歴史を通して社会をみつめる

 東京大学出版会の教育のシリーズ物(何だったかは後に調査)
       はじめに
 「歴史を通して社会をみつめる」。しかし、そもそも私たち「現代日本人」は歴史を通して社会をみつめているだろうか。現代日本で生活する人々のうち、どれだけの数の「大人」がそうしているだろうか。そしてこの社会に生まれた子どもたちにとって「歴史を通して社会をみつめる」とは、どういうことなのであろうか。
 過去は、私たちの意識の背後に客観的に存在する。しかし、過去は意識の中にそのままの形で反映可能なものではない。過去は、現在からは必然的に認識不能もしくは認識不良の部分を含み、またその像は、様々な事情で簡単にゆがんでしまうような、きわめて繊細なものである。現在認識の「ゆがみ」が歴史認識の「ゆがみ」と相互規定的であることはいうまでもない。そのような「ゆがみ」は、多かれ少なかれ順次に、あるいは時を越えて全時代の歴史認識の構造に波及していく。そして歴史認識はしばしばそのような複雑な「ゆがみ」をはらんだまま「民族的」な文化複合の枢軸部分を形成し、そのようなものとして温存される。たとえば、戦前日本を蔽っていた皇国史観は、明らかにゆがんだものであるが、それは戦前社会の文化全体の中にそれなりの位置を占め、そのようなものとして歴史文化の全構造を固定していた。
 これは戦前のみのことではない。歴史学の立場からは、日本の現代社会の「歴史的過去に対する認知」も、たいへん脆弱なおぼつかない構造をとっており、それに対応して現代日本の「歴史文化」は多くの虚偽に満ちているというほかない。歴史認識の上述のような特質からしても歴史学はけっして強い学問ではないが、しかし、「歴史を通して社会をみつめる」ということは、同時に、このような歴史文化のあり方を正面から問いなおすこともなければならない。
 本稿で対象にするのは、日本の中世、はるかな過去の時代である。それは一面で、右のような問題の提出をいよいよ困難なものとする。しかし、たしかに過去の社会の認識は困難かもしれないが、私は、時代をさかのぼればさかのぼるほど、よい意味でも悪い意味でも、社会の構造は単純化していくと考えている。中世の社会は、近世・近現代日本の複雑に重層した歴史が経過する前の時代の社会である。その社会の構造と特質は、それだけでも、まだ相対的に理解しやすいものであるはずである。それ故に、その社会の構造を象徴する諸事実を見据えることに成功するならば、「歴史を通して社会をみつめる」、しかも子どもたちの目からみて「歴史を通して社会をみつめる」という大変にむずかしい問題にに取り組む道も開けていくかもしれないと思う。
Ⅰ王 と「婚姻」
 最初に検討したいのは、日本の歴史文化における「王の物語」の問題である。私は前近代社会における「王」の具体的なあり方は、どうしても教えなければならないことの一つだと思う。ヨーロッパではさまざまな王の個性的な性格の物語が歴史文化の中で大きな位置を占めている。またその物語の中では、王と王妃の婚姻と家族が大きな位置を占めている。これに対して日本の天皇のイメージは、何人かを除いてきわめて没個性的であり、物語性を欠如している。これはおそらく半分は現実の反映であり、半分は近世・近代の天皇の権威のあり方に規定されたものなのであろう。しかし、それにしても日本の天皇をめぐる言説の中で、「王と王妃」という文脈がほとんど現れないようにみえるのはどうしたことなのであろう。ここには王の婚姻とセックスをめぐるある種のタブーが働いているのではないだろうか。
