教材としての社会史

教材としての社会史
 『前近代史の新しい学び方』青木書店、歴教協編集 

                     保立道久
  はじめに
 「社会史と歴史教育」というと、新しく提起された問題のようであるが、歴史学と歴史教育の「対話」が長期にわたって形づくってきた問題群の中では、むしろもっとも古典的なものの一つである。たとえば遠山茂樹「教科書検定訴訟支援と歴史学の課題」(1979年 )は、食事・衣服・交通・職業などの小学生に認識可能な「生活史」的諸事象の検討から社会の仕組と時代の歴史像を導くという必要を提起している。「社会史と歴史教育」というテーマは、歴史学・歴史教育において、もっとも重要であったといってよい論争問題、①歴史教育における感覚・直感と認識の構造の問題、②「民衆史・民衆生活史と歴史教育」という二つの問題に直接に関係しているのである。
 だから、歴史学の歴史の中でみる場合、私は、社会史研究は本質的に歴史教育に対する視野を確保しなければならないし、社会史研究の今後は、歴史教育のあり方との関係で議論されるべきだと考える。
 もちろん、「社会史」とはいっても様々な思想的・方法的立場があり(保立、1991年 )、実際には、学史に対する「断絶」「無関心」を強調する雰囲気が強い。新しい研究動向が生まれる場合に、過去との断絶を強調するのは、自然なことではあるが、しかし、私が専攻する中世史研究の場合、社会史研究の動向は、すでに20年近くになろうとしている。それを学史の中に客観的に位置付けることは、すでに一つの社会的責務になっており、いつまでも「余計者」の態度で過ごすことは許されないのではないだろうか。
 さて、これまで私は、社会史研究と歴史教育の問題に関わって、①「中世史研究と歴史教育ーー通史的認識と社会史の課題にふれて」、②「日本中世の教科書叙述と教材」、③「歴史を通して社会をみつめる」の三本の文章を書いてきた。①②は通史的認識や絵画史料・民話史料の教材化との関係での概論、③は平安時代の政治史・宮廷史と『御伽草子』(「鉢かつぎ」)という具体的な素材を取り扱ったものである。
 それらをうけて、本稿では、小学校教育における社会史の教材化について、中世における「下人」を素材として試論を述べることとしたい。小学校教育を対象とするのは、まず、小学校では感性的認識なしにはまったく授業が成立しないこと、また、小学校教育は社会史を教材化するために必要な文学・絵画などの授業との相互乗り入れがやりやすいことなどの事情によっている。
 と同時に、社会史的・民衆史的研究は、歴史叙述の新しい形式として生まれたものであり、その成果を日常意識・文化的常識の中に浸透させたいという衝動を自己の中にもっている。社会史的認識は、それ自体の性格として、小学校段階から、いつのまにか常識となるような種類の認識として蓄積され、鍛えられることを要求しているのである。これが小学校教育を対象としたことの第二の理由である。社会史はいわば歴史文化の基底部における変革という大望をいだいているともいえようか。その希望をマスコミやジャーナリズムなどの「外部的」条件に委ねることなく、研究者と教育者の「共同的」な議論と実験の中で実現することができれば、歴史学をめぐる状況は大きくかわるだろう。
 中世の下人論の動向
 まず確認しなければならないのは、中世の領主経営において下人の存在は規定的な意味をもっており、たとえば高校教科書も、領主・名主の下の隷属農民として下人が存在したことをかならず論述していることである。研究の側でも、領主の下人支配と、その階級的性格の問題は、「農奴的存在か、奴隷的存在か」という形で長く論争されてきたことは周知の事実であろう。このような研究の到達点は、高橋昌明の仕事であり、そこには現在でも受け継ぐべき多くの論点が提示されている。歴史教育の系統性を重視する立場からすると、この問題は時代区分論に関係し、本質的に重要であることはいうまでもない(木村茂光・今野日出晴、1995年)。
 他方、高橋の仕事が実質上の出発点となっていたのであるが、たとえば安野真幸、盛本昌弘、高橋公明、関口博巨などによる、多かれ少なかれ社会史的な性格をもった最近の下人研究は、文学史料・対外関係史料を含めた多様な史料を発掘し、下人の暇乞い、薮入り、放状、さらに下人の「非農業的」性格や異民族的性格などを明らかにしている。これらの研究が従来の論争では見逃されていた下人身分の具体的形態に光をあてたことは明らかである。
