八六九年地震(貞観地震)の史料   3・11の翌々日のブログ。

 以下、2011年3月13日のブログです。3月18日の東大地震研の研究集会にでたら冒頭の佐竹健二氏の報告で、このブログ記事がとっぷにでて驚いて以来、地震研究を始めました。

 先ほどのテレビで「貞観地震」という言葉を聞いた。貞観地震の史料を紹介する。貞観年間は九世紀、859年から877年。問題の東北の貞観地震は貞観十一年、西暦でいうと869年にあたる。
 九世紀が「大地動乱の時代」であることは、『かぐや姫と王権神話』で論じたが、そこでは火山が中心であった。火山活動が活発であるということは、九世紀が地震の激発期であったことも意味している。
 三月一一日の列島東海岸大地震の状況を知ると、若干でも歴史データを記しておきたいと思う。そこで、九世紀の地震と貞観地震のデータについて、しばらく読みの作業を報告することにする。
 まず、「貞観地震」といわれているものは、下記の『日本三代実録』(『国史大系』)の貞観十一年五月廿六日条に記録がある。これはユリウス暦でいうと869年年7月9日にあたる。

 陸奥国の地、大いに震動す。流光、昼の如く隠映す。このころ、人民叫呼して、伏して起きることあたわず。あるいは屋たおれて、圧死し、あるいは地裂けて埋死す。馬牛は駭奔(驚き走る)し、あるいは互いに昇踏す。城郭・倉庫、門櫓・墻壁など頽落して顛覆すること、その数を知らず、海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里、浩々としてその涯を弁ぜす。原野道路、すべて滄溟となり、船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり、資産苗稼、ほとんどひとつとして遺ることなし。


 「船に乗るいとまあらず、山に登るも及びがたし、溺死するもの千ばかり」というのは歴史史料に登場する津波の恐ろしさを語る文言として記憶の価値があると思う。
 津波の描写は「海口は哮吼し、その聲、雷霆に似る。驚濤は涌潮し、泝洄(さかのぼる)し、漲長す。たちまちに城下にいたり、海を去ること数十百里」という部分になる。湾口で大きな音がしたが、それは雷のようであった。そして、高波がわき起こり、陸地に上ってきてふくれあがる。たちまちに城下にまで到来したという訳である。城下の「城」とは多賀城のことで、陸奥国府がおかれていた。

 なお、この陸奥国の地震は、同じ史料『三代実録』の同じ年、十月十三日条にも記載がある。これは陸奥国復旧の困難な状況が都に伝わり、天皇の詔がだされた中にあるもの。「聞くならく、陸奥国の境、地震もっともはなはだし、あるいは海水暴溢して患をなし、あるいは城宇頽壓して、殃の至りなり」などとある。この陸奥国の境とは、陸奥の国の境の内という意味で、陸奥国内が広く災害にあったという意味であろう。それ故に、今回の地震・津波と同じく、福島から三陸海岸全体に被害が及んだということを示している。なお地震科学の調査によれば茨城県北部でも貞観津波の堆積層が確認されているという(「さかい」という言葉は、現在ではほとんど境界という意味だが、昔の使い方では「境内」という意味であると思われる。陸奥国の国境地帯という訳ではない)。この史料で興味深いのは、被害の救援は「民・夷ともに」支援せよという命令がみえることで、被害が「夷」(後のアイヌ民族)にも及んだということが分かることである。
 地震データについては、「古代中世地震史料研究会」(代表石橋克彦、地震学・史料地震学)の作成した「古代・中世地震・噴火史料データベース」が、「静岡大学防災総合センター 」からオープンされている。これをみれば、この年の前後に、ほとんど毎年、京都で体感される地震があったことがわかる。
これらの史料は今後の余震をふくむ地震の予測、さらに火山活動との関連にいたるまで、正確な分析を必要としている。
 私は、歴史家として、「民族」あるいは「国民」は、理論的にいっても、共同体としての側面をもっていると考えている。その共同性の中身は自然の共同性、運命性を重要な中身としている。同じ自然の中で生活する同じ動物というのが、この共同性ということの意味である。自然に規定された共同性ということである。

 一昨日、夜、東京でも、歩いて帰るという選択をした人々が道にいっぱいに歩いていた。こういう経験は、我々が同じ動物であることを実感させる。
 九世紀の地震史料をみていても、そのような相互意識を文化的で科学的な歴史意識の裏打ちをもったものにするために、歴史学のなすべきことが多いことを痛感する。
 東北の人々、そして一昨日、地震直前に電話で話したI先生など、東北の歴史学の仲間たちの無事を祈る。

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