 このタブーがもっとも強く働いてきたのは、いうまでもなく平安時代の王たちの行動をめぐってであった。国文学者の今井源衛が述べているように、戦前、皇国史観隆盛の頃、平安時代前期の村上・冷泉・円融・花山などの天皇は柔弱な性格破綻者あるいは半狂人として、『源氏物語』の描く「色好み」の天皇イメージと二重化して、あたかも「国史上の恥部」であるかのような扱いをうけていた(今井『花山院の生涯』、桜楓社)。そして、それに対応して、平安時代前期の政治史は摂関家の「専横」が優越していく過程、摂関家が王の「婚姻と性」を左右し、半ばはスポイルする過程として描かれることが普通であった。この名分論的な見方、いわば「摂関政治中心史観」というべき見方は、「優美な平安時代・王朝イメージ」と密接に結びついて、現在でも一種の国民的常識となっている。 そして,現在では,それが逆に「象徴天皇制」を支える歴史イデオロギーとしての「天皇不執政」論(黒田俊雄「天皇制研究の新しい課題」、『現実のなかの歴史学』、東京大学出版会)の重要な条件となっているのであることは否定できない。
 このような歴史観は全体として子どもたちの歴史意識を誤導するものであり、歴史事実を反映していない。この時期の摂関家の覇権は、いわゆる「安和の変」を契機に、村上天皇の子どもの冷泉と円融の兄弟の系統が何代かにわたって交互に即位したこと、つまり王統の分裂・迭立を条件としていたである(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』、吉川弘文館)。そして、「摂関政治中心史観」「天皇不執政」論は、客観的には、この王統の分裂の問題、そしてそれと絡みあった天皇の具体的な行動と王家内部の対立を語ることをタブー視することに結びついていた。
 平安時代の政治史は最初から最後まで、そのような王家内部の対立に彩られており、結局のところ「摂関時代」から「院政時代」への変化は、王位継承をめぐる闘争の隠しようもないような激化に対応しているのである。しかも、その対立は院政期の王の「性」の逸脱と深く結びついていた。それを象徴するのは、平安時代政治史の決定的な転換点、保元の乱の背景となった崇徳上皇の出自の問題である。彼は公式には鳥羽の子どもということになっているが、実際には曾祖父・白河が鳥羽の妻・待賢門院璋子に生ませた男子であったとされている。鳥羽は崇徳のことを「叔父子」、つまり子どもであると同時に叔父である存在と呼び、その歪んだ心理をかくさなかったという(『古事談』)。異様な話ではあるが、白河と待賢門院璋子の関係がもっぱらの噂の種であったことは事実であり、現代の研究者は崇徳のこのような血統を確実視している(角田文衛『待賢門院璋子の生涯』、朝日選書)。そして、崇徳は曾祖父実父・白河に溺愛されたが、白河の死後、父の鳥羽および継母の美福門院得子によって圧迫される。
 この点からみると、保元の乱の原因は、孫の妻との間に儲けた男子に王位を継承させようとした白河の妄執に遠因があったということになる。別稿でみたように、このような白河の乱倫には、父・後三条の後嗣をめぐる暗闘と王家内部の血統コンプレクスともいうべき独自の事情があり、院政期政治史の基調をなした王家内部の対立の複雑化を象徴する事柄である(保立「後白河院の生涯と性」『朝日百科、日本の歴史別冊、歴史を読みなおす③、天武・後白河・後醍醐』)。近衛天皇を亡くした鳥羽と得子は、崇徳との対抗のために、「近衛の御門の代わり」として得子の養子であった二条に王統を引き継ごうとし、それまでの中継ぎとして後白河を即位させたのである。ここに崇徳上皇の陣営と皇太子・二条天皇・後白河の陣営の対立が形成され、鳥羽の死を契機にして内乱が勃発したのである。保元の乱というと崇徳・頼長・為義の陣営と後白河・忠通・清盛・義朝の陣営との対立というのが教科書の説明であるが、王位継承をめぐる争いの全体的経過は十分ふまえておくべきだろう。