 たしかに別稿でみたように(保立、1993年a)、下人身分は都市・平安京における下級卑賎の者一般を指す貴族側の呼称からはじまった下層被支配身分の概括的呼称であり、階級的な関係をそのまま表現しているものではなく、さらにしばしばいわれるような私人への従属一般を意味する身分用語でもない。それは本質的に「浄穢」の貴賎観念をからみつかせた身分用語として、「下衆・下種」などと同じ側面をもっており、たとえば安野真幸がいうような流浪者の雇用や、高橋公明が例示したような都市的奴隷存在をも表現するのである。
 しかし、だからといって庄園や領主支配の内部における下人の社会的性格の論理的把握が無用な訳ではない。私も、下人の社会史的研究を一つの研究テーマとしてきたが(保立、1981年、1986年)、その中で、領主と下人の関係の中に、託身の意識、御恩に対する互酬の意識の存在を確認した。それは右の諸研究の明らかにした下人の暇乞い、薮入り、放状などの問題と同じ状況を表現している。私の立場からすると、このことは、下人の隷属関係の中にはしばしば意思関係上の一定度の自立・自由が想定できること、それ故に下人を全体としては農奴的存在とすべきことを示している。領主支配の下における下人の階級的・社会的性格の究明とその社会史的研究は、けっしてことさらに他を排除すべきものではないのである。
 下人身分論の教材化
 特に、下人身分論の教材化を考える場合には、領主経営との関係を無視することはできない。中世史教育において、中世における地域の伝統的領主の家柄を、地域史資料(文書史料、さらに可能な場合は館・城郭遺跡などの考古学史料)に依拠して示しておくこと、領主経営の下で、民衆の相当部分が下人身分に編成されていたことを子どもたちに伝えることは自然なことなのである。
 その個性的な教材化は、個々の教師に委ねられているが、典型教材としては、まず、歴史教育の場でしばしば取り上げられる『今昔物語集』(巻26ー17)の芋粥の説話がある。芥川竜之介の翻案でよく知られている、この説話は、実は、研究史の上では重要な下人史料として注目されているものなのである。話の概略は、摂関家に仕える「貧乏」五位が藤原利仁の越前敦賀の館で歓待を受けたということだが、問題は、館に五位が到着した夜、館の側にある「人呼びの丘」という塚の上から、執事の男が「此の辺の下人承れ、明旦の卯の時(6時)に切口三寸、長さ五尺の芋、各一筋づつ持て参れ」と叫んだという部分である。
 その結果、翌日の早朝から巳の時(10時)にいたるまで、山芋を持参する下人が陸続とやってきて、芋を家の軒の高さにまで積み上げたという。そして『今昔物語集』は「其の声の及ぶ限りの下人どもの持ち来たるだにさばかり多かり、いかに況むや、去きたる従者(遠退いた所にいる従者)どもの多さ思い遣るべし」と語っている。ここには領主館近辺の下人と管轄地域内部に散在的に居住する下人の全体を支配する大規模な領主経営の様相をみてとることができるのである(戸田芳実、1967年、62頁、150 頁)。
 そして、これらの下人は庭で客人の五位の「おろし」(余り物)を振る舞われたのであるが、「おろし」を食べるのは従者・下人の従属を象徴する所作であり、そもそも五位が摂関家の正月の饗宴で食べた芋粥自身が摂関家当主の余り物であったのである。社会史的民衆史は、単に民衆生活の細部を描くものであってはならず、子どもたちに、このような前近代的な人格的従属の具体相を伝えるものでなければならないだろう。人間が人間に従属するということがどのようなことであるのか、それ自体のイメージをもっていなければ、そもそも農奴とか奴隷とかいった議論そのものが無意味なのである。農奴とは翌朝に何をさせられるか分からないような生活を送っている存在であるというのはヨーロッパ中世史でしばしばいわれる定義であるが、利仁の下人たちは、まさにそのような存在として描かれているのであって、しかも、黎明前から起き出して持参した冬の貯蔵食料・山芋をふんだんに使った饗宴の「おあまり」を喜んで頂けなければならないような存在なのである。
 そして、このような芋粥をめぐる上下の「食物連鎖」が、「京都の貴族」ーー「地方の領主」ーー「その下人たち」を貫く都鄙の社会関係を正確に表現していることも重要である。その観点から、この説話に依拠して、成立期の荘園制支配のあり方を実感的に子ども達に伝えることもできるのではないだろうか。それは、本書、藤原千久子報告の用語でいえば、都市の領主と地方の領主の「二重支配」という本質をもつ荘園制支配の学習素材というこになる。
