「忘れられた10世紀の能登地震、津波──今昔物語集より」

明日、3月30日シンポジウム「能登半島地震と地域のサステイナビリティ」(2024年3月30日15時〜17時半オンライン)で下記のレジュメに沿って報告をします。いま慣れないパワーポイントに書き換えています。

能登の古地震の歴史研究、生態系と生業と文化の変容をたどった地域研究、2007年の能登半島地震の復興の調査を参照し、地域のサステイナビリティを考えます。
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「忘れられた10世紀の能登地震、津波──今昔物語集より」

はじめにーーー政治の鈍感と非学術性


明治以降1000人を超える死者を出した地震は12回。今回もその可能性はあった。

救命救出の熊本地震との比較


熊本地震の直接死は50人。生き埋めから救出された人の割合は24%(16/66)。能登半島地震で救出された人の割合は5%(11/231)。(群大、早川由紀夫)
救命対策のリミット72時間内措置が不十分。

初動の遅れ。

当初、格下の特定災害対策本部(本部長は内閣府防災担当大臣)を設置。非常災害対策本部(総理大臣)の設置は翌日。自衛隊派遣の遅れ。

非学術性と無知――地震火山列島の政治失格

陸域直下地震がM7.6=1000人の可能性がわからない(阪神大震災は7.4)。
地殻災害と防災に関わる学術的な専門性と判断権をもつ組織がない。

防災省の設定と自衛隊の改組

地殻災害・気象災害のすべてに対応する多くの専門職と十分な予算をもつ防災省を新設し、現在の自衛隊の三分の一は国際的な任務ももつ災害救助隊に改組しその災害救助力を活かす。

政治家は何をやっているのか

1月5日党首会談において「国会議員が被災地に行かないことを与野党で合意した」と伝えられる。本来、地方議員を含めて全政治家が駆けつけるべき。全政党が地殻災害・防災の初動の危機管理の学術判断の体制をもっていない。

原発事故の覚悟が必須であるにも関わらず、許されない初動の遅れ

人の命に対する不感症。決定的な誤り。人命救助を優先し、一刻を争うという民族的な感覚が殺されようとしている。

1能登地震はほとんどなかったか


地震本部のページ
「能登半島周辺では、1729年にM6.6~7.0の地震が発生し、能登半島先端付近で死者、家屋損壊や山崩れなどの被害が生じました。明治以降では、1892年のM6.4、1896年のM5.7、1933年のM6.0といった被害地震が発生しています。」とあるが、それ以外の記載はない。
 織豊期以前の古代中世地震火山データベースhttps://historical.seismology.jp/eshiryodb/を検索しても能登は一件もヒットしない。
 半島海岸の隆起地形などから、5000年に1回くらいの頻度で大規模な地震が推定。

2能登という地域についてーー日本海とその彼方には宝があるという伝承

*1
 能登は日本海対岸との縁が深い*2。
八二四年に*3能登に新羅琴・手韓鉏などが漂着した(『日本紀略』天長元年四月条)。

(イ)渤海(高麗)との関係*4

七六二年に始めて高麗(渤海)に派遣された船は「能登」と名付けられた(『続日本紀』天平宝字七年八月条)*5。
渤海使772*6、773*7、805*8、848*9、849*10、859*11など。相当数が能登に到着するので客館を造営(『日本後紀』延暦廿三年六月条*12)、帰国用の船材の船木山を設定(『三代実録』巻四十四元慶七年十月条)。

(ロ)遠洋漁業と貿易*13

鳳至郡光島浦~「鬼の寝屋島」(荒三子島)~「猫島」(舳倉島)ルート
鳳至郡光島浦(輪島の西)の海人たちは「鬼の寝屋島」に船団を組んで「一日一夜をかけて」40から50人でわたる。一人で「萬」の鮑を国司に貢納した。さらに「追い風一日一夜走り」「猫島」につく。専属集団だったが能登守藤原道宗の苛斂誅求によって越後国に逃亡(『今昔』31ー21)。
「猫島」は(加賀国熊田神社の漁民の領域で)「その島には人の家多く作り重ねて京のように小路あるぞと見えし」「遙かに来る唐人は、先ずその島(猫島)によりてぞ、食物を設け、鮑魚などを取りて、やがてその島より敦賀には出づるなる」(『今昔』26ー9)
鬼の寝屋島・猫島(舳倉島)
 済州島の海人たちの鮑取りは、済州島ー若狭ー(琵琶湖ルート)ー伊勢・志摩

(ハ)能登の鉱業・製鉄(佐渡金山の初見史料)

「能登国の鉄を掘る者」「鉄のすがねと云うなる物を取りて、国の司に弁ずる事をなむする」「佐渡国にこそ金の花咲きたる所あり」という情報によって能登守藤原実房が援助*14(『今昔』26-15)
『新猿楽記』(11世紀)には『能登釜」(室町期の『庭訓往来』まで名産品と)
『堤中納言物語』には「けぶりが崎*15に鋳るなる能登がなへ(鼎)』
(「けぶりが崎」は能登半島先端の珠洲岬最北の禄剛崎のことか(狼煙町という)。
能登国の租税として大釜がみえる(『平安遺文』1430、3358)*16(製塩用の大釜に使われていた可能性)
能登では3世紀から七尾で土器製塩が始まり、7世紀から10世紀は能登全域で行われる。現在でも珠洲で行われる*17

(ホ)日本海窯業の拠点。能登の珠洲焼(12世紀以降)


