常陸国の地域史と教育

常陽新聞の連載

①石岡市「鹿の子遺跡」の漆紙と日本の人口
 八世紀、つまり奈良時代の歴史史料はきわめて少ない。これが増加するなどということは、私が歴史の研究に興味を持ち出した頃には考えられなかった。もちろん、ちょうどその頃は「木簡」(荷札など、文字の書かれた木の札)が歴史史料として注目され始めた頃で、特に静岡県の浜松市の伊場遺跡という地方の役所の遺跡から木簡が発見され、地方にも木簡が存在する可能性が明らかになって、古代史学会は騒然としていた。
 ところが、最近は、全国各地から木簡に加えて「漆紙文書」が発見され、地方の古代史史料の増加は著しいものがある。漆紙とは、漆壷の蓋紙に使用されたために漆が染み透ってコーティングされ、保護・強化された紙のことである。漆は壷の口にそって丸く染み透るから、漆紙の形は必ず丸くなる(詳しくは平川南『よみがえる古代文書』岩波新書を参照されたい)。
 この漆紙文書が常磐自動車道の建設にともなって調査された石岡市の鹿の子C遺跡から大量にみつかったのである。御承知のように、石岡は古代の国衙(国の役所)の地であり、この遺跡は国衙の付属工房の跡であろうといわれている。そして、この漆紙は、だいたい延暦年間(七八二ー八〇六)に反古として払い下げられた国衙の帳面類であるとされている。これが地方公文書としてえがたい価値をもっていることはいうまでもないが、その量も、これまで発見された漆紙文書の中で最大のものであり、これによって、おそらく常陸国は地方ではもっとも多くの古代の文献史料をもつ国となったのである。
 ここでは、その内の一通の文書断片によって、奈良時代末期の常陸国の人口が明らかになったことについて紹介してみたい。それは図のような帳面の断片(直径約19センチ)である。この図の内、線で囲われている部分は字がないところを復元したもので、その推理は、四行目と五行目から始まる。四行目の下の二行の細字(双行という)の数を足すと一八九七五〇。まず、これが何かの人口であることは「口」とあることからわかるが、郡の人口としては多すぎるから国の人口、しかも当然、常陸国の人口に関わる数字であることになる。そして、五行目の双行は奴婢の人口を記したものだから、上の一九万弱の数字は平民の人口であり、この平民の人口と奴婢の人口を足したものが四行目上部の「□□□□萬壱仟陸佰陸拾」という数字となる。この時代の東国の奴婢の人口は平民の一パーセント程と考えられるから、この足し算の繰り上がりは最小限とみなすことができ、□□□□は「口壱拾玖」と置くことができる(奴と婢の各々の数は分からないが、その総数は一九一〇となることも計算していただければわかる)。
 まさに小学校の算数の「虫食い算」そのものである。ここから先の詳しい考証の紹介は省略するが、戸籍には平民の外に、封戸・神戸(おのおの貴族と神社に割り当てられた人口)があるから、それを勘定にいれると、当時、おそらく延暦の常陸国の人口は約二二万四〇〇〇から二四万四〇〇〇人の間であったということができるのである。
 人によっては、「何だ、それだけのことか」と思うかもしれないが、今から一二〇〇年前の地方の国の人口が確実な証拠によって明らかになるというのは、世界的にみても稀有なことで、歴史家からみれば常陸国は実に恵まれているということになるのである。
 そして、このことは様々な問題の理解に波及してくる。その内の最大のものは、これによって奈良時代末期・平安時代初期の日本の総人口が約六〇〇万であったろうという計算が可能になることである。そして正倉院に残されている戸籍関係史料によって、奈良時代前半の人口を約五〇〇万と推定することができるから、奈良時代一〇〇年間に、だいたい一〇〇万の人口増加があったという計算も成り立つのである。もし、人口増加率が全国並だったとすれば、奈良時代の間に、常陸国でも約4万人の人口が増加したことになる。


 これだけのことが、一片の漆紙から明らかになってくるというのは、やはり驚きではないだろうか。私も平川南氏が漆紙を解読する場面を見学させてもらったことがあるが、漆紙はそのままではほとんど字の跡を見ることはできない。赤外線を照射することによって初めてビデオカメラに画像が浮き出るのである。だから、この方法が開発されるまでは、漆紙は正体不明の物品として破棄されていた可能性があるともいわれている。