 以上、芋粥説話についての詳細は別稿を参照いただければ幸いであるが(保立、1981年)、地域の領主史料、あるいは領主館・城跡の遺跡を利用したりしながら、この芋粥の話をしていけば、中世の荘園制・領主制下の下人のイメージを子どもたちの心の中に結ばせることは比較的たやすいのではないだろうか。特に、領主館の遺跡の中に近辺の下人小屋ーーまさに「声の及ぶ限りの下人」の小屋の遺構を想定できる場合は、現地見学などを組み合わせれば、さらに具体的なイメージを考えることが可能になる。そうでない場合も、その地域の下人史料を探索すれば、さまざまな工夫が可能になるだろう。そのような作業は実際上は、地域史研究の教師自身による取り組みとなることになるが、その中からオリジナルな下人研究の新たな課題が開拓される可能性がまだまだ残されているのである。
文学教材と「人商人」
 下人について、これ以上の時間を小学校の歴史の授業に配当することはむずかしいだろうが、しかし、下人の物語をふくむ文学素材を「国語」の授業であわせて選択することは十分に試みる価値がある。下人の境遇や売買を示す文学作品には、説教節の「さんせう大夫」、謡曲「隅田川」「自然居士」、さらには、中国人が九州の箱崎に連行されて牛飼の下人として使役されたという謡曲「唐船」など、子どもにも理解可能なものが多い。これらは「封建的」な人身従属というものが、どういうものであったかを知らず知らずに人々に伝える力をもっている文学である。
 気になるのは、最近の子どもたちは、これらの文学作品のうち、「さんせう大夫」「隅田川」などの有名なものさえ、ほとんど知らないのではないかと思われることである。社会の現代的変容は豊富な「児童文学」を生み出し、それはそれで評価するべき点もあるが、しかし、「伝統的」民話の世界との断絶という状況は否定しがたい。
 また、私は、文学教育の側にも、現在の「国語・古文」教科書の実態などとの関係で、いわば「源氏物語主義」ともいうべき、古典への姿勢があるのではないかと疑っている。もちろん、『源氏物語』の授業には独自の意味があるが、『源氏物語』は、物語の構成自身の中に(王権の性的放縦の実態など)生の形では子どもには理解しがたい部分を含んでいる。『源氏物語』の断片を授業するよりも、語法も相対的に単純な『今昔物語集』『御伽草子』などの物語や謡曲を大量に教材化した方が、「古典に親しむ」近道ではないか。特に小学校では、それらの文学を系統的に取り上げる試みがあってもよいのではないかと思うのである。
 これはまずは文学教育の側で検討してほしい問題であるが、歴史学の側でも考えるべきことである。特に、下人論の領域では、安野や棚橋光男の謡曲・『御伽草子』などについての研究がよるべき成果となっており、それを素材として歴史の側から文学教育の側へ問題を提起することができるのではないだろうか。このこととの関係で、忘れてはならないのは、家永教科書に対する検定において、「人をかどわかしては、東国の農村に連れていき、下人として売る商人」という「人商人」の叙述が問題とされたこと、この叙述の前提に「武士・名主はその田畑を、あるいは手作りといって郎従・下人に耕作させ(下人は財産同様に売買された)」という叙述があったことである(『検定不合格日本史』89頁、68頁、三省堂、1974)。家永が、ここで謡曲隅田川を念頭においていたことは確実である。歴史学が健忘症であってよい訳はなく、下人論を文学素材をも視野に入れて新たな形で教材化していくことは、この意味で、私たちの古くからの課題に属することなのである。
 研究・教育の素材としては、①狂言、②「人商人」、③人身売買文書などが上げられるだろう。まず第一の狂言については、いわゆる「太郎冠者」が中世末期の下人の姿を反映していることが重要である。これについては、安野の仕事のほか、「たくらだ」「のさ」「ものぐさ」な反抗的下人の姿を捉えた佐竹昭広の文学研究の側からの見事な仕事がある(佐竹、1967年)。狂言は、小学校で見物にいったり、巡回が来たりということがあるだろうが、その際に太郎冠者が出てくれば、歴史的下人の姿を伝えておくことはきわめて自然なことである。私は、社会史は、こういう「伝統芸能」の鑑賞もふくめて「歴史的なるもの」を文化の中に保証していく仕事の一環として考えなければならないと思う。
