「能」の形成と渡来民の芸能・・・聖徳太子信仰と観阿弥・世阿弥

 こういう論文を書きました。ゲラがでましたので、要約を上げておきます。林屋辰三郎『中世芸能史の研究』を勉強しました。

 世阿弥は秦元清といったが、その家系は渡来民、秦氏のうちで芸能を職とする流れに属する。日本芸能史において渡来民の位置は一四世紀までは大きく、七~九世紀は百済王氏、九世紀以降は秦氏がその中心を担った。百済王氏は日本の文化や芸能に大きな影響をあたえたが、百済王氏が国家中枢から外れても東アジア楽舞は王朝文化のパフォーマンスの中枢を占めつづけた。それを象徴するのが仁明天皇・村上天皇の楽舞好きであるが、秦氏は村上の段階で散楽を支えた。この段階で秦氏は『風姿花伝』のいう秦河勝神話、そして聖徳太子伝説をもって渡来芸能民の位置を安定させた。このような秦氏の位置はより自由な芸能活動を行った渡来系の傀儡子集団にとっても大きな支えであったろう。韓半島における後三国の内乱、そして一二世紀には始まったと考えられる東アジアの「倭寇」的状況の中で、韓半島の楊水尺などとよばれる芸能民が、相当数、九州に渡来し、本来渡来的な性格が強かった日本の芸能に、さらに新たな血と技芸を加えていったとも考えられる。
 演劇としての「能」は、それを前提として発生したが、大きかったのは北条時代に律宗が伝統的な仏神事猿楽の中枢である大和猿楽に浸透したことであった。秦氏の河勝信仰と西大寺・法隆寺などの律宗が強調した太子信仰とが響き合い、王家と北条氏・足利氏に衝撃をあたえた。足利尊氏から義満の宗教意識において太子信仰の位置は大きく、それが観阿弥の登場において相当の意味をもったものとしてよい。律宗は武家に近く、かつ「死」を直視した独特な宗派であり、「夢幻能」の雰囲気の一定部分はそこに由来している。従来、「能」と宗教の関係については時宗・禅宗などの位置が強調されてきたが、発生期においてはむしろ律宗の位置をこそ重視すべきであろう。律宗は中国の宋で始まった新たな東アジア仏教の流派であり、この意味でも「能」の形成は東アジア世界の動向に直結するものであったことに注意したい。

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