東海道の知多・渥美半島で海運を利用して広範な商域を確立した常滑焼
それを学んだ能登守藤原季兼の下で起業された。
 11世紀末の能登守源俊兼と子の季兼が珠洲で私領化した若山荘で大規模な珠洲焼の窯業拠点が作られ、以降、東日本海沿岸全域にその子窯が広がり、全域に海運によって珠珠焼が流通した。東海道側で、知多・渥美半島で常滑焼が成立・展開して広範な商域を確立したことをヒントに起業されたと考えられる*18。

(ホ)非農業的な富を追究する能登の国司たち


能登守藤原実房(鉱業)・藤原道宗(漁業・鮑)・藤原季兼(珠洲焼)など。

3能登の津波地震の伝承ーー「鳳至(ふげし)の孫」(『今昔物語集』二六巻12話)


 鳳至郡の住人、「鳳至(ふげし)の孫」の地震・津波の「幻視」と漂着の宝物の物語
(イ)地震の予感ーー「鳳至(ふげし)の孫」の「家の怪(さとし)」
 家に不吉な怪があって、占いによって、「中々家の内にあらば屋も倒れて打ち圧されむずらむ」「山際ならば山も崩れかゝりなむ。木も倒て打ち圧されなむ」として、従者の男をつれて「家を出でて海辺に行きにけり」。
(ロ)津波の描写ーー百丈(303メートル)~五十丈の高さの浪。
「沖の方より高さ百丈ばかりはあらんと見ゆる浪、立ちて来る」
「此浪の来なば、此郷には高塩上てなくならんずる」
「此浪の見始つる時は百丈許は有らんと見えつるが、近くなるままに長(たけ)のつづまりて五十丈許に成りにたり」
(ハ)津波の高さの低まりと浪の中の「火」
「此浪の中に大きに燃る火の出来にたる哉。稀有の態哉」
「燃る火の行き着かざる程は三十丈許に成たり。浪の長も二十丈(60メートル)許に成にたり」(海岸から90メートルのところで、浪の高さは60メートル)
「此浪四・五丈(12~15メートル)が内に来にけり。浪の長こそ二・三丈(6~9メートル)許に成にけれ、此に来にたり」
(ニ)「小桶」の漂着
 「浜際に立浪打ち寄る様に、さらさらと懸る音のほのかにす」
 浪はきえて「円(まる)にて黒き物のあるを見つけ」た*19。「小桶」が漂着していた。蓋を取ると宝物の「通天の犀角」に飾られた石帯が入っていた。
(ホ)問題ーー津波の幻視
 この津波は「鳳至(ふげし)の孫」には見えたが、一緒に浜にでた従者の男には見えなかったものと記述されている。つまり、能登に漂着した宝物についての不思議な話として記述されている。

4この津波伝承が信頼できる根拠


(イ)「通天の犀角」の物語は「関白」の宝蔵の物語であった。
「通天の犀角」とは白線の模様が天に上る様にみえるように鮮やかな犀の角。重要な宝物(スマトラ犀。角の長さ40センチ以上)。
『今昔』は、「鳳至(ふげし)の孫」の得た「通天の犀角」は、「鳳至(ふげし)の孫」の子どもの時代に能登守慶滋為政が奪おうとしたが、それは成功せず、次の次の能登守藤原実房が「関白殿」(藤原道長・頼通)に捧げ、摂関家の重要な宝物となったとする。
 能登の「通天の犀角」の献上が実際に行われ、この物語がそれを反映していると断言することはできないが、摂関家の宝物にまつわる物語として語られていたことは事実。
横田隆志「通天の帯の献上説話ー『今昔物語集』巻二六第12話をめぐって」
国際日本文化研究センター、2015年7月5日。共同研究「説話文学と歴史史料の間に」報告
(ロ)能登の漂着物をめぐる不思議譚という話型の影響
 能登は不思議な富の世界。猫島、佐渡の金鉱山の発見など
 『今昔』には「通天の犀角」について能登守を主人公にした同様の話がもう一つある。
 信心深い能登守某が浜辺から遠くに「丸なるものの小さき」「平桶」を見つけたが、従者たちは「何ともみえず」といったが、近くよってきたのを見ると「犀角」が入っていた。宝物を主人だけがみることができ、それを入手したという同じ話型。沈没し中国船の船荷か(『今昔』20巻46話)
 仏像の漂着の際の恠異などと同じ漂着物をめぐる恠異譚という話型
 この話型の中で津波が語られたために津波は「鳳至(ふげし)の孫」にのみ見えたという語りになった。原話が地震・津波の物語であった可能性は高い。

(ロ)『今昔』の時代に津波が広く認識されていたことを示す貴重資料。


 接岸する津波の高さ二・三丈(6~9メートル)という認識
 津波の浪の中の「火」
869年の貞観津波(3,11東日本太平洋岸地震津波)でも海に「流光」
津波が火光をともなうという伝承
 現実に能登での津波の伝承が語られていたことは確実

おわりにーーー「忘れられた」ということ


 『今昔物語集』は文学的伝承史料であって、能登の鳳至郡の海岸での津波という記憶の存在のほかは、その現実・規模・時期は不明である。
 「鳳至(ふげし)の孫」の子どもから「通天の犀角」を奪おうとした能登守慶滋為政は1006年に能登守任命であるから、「鳳至(ふげし)の孫」自身が「通天の犀角」を発見したのは、物語の設定を信じれば10世紀のこととなる。それをそのまま信じることはむずかしいが、一〇世紀頃に能登津波の伝承があったことは認めてよい。
 しかし、この伝承は長い歴史の中で忘れられていた。同じ『今昔』の佐渡金山の史料は有名だが、津波史料は忘れられていたことになる。私にとってはせめて昨年までに、以上を論文にして報告できなかったのは痛恨の経過だが、この『今昔』の津波史料は地震火山列島に棲む民族の歴史の記憶に位置づけるべきものだと思う。

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