 分析方法の発達によって、遺跡の価値は将来にむけて無限に高まっていくのであり、そのためにも、できるだけ遺跡を保存し、将来の研究の素材を生の形で残していくことが必要だと思う。それは将来の人々に新たな「驚き」の機会を贈ることになるはずである。
②「常陸国風土記」と亀城公園の椎の木
 前回は、石岡市の鹿の子遺跡から出た漆紙文書を「虫食い算」の方法で分析すると、奈良時代末期の日本の総人口は約六〇〇万、そして奈良時代一〇〇年の間に約一〇〇万の人口増加があったと推計できることを紹介した。
 私は、日本の小学校、特に茨木県の小学校では、かならず前回紹介した漆紙文書を使って「虫食い算」の練習をさせるのがよいと思う。教室に漆紙文書の写真を持ち込んだりすれば、算数の勉強も印象が違ってくるのではないだろうか。また、過去を事実にもとづいて正確に知る習慣を身につけること、あるいはそういうことが可能であることを教えることは歴史学にとってもきわめて大事なことである。
 その上で、小学校・中学校の日本古代史の授業では、奈良時代の間に人口が増加したことの意味を教えるべきだろう。その際にまず使用するべき史料は、いうまでもなく「常陸国風土記」である。
 「常陸国風土記」の行方郡の条は、古代における耕地開発の歴史を語ったものとして歴史家の間では有名なものである。「風土記」の伝えるところでは、継体天皇の時代に、箭括氏麻多智という男が、行方郡の谷地を開発しようとして「夜刀の神」といわれる蛇体の神と闘争し、「山の口」に掘った「堺の堀」に堺の印となる棒杭を立てて「神の地」と「人の田」の境界とし、蛇神のためには神社を設けて祭ったという。そして、孝徳天皇の時代には茨城の国造の地位にあった壬生連麻呂が、この谷に池を築いてさらに本格的な開発に乗り出し、「池の辺の椎の樹」に昇り集まって抵抗する蛇体の神を排除して池堤の構築を完成させたという。
 この「夜戸」・ヤトの神とは「谷戸」の神、つまり谷に開けた湿地の神のことをいうのだろう。常陸にはどこにもそういう谷地が多い。人間の力が及ぶ前は、そこは、当然、山蛇の栖だったのである。「風土記」の説話には、そのような「谷戸」の開発を経験した奈良時代の民衆がもっていた伝承がはっきりと現れている。こういう開発が先述のような人口増加を支えたことは明らかである。
 ところで、私がこの説話を読んで思い出すのは、小さな頃よく遊んだ茨城県の土浦の亀城公園の大きな椎の木である。私は父を中学校一年の時に亡くしたが、それ以降、父の郷里の土浦の家に世話になることが多かった。特に伯父・保立俊一は半ば父代わりの役割を果たしてくれ、私が歴史学の研究に進んだことにも、伯父の影響があったように思う。
 そして、伯父によると、伯父の小さな頃には、右の亀城公園の椎の木には蛇が棲んでいた。よくあるように、この椎の木は地表から約五メートルほどのところで四方に枝別れしており、そこが台のようになっていて登って遊んだものだが、そこに蛇が棲み付いていたというのである。
 「風土記」で蛇の蝟集した「池の辺の椎の樹」も相当の巨木であったことは間違いない。樹木の上に蛇が多数あつまったというのは、ただの神話のようであるが、脱皮の季節などに蛇は群集をつくる生態をもっているから、そのようなことも実際に起こりえたのではないだろうか。これは動物学者に聞いてみたいことだが、日本の蛇で、そういう風習をもっているとしたら、それは何という蛇だろう。
 ともあれ、「風土記」の伝承には、集合する蛇たちをみておそれ崇めた古代人の心意が反映しているのではないかと思うのである。神社の神体の蛇が境内の巨樹に棲みついているというのはよく聞く話である。巨木にはしばしば樹上をふくめて大きな洞が形成され、蛇はそこを栖とするのである。
 大海の東に「扶桑」という巨樹があり、夜、太陽がそこで休むというのは中国の神話であり、イグドラジルの木が天地をつらぬいて聳えていたというのはゲルマンの伝説である。そのような伝承は、原始の人間の自然観として世界中で共通のものだったのだろう。日本にも、古くから、そのような巨樹の信仰があったのである。そして、蛇神の信仰は、そのような巨木信仰と結合して、生きていたのである。
③常陸国風土記と広場のケヤキ