 次に問題となるのは保元の乱に引き続く平治の乱の理解である。平治の乱の発生因については、保元の乱とは違って、もっぱら武家相互の争い、つまり源義朝と平清盛の争いが基本となって、それに藤原信頼と信西入道(藤原通憲)の間の対立が結びついて発生したという説明がされることがある。しかし、平治の乱の伏線にも王家内部の対立、つまり、後白河とその子・二条の間の対立が存在した。先述のように、後白河は本来は中継ぎの天皇の位置に過ぎなかったのであり、このような立場におかれた後白河、二条の父子間対立が貴族の間での対立に結びついたのである。藤原信頼と義朝の側は二条天皇派の有力貴族と連携することによって、後白河の乳母の夫として専権をふるった信西入道(藤原通憲)、そして清盛を圧服しようとしたのである。さらに平治の乱のもう一つの要因として忘れてならないのは、後白河の藤原信頼に対する異常なまでの寵愛であり、それは確実に後白河の男色的性好に根ざしていたといわれている。この面からいえば、平治の乱は後白河の乳母の夫・信西と、男色の相手・信頼との間での争闘であったのである。
 私は、以上のような白河・後白河の性的行動、近親間の性関係や男色というような問題も歴史事実であり、政治史の動向に重大な意味をもった以上、少なくとも高校の教材として取り上げるのに何の問題もないと思う。また、現代の青少年は人間の性的行動の多様性の話題から隔離されて生活している訳ではない。教育の場のみを飾ることは、一つの社会的な嘘つき行為にしかすぎない。それが「王の物語」としての品格を欠くのはやむをえないことである。
 現在の歴史文化の中では、平安時代後期の政治史は、以上のような崇徳・後白河・二条などの「王の物語」は語られない。その代わりに語られるのは、もっぱら「武家の発達」、源氏や平家の「成り上がり」の物語であり、清盛そして頼朝・義経の人物や行動が語られるのである。これは先述の「摂関政治中心史観」に対比していえば、いわば「武士発達中心史観」ともいうべきものである(参照、黒田俊雄「中世の国家と天皇」、『黒田俊雄著作集』①、法蔵館)。そして両者のキーとなっているのは、摂関家や平氏・源氏の「専横」や「忠誠」などの名分論的観点であって、それに「華やかな貴族文化」や「盛者必衰の理」などなど、便宜のものをミックスしたものが平安時代ということになり、そこでは王の物語はあたかも藤原氏と源氏・平氏の歴史のネガの位置におかれることになる。
 簡単にふれておくと、まず清盛については、今でも社会通念は「驕る平家は久からず」なる言葉以外に知識をもっていないかのようである。しかし、清盛の経歴においてもっとも重要なのは、彼が先述のように中継ぎの天皇に過ぎなかった後白河の王統を確立することに貢献し、それによって立身したという事実である(龍粛『平安時代』、春秋社)。二条と後白河の父子確執は永万二年(一一六五)の二条の死まで続いたが、その力関係の転換点となったのは永暦二年(一一六〇)である。この年、二条はいわゆる「二代后」の立后、つまり故近衛天皇の妻であり「天下第一の美人」の誉れの高かった多子を妻に迎えて、自己の「近衛の御門の代わり」としての地位を誇示する挙に出たが、年末にはいまだに隠然たる勢力を有していた養母・美福門院得子を失ってしまう。
 逆にこの年、後白河は清盛の妻・時子の妹で文官平氏の出身の平滋子(後の建春門院)を後宮に迎え、翌年には皇子・憲仁(後の高倉天皇)が生まれる。後白河は『今鏡』(巻三)が「たいらの御姓の国母、かくさかえさせ給」「みかどきさきをなじうじにさかえさせ給める」とするように、平家と結合することによって自己の王統を確立するのである。平家の側からいえば、平家権力の正統性は、その出発点から、新たな王統、後白河・高倉・安徳と続く王統の正統性とイコールであった。平氏政権が貴族化し、驕りを極めることによって倒壊したというような立論は、この出発点をふまえていない点でまったくの俗論なのである。しかも、『平家物語』にもあるように、実は清盛自身が白河天皇の落胤であるといわれており、これも現在の中世史学によってほとんど事実と認められている(高橋昌明『清盛以前』、平凡社)。
