船弁慶の船と鎌倉の段葛(置道)について

下記はずっと昔の講演原稿ですが、鎌倉の段葛について、先日のブラタモリをみました。私見は河川・海辺の工事の一環で、早くから「置き石」を津料としてとったことの反映という側面もあるのではないか。鎌倉の海民の風習との関係を考えたいということです。なお『石山寺縁起』の大津の風景に石材の湖辺への貯材があったような。


  船弁慶の船      『国立能楽堂』(一二三号)平成五年一一月
 いうまでもなく、能の船弁慶は、兄頼朝の急追をうけて西国に逃げのびようとした義経の船が、海上で平家の怨霊に襲われて難破しそうになったという設定である。『吾妻鏡』には「義経、大物浜において乗船の刻、疾風にわかに起こりて逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む」(文治一年十一月六日条)とあるから、実際には、この難船事件は浜を出たとたんの話であったと思われる。また『吾妻鏡』は続けて「伴類分散、豫州に相従うの輩、わずかに四人、いうところ、伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵房弁慶ならびに妾女字静一人なり」と述べているから、この船旅の中で弁慶が大きな役割を果たしていたというのも事実であるかもしれない。
 ところで、ここで考えてみたいのはこの事件に関する『義経記』の記述であり、それももっぱら義経と弁慶が乗った船についてである。意味を了解できない部分も多いが、『義経記』のこの部分は、ほとんど史料のない中世の操船法についての説明を含んでおり見逃すことができない。
 義経主従は、播磨国書写山の山頂に懸かった「悪風」、「平家の死霊」の篭もった風について、「黒雲の俄かに禅定(山頂)へ切れてかかる、日だにも西へ傾けば、定めて大風と覚ゆるぞ」と語りあい、また「摂津国武庫山颪」が吹きつのるのをみて「風の強きに帆、おき中に引けよ」と下知し、「浜浦より立ちたる風の時雨につれて来る、それ聞くや梶取、後より風の来るぞ、波をよく見よ、風切らせよ」などと船頭を激励している。ここには、彼らが全智をしぼって荒海を乗り切ろうとする様子が生き生きと描かれている。いうまでもなく義経自身、船戦の手慣れとして描かれているが、従者の内でも片岡八郎は「常陸国鹿島行方のといふ荒磯に素生したる」「屈強の船乗」、常陸房海尊は園城寺の悪僧で「近江のみづ海」で鍛練した「究竟の梶取」とされており、また、弁慶も熊野別当「弁せう」の子どもと設定されていて、その海の知識が有名な熊野水軍仕込のものであったことが示唆されているのである。
 結局、彼らの船は深夜の突風で帆柱を折られて、もとの大物浦へ吹き戻されるのであるが、問題の発端は「帆を下ろさんとすれ共、雨に濡れて蝉本つまりて下らず」ということにあった。「蝉本」とは帆柱の先に付けられた帆綱を通す滑車のことで、そこが詰まって帆を下げることができなかったというのである。そういうことはしばしば起きたようで、弁慶は「西国の合戦の時、度々大風に会いしぞかし、綱手を下げて引かせよ、苫を捲きて付けよ」と下知している。おそらく、「綱手(綱引の人夫)の位置を下げ、綱の角度を変えて引いてみろ。ともかく先ず苫帆を柱に巻いてしまえ」という意味なのだろう。
 嵐と戦う船を描いた中世の絵としては、図の「山王霊験記」が興味深い。よく見れば分かるように、そこでは木で作った三角形の叉手のようなもので帆柱を支えながら倒している。中世の船では、帆走しない場合は、根本の柱寄のところから帆柱を倒すことができるようになっているのである。『義経記』では、そこに行く前に、まず、片岡八郎が帆柱に上って「蝉の綱」を切ろうとしたのであるが、丁度登りきったところで、突風が吹いて帆柱を折られたのである。ここで、片岡八郎は、帆柱から落ちながらも、見事に「八の綱」を「かなぐり落とした」というが、この「八の綱」とは、帆柱の突端と船の舳・艫を「八の字」を描くように結んで帆柱を支える綱のことであろうか。ともあれ、この難船事件において東国の「荒磯」育ちの八郎がヒ-ローの役割を果たしているのは興味深い。
 このような帆や綱の扱い方の実際は、近世ではすでに研究があるかもしれないが、中世については全く不明なままに残されている。今後の研究に委ねたいと思う。以下、私が述べてみたいのは、船の疾走を止めようとして、義経たちが海に投入した「碇」についてである。『義経記』には「河尻を出し時、西国船の石多く取り入れたりければ、葛を以て中を結ひ投げ入れたり」とある。つまり、碇の代わりに河尻の港で積み込んだ「西国船の石」に葛綱をつけて海に投げ込んだというのである。これは河尻の港には、石の大量の備蓄があったこと、そしてその石は西国船が利用するものであったことを示している点で、たいへん重要な史料である。
 いうまでもなく、中世の西国船は大量の米を京都・畿内に搬入した。問題は戻り船であって、その時、畿内で仕入れた荷を積載しても、船が軽すぎる場合、船を安定させるために底荷として石を積み込んだのである。特に重い荷物を積まない軍船にとっては、この底荷石の積載は、どうしても必要なことであり、そのために、義経の船は大量の石を積み込んだというのである。そして、港の石といえば想起されるのは、西国船の出入りする兵庫津では関税のことを「置石」と呼んでいたことである。古くから港では「石椋」の防波堤を構えたが、そのための石材徴取を理由にして関税が取られていたのである。
 ここには港湾と船運に関わって大量の石材が流通していたことが明らかである。私は、『石山寺縁起』(巻二)に描かれた大津浦の町屋の傍らに積んである石材は、こういう用途に関係していたのではないと考えている。また、有名な鎌倉の和賀江津の防波堤の石椋の石も、こういう石の流通の中で集められたものに違いない。そして、そこではおそらく多くの石工たちが活動していただろう。鶴岡八幡宮参道の段葛の石もやはり「置き石」というそうだが、それは東国鎌倉でも、西国と同じような港湾管理が行われていたこと、石工たちが同じような労働をしていたことを示すのではないだろうか。
 さて、話は、「船弁慶」とはまったく関係のないところへ散らばってしまった。もっと弁慶にそくした話にするべきであったかもしれないが、紙数も尽きた。これでお許しいただきたい。

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