 前回みてみた「常陸国風土記」で、蛇体の神が昇り集まった「池の辺の椎の樹」は、『風土記』が語られた奈良時代には「池の西に椎の株あり」とあるように、すでに失われていたという。興味深いのは、そこの地名を「椎の井」といい、「清水の出づる所なれば、井を取りて池に名づく。すなわち香島に向かふ陸の駅道なり」という立地であったことである。
 つまり、この椎の巨木は、道のそばにあったのである。井戸があったというから、この椎の木の下はおそらく広場になっていたのではないだろうか。そこは、男女が集まり、子どもたちも集まり、旅人も立ち寄る地域の水場だったのだろう。
 古代の広場というと、ギリシャのアゴラが有名だが、日本の古代にも広場はあった。郡衙=郡役所には広場があったというのが、考古学の発掘成果による最近の見解であるが、文献史料でそれを明示しているのも、「常陸国風土記」の行方郡の条の記事である。
郡家の南の門に一つの大きなる槻あり。その北の枝、自ら垂りて地に触り、還りて空中に聳ゆ。その地に、昔、水の沢ありき。今も霖雨に遇へば、庁の庭に湿□れり。
 つまり、行方郡の郡衙(郡役所)の南門の前は「庁庭」・広場になっていて、そこには大きな槻の木があったというのである。槻とは欅のことで、ケヤキは、若い枝がしだれる性質があり、この槻の木は枝が垂れて根付き、一本の木になったというのであろう。このことに気づいてからは、私は、公園や道のほとりのケヤキの姿に興味をひかれるようになった。また、友人がケヤキの大机を手に入れたという話を聞いてうらやましいと思うようになった。
 ほかの史料によっても、郡家の庭には、しばしば槻の大樹がそびえていたらしい。『続日本後紀』という九世紀の歴史書によれば、京都の葛野郡の郡家の前にも「槻樹」があったが、その樹を伐って太鼓を作ったところ祟りがあったという。さらに『万葉集』(四三〇二)に「家持の庄の門の槻の樹の下にて宴飲せる歌」(天平勝宝六年三月十九日)とあるのは、郡家ではなくて庄園の役所の門にそびえていた欅の木の下が広場になっていたという例であるが、そこで饗宴をふくめてさまざまな集会が行われたことは確実である。槻の樹の下の広場は、このように、地域の中で宴会をしたり集会をしたりするような公的な空間と考えられていたのではないだろうか。
 図は、そのような槻の聳える古代の広場の情景をつたえる稀有にして唯一の絵画史料であるといえるだろう。これは、現在佐倉の歴史民俗博物館の所蔵になっている国宝「額田寺伽藍並条里図」の一部、額田寺の南門の辺りの様子を見取り写ししたものであるが、そこに「槻本田」という地字があり、それらしい木が描かれているのである。
 日本の古代で、槻の木の下が広場になっていたのは、郡衙にかぎらない。それは中央でも同じことであった。少しお年の方ならば、「大化改新」を起こした中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を打倒する密約を結んだのが、都の「飛鳥寺の槻の木の下」の広場で、毛鞠をやりながらのことであったという説話をご存じだろう。
 彼らが「大化改新」に勝利した後、この場所は中大兄が群臣に服従の誓約をさせる大集会の場所になっているのである。さらにまた、種子島からの朝貢者や、蝦夷を迎える饗宴の場でもあり、「壬申の乱」において軍営がもうけられるなど、古代の国制において最も、公的な集会場であったのである。
 槻・ケヤキは古代人にとって生命力を象徴する樹木であったらしい。槻の木は「枝を数多く分出して周囲は三メートルにも拡がるところから、生命力の強い木として、『百枝槻』とも『百足る槻が枝』ともいった」そうである(土橋寛『日本語に探る古代信仰』、中央公論社、一九九〇)。たしかに古代人にとって、槻の木は家と生命の持続と繁栄を象徴する巨木として最もふさわしいものであったのかもしれない。
 もとより、各地の郡衙や「館」の前に聳えていたこれらの槻の木は移植したものではないだろう。本来生えていたものであるか、あるいは彼らが郡衙などの役所を建設する際に伐り残したものであったのだろう。そして、その枝葉の茂りに、古代の地域の歴史が象徴されていると考えられていたのである。
④那賀郡の兄妹と雷神
 「常陸国風土記」の那賀郡の条には、古代人のもっていた雷神信仰の様子が、よく描かれている。その話を簡単に紹介してみよう。
