあくまでも心性のイメージにあって多様な事象相互に厳密な対応をみるのは控えておきたいと思う。
 むしろ興味深いのは、岡田が宮地直一によって、諏訪大祝即位式を紹介していることである。それを引用すると「石上に葦を敷く。廻りに簀を引亘して垣となし、地面も之を敷く。期に臨み大祝は、立烏帽子ばかりを戴き神殿を出て葦を敷いた石上に着き神長をして装束を着けしむる」とある。石上に「葦」を敷くというのは磐座祭祀においてはよく見られる風習なのであろうか。
 想起されるのはヤマサチヒコに別離を宣言したトヨタマ姫が渚に子供を「真床覆衾及び草(かや)」に包んで置いていったことで(『書紀』異伝四)、諏訪大祝には七・八歳から一〇歳くらいの童児が就任するというから、この「草(かや)」と「葦」は同じものであろう。『物語の中世』(講談社学術文庫)あとがきなどで、すでに述べたように、真床覆衾が火山毛であるという私見からすると、このトヨタマ姫が使った「真床覆衾」と「草」は似たものであるから、結局、諏訪大祝の石上即位においても真床覆衾類似の敷物が使用されたということになると思う。いずれにせよ、折口信夫が真床覆衾と大嘗祭をむすびつけたことには賛成できないのである。

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