 次に、頼朝はおそらく現行の教科書の中でもっとも評判のよい人物の一人だろう。地方武士の期待をうけて全国を統一し、「簡素」な幕府機構を創設したとか、平氏とは違って朝廷での地位は望まなかったとか書いてあるのだから、子どもたちも何となく偉い人物と思っているに違いない。これは「頼朝は、平家が武士の本分をわきまへず、おごりにふけって、もろくもほろびたのをよい戒めとして、もっぱら質素倹約を実行し、部下にもそれを守らせました。またつねに朝廷を尊びーーー」(文部省『初等科国史』一九四三年発行)などという名分論史観とたいして変わらないイメージである。
 しかし、頼朝が婚姻によって王家と結びつこうとしたことは、まったく清盛と同じである。頼朝の長女は大姫といい、最初、木曽義仲と頼朝が軍事的な同盟関係にあった時期、義仲の息子・義高の許婚となった。しかし、元暦一年(一一八四)一月、義仲が敗死したしばらく後、四月に義高と大姫の「帳台(寝室)」が頼朝の命令によって襲撃され、義高は殺害される。私は、義高の殺害の直接の前提となったのは、殺害の十日ほど前に、頼朝が朝廷から従四位に叙されて貴族社会への復帰の展望を確保したことにあると考えている。つまり、頼朝は大姫の新しい嫁入り先の見込みが出てくるや否や、婿を殺したのである(保立「日本国惣地頭・源頼朝と鎌倉初期新制」、『国立歴史民俗博物館研究報告、三九集』、一九九二)。そして、早くもこの八月には、時の摂政・藤原基通が「法皇の仰せ」によって「頼朝上洛の時、新妻(つまり大姫)を迎えんがため」に、五条の邸宅を修築して移住したという噂が京都中を駆けめぐる。
 この結婚話がどちらから破談になったのかは分からないが、実は基通は後白河の有名な男色の相手で、さすがの頼朝も、それを嫌ったのかもしれない。ともかく頼朝は基通と対立する兼実を、その「徳政」のパートナーに選び、大姫の婿候補としては後鳥羽天皇を選んだのである。頼朝にとっての先例が、安徳を外孫にもった清盛であったのはいうまでもない。もちろん、この大姫と後鳥羽の政治的婚姻は京都の情勢や大姫の精神的失調や死去、頼朝の死去などの事情によって実現しなかったのではあるが、ともかく、この事実を教えておかないことには、政治史の授業を鎌倉時代における「摂家将軍」「親王将軍」の話に順調につなげることはむずかしい筈である。
 この大姫と義高の話は、その間を裂いた頼朝の悪役振りも含めて、戦後一時期までは絵本などにも描かれてよく知られていた話であったが、戦後、頼朝に新しい社会・国家の建設者・革新者というイメージが追加され、さらにいわゆる判官贔屓の歴史文化も薄くなっていくなかで、ほとんど国民の歴史常識からは消えてしまった。私は、それを大姫嫁入問題とあわせて新たな形で復活することが必要であると考える。ともかくも、平安時代政治史は、頼朝にいたるまで王との婚姻という通奏低音につらぬかれているのである。
Ⅱ武士と暴力・戦争
 第二のテーマは、中世の「武士」の実像と暴力の問題である。最近、野口実は、『武家の棟梁の条件』という興味深い著書の序文で「武士好きが昂じてじて日本史研究の門を叩いた」と自己紹介し、「日本人は相変わらず武士が好きである。プラスイメージをもっている。テレビでは、御存じ水戸黄門をはじめ、NHKの大河ドラマも主人公はみんな武士」という歴史文化の特徴を指摘した上で、「けれども、武士の賛美は、武士支配の時代の社会のあり方を知らず知らずに肯定する意識を再生産する。そしてこの意識が、女性差別・体罰肯定・集団主義・事大主義等々の日本人の内面における前近代性の背景となっていることは否定できない」と述べている。