 昔、茨城里にヌカビコ、ヌカビメという兄と妹が住んでいた。ところが、妹のところに、夜、誰とも知れない男が通ってきて、昼には帰っていく。子どもが生まれる月になって、妹はついに「小さき蛇」を産んだ。この子どもは、杯にもっておくと、一夜のうちに杯一杯になり、甕にもっておくと、またその内にいっぱいになるというように、どんどん大きくなっていく。母が、「お前は神の子だろう、もう養うことはできない。父のところに帰れ」というと、蛇は「それでは父のところに帰ろうと思うので、小子(ちいさご)を一人、お供につけてくれ」という。母が「家に兄一人、妹一人しかいないのはお前も知っているではないか、無理をいわずに帰ってくれ」というと、蛇は怒り出して、兄のヌカビコをカミナリのように蹴殺して天に上ろうとした。驚いた母が甕を投げ付けたので、蛇はそれにつまづいて天に上ることができず、村の北にあるクレフシ山という峰に留まって山神となり、神社に祭られたという。
 こういう雷神伝説は古代では非常に広く語られていたようである。その中でも、もっとも有名なのは、山城国・京都の賀茂の上社、賀茂別雷社の起源伝説で、同じように父の名前が知れない子どもが家の屋根を突き破って天に上り、後に父が山城国の火雷神であるとわかったという。これらの伝説で、私が興味深く思うのは、雷神が小童の姿で印象されていることである。その外にも、尾張国の農夫の前に、雷とともに天から小子が落ちてきて、妻の腹に宿り、頭に蛇をまとった赤ん坊となって生まれ、異様に強力な男に成長したなどという種類の説話は多い(『日本霊異記』)。
 しかも興味深いのは、これらの伝説の背景には、雷がなっている時のセックスによって孕んだ子どもは異常な力をもっているという観念があったらしいことである。たとえば、雄略天皇が后と「婚合」している最中、その場にお付きの従者が誤って踏み入ると同時に雷がなり、ことを妨げられた天皇が激怒したという話(『日本霊異記』)は、王の後継ぎの受胎は、雷によって聖別されねばならないという観念を示している。
 これがきわめて古くからの観念だったことは、図に略図を掲げた奈良の佐味田古墳から出土した家屋文鏡が示している。辰巳和弘氏の『高殿の考古学』によれば、雷が今にも落下しようとしている高殿の中には、キヌガサがさしかけられていること、戸がしまっていることなどから首長が在宅であることは確実で、この画像は、首長は妃が同衾して神の来臨をまっている様子を表現したものであるという。
 仁徳天皇が、ある朝、高殿の上で国中をみまわし、「民のかまどはにぎわいにけり」という歌を詠んだという話は、戦前は、民衆の生活を憐れむ仁徳天皇がいかに偉かったかという話として語られたものである。しかし、高殿の上での王の生活を詳しく検討した辰巳氏の仕事によれば、仁徳は妃と同衾していたのであって、この話でまず注目しなければならないのは、王が妃とともに神の来臨をまつ性的な儀礼なのである。
 現在の世相をみてもわかるように、こういう迷信は、そう簡単には社会から消えていかないもので、江戸時代になっても、金太郎は山姥に雷神が受胎してうまれた子どもであるという俗説になって残っている。ともかく、カミナリというのは、昔の人にとっては、いろいろなことを考えざるをえなくなるような極めて異常な出来事だったのだろう。
 それは日本ばかりではなく、ヨーロッパでも同じで、カソリック教会ではゴッシクの高い塔への落雷は神の戒めと考えられていたそうである。だから、フランクリンが雷は空中の電気放電であると発見したことは世界観全体の変化にかかわっていたのだともいう。
 さて、話を古代の東国に戻そう。奈良時代の後期、常陸・武蔵などの東国でしばしば「神火」によって役所の正倉が焼けるという事件が発生した。たとえば常陸国の新治郡衙が焼けたという事件はよく知られている。その相当部分は実際には放火だったらしいが、神火という以上、それは雷神の仕業であると考えられていたようである。その事情が詳しくわかるのは、武蔵国の入間郡の郡衙の正倉の「神火」で、それは「郡家の内外にあるところの雷神」によるものであったという。
 「内外にあるところの雷神」というのだから、この雷神は一つではなかった。むしろ、地域社会には、最初にふれたヌカビメの息子の雷神の神社のような神社が相当数あったことを想像できるのではないだろうか。そしてその神体は落雷によって異様な形になった巨木であり、しばしば「カントキの木」といわれていた。

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