 次の人商人については、「さんせう大夫」(安寿と厨子王)や「隅田川」が利用できることはいうまでもない。別稿でふれたように(保立、1986年)、人商人が人(特に子ども)を捕まえて連れ去る時には、その道具として「大袋」を使用することがあり、中世絵巻の中には、肩に「大きな袋」をかけた強盗の姿も見ることができる。ヨーロッパでもサンタクロースの従者に「むちうち小父さん」という人物がいて、悪い子どもを袋に入れて連れ去ってしまうそうだが、日本でも「大袋」というのは「人さらい」のことをいったのである。私は、厨子王が山伏の笈の中に隠れて逃走したというのも、このような実態を背景とした連鎖イメージであると思う。また市庭で人身売買が行われていたことについても、和泉国や越後国の事例などがある(保立、1986年)。これらの史料を利用して、さまざまな授業のスタイルが可能となるのではないだろうか(なお、「さんせう大夫」については、下人の性別の問題、女性の下人の問題も注意をしておくべき点である。下人は男性のみでなかったことはいうまでもなく、この女性下人の姿については、保立(1995年)の「鉢かつぎ」についての分析を参照されたい)。
 さらに、棚橋が発掘したような人身売買文書は、仮名のものも多く、比較的に写真でも読みやすいので、子どもたちにとっては衝撃力のある教材となりうるかもしれない(なお人身売買文書の一覧が磯貝富士男(1977年 )の仕事にある)。また磯貝(1980年)が指摘した飢饉と人身売買の問題も重要である。これらの文書を文学作品と一緒に使用できる場合、つまり人身売買文書に縁のある地域の授業では、(実際には中学校の授業ということになるかもしれないが)、さらにさまざまな工夫ができるのではないだろうか。


 さて、以上、早足の上、個別のテーマに深入りしすぎたかもしれないが、このような方針を取ったのは、現在のところ、「社会史と歴史教育」というテーマにとっては、よくみかける種類の社会史に関する一般論議よりも具体的に利用可能な教材を細かく詰めていくことが大切だと考えているためである。同じような形で、たとえば「市庭」「ライフサイクルと子ども」「労働」などなど、多様なテーマ研究を蓄積していくことが重要なのではないだろうか。
 そして、これらを地域資料と結合して、教材化していくためには、考古学や民俗学の研究者をふくむ、歴史教育を中心軸とした共同的なネットワークを形成していかねばならないのだろう。そのためにはなによりも歴史学の研究者と教育者の間で新たな創意と研究を組織化しなければならないはずである。


安野真幸『下人論』、日本エディタースクール出版部、1987年、
磯貝富士男「百姓身分の特質と奴隷への転落をめぐって」『歴史学研究』1977年度大会別冊。
同「寛喜の飢饉と公武の人身売買政策」『東京学芸大学附属高等学校研究紀要』、17ー19号,1980ー82年
木村茂光・今野日出晴「歴史教育と時代区分」『日本史研究』400号,1995年,
佐竹昭広『下克上の文学』、筑摩書房、1967年
関口博巨「近世前期奥能登における『下人』化の契機」、『歴史と民俗』、平凡社、1993年
高橋公明「異民族の人身売買」、『アジアの中の日本史Ⅲ』、東京大学出版会、1992年
高橋昌明「日本中世封建社会論の前進のためにーー下人の基本的性格とその本質」、『歴史評論』332号,1978年、
棚橋光男「人身売買文書と謡曲隅田川」、同『中世成立期の法と国家』、塙書房、1983年 、
遠山茂樹「教科書検定訴訟支援と歴史学の課題」、『歴史学研究』474 号)
戸田芳実『日本領主制成立史の研究』、岩波書店、1967年 、
保立道久「庄園制的身分配置と社会史研究の課題」『歴史評論』380号、1981年
同『中世の愛と従属』、平凡社、1986年
同「中世史研究と歴史教育ー通史的認識と社会史の課題にふれて」『歴史学研究』569 号、1987年 (後に『歴史学と歴史教育のあいだ』三省堂、1993年 )
同「日本中世の教科書叙述と教材」『歴史学研究』611 号、1990年、
同「日本中世社会史研究の方法と展望」『歴史評論』500号、1991年
同「日本中世の諸身分と王権」『講座、前近代の天皇③』青木書店、1993年 a同「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」『国立歴史民俗博物館研究報告』54集、1993年b
同「歴史を通して社会をみつめる」(『共生する社会』、シリーズ学びと文化④、東京大学出版会。1995年
盛本昌弘「中世における主人・下人関係の様相」(『歴史学研究』603 号、1990年


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