 ここまでいわれると、私などは「悪いのは武士だけか」と一言したくなってしまうのではあるが、それはさておき、現在でも「歴史好き」の子どものほとんどが「武士好き」であるという事情があり、この問題は、中世史の歴史教育にとっては深刻な問題である。現代の歴史文化の中にもそういう方向に子どもたちを誘導する仕掛は満ちみちている。たとえば、中学校の教科書には「鎌倉時代の武士は、板葺きで簡素な武家造といわれる住居で、質素な生活をしていた。自分の領地を守り、奉公をつくすためにつねに弓矢や馬などの武芸によって心身をきたえていた」(『新しい社会』、一九九四、東京書籍)とある。高校の教科書においても、「武士の生活は質素で、みずからの地位をまもるためにも武芸を身につけることが重要視され」(『新詳説日本史』、山川出版社、一九九〇年)、「武士はひごろは農業生産を中心とする村落生活をいとなんでいた。(中略)。武士たちは質素でかつ剛健の気風が求められた」(『詳解日本史』、三省堂、一九九〇)などという叙述は一般的である。前者の『新詳説日本史』は、「当時の武士の質素な生活ぶりを示す説話」として「頼朝が家来の華美な衣装をみて、その袖をきりとり、ぜいたくをいましめた話」や「執権北条時頼が一族の大仏宣時をむかえて、味噌を肴に酒を飲んだ」という『徒然草』の一節をも上げている。
 これらの叙述は、有名な『くにのあゆみ』(一九四六年、文部省)と大筋ではほとんど区別しがたいものである。『くにのあゆみ』は、このような「質実剛健」論の根拠として戦前の修身教育の中でさんざん使われた時頼の母松下禪尼の逸話、つまり彼女がわざと明障子をまだらにはって執権北条時頼に倹約の道を教えたという『徒然草』の一節や、謡曲の「鉢の木」で有名な時頼の廻国伝説を上げている。その原型はたとえば椿時中編『小学国史紀事本末』(一九八四年出版)が、右の時頼と大仏宣時との質素な酒宴の話や廻国伝説、さらに「時頼による」青砥藤綱の登用などにふれ、「其倹素皆此類なり」としているように、明治時代の教科書にさかのぼるものである。もちろん現在の教科書叙述はここまで古めかしくはないが、やはり戦前以来の武士道賛美の習慣、「徳目的」な武士史観の伝統に流されているといわざるをえない。
 これに対して、最近の中世武士論は武士の身分的属性としての暴力を徹底して即物的に描くという方向にある。それによって、ややもすればロマン的に描かれがちな「合戦」「戦争」のイメージは大きく修正されようとしている。たとえば、有名な一の谷合戦の鵯越えは義経と関東武士の勇猛さを語るものとされてきた。しかし、その実態は「和平交渉」中の不意打ちと乱戦であって、少なくとも伝統的な戦闘の方式とは異なるきわめて不人気な戦術であった。またこれも有名な那須与一の扇の話の本当のテーマは、その弓射の美技自体にあるのではなく、その直後、与一の武技に感じて平家の船上で舞を舞った男が「これをも仕れ」という義経の「御諚」によって心なく射倒されたことにあったのではないか。『平家物語』は、読み様によってはそのような「兵の道」の様変わりに対する怨嗟の書ともいえる。石井紫郎「合戦と追捕」(『日本人の国家生活』、東京大学出版会)が述べるように、このような冷酷さ、不意打ち、そしてだまし討ちの戦法は、平安時代末期、治承寿永の内乱の中で、「公戦」・「天皇のための戦い」という建前の下に一般化したのである。そして、川合康「治承寿永の『戦争』と鎌倉幕府」(『日本史研究』三四四号)がいうように、この治承寿永の内乱は、物量と工兵隊組織を基軸とする惨酷な殱滅戦の様相を呈していた。ここを経過して国家権力の全体が軍事化する中で、鎌倉幕府は成立したのである。
 このような事実を無視し、「徳目的」・ロマン的な武士史観を放置していては、中世の国家権力が「武士」の暴力を基軸として組み上げられている事実を子どもたちに伝えることはできない。また、内乱の過程を結局のところ平家追悼軍の勇敢さなどということで語ってしまうとすれば、それは一方的な勝者の論理に過ぎない。それは「源平合戦」の時代のことのみではない。池上裕子は、戦国大名論にふれて、日本社会の歴史意識は戦国大名の自己正当化の論理、どんなに残虐非道で大量殺戮をしようと、謀略的であろうと勝者が英雄であるという論理に四〇〇年立った今も呪縛されていると述べている(『戦国の群像』、集英社)。戦国大名を今でも郷土の英雄であるかのように扱う風潮は、その武力が残酷な物量戦に対応する性格を有していた事実への無知を条件としている。万が一にも地域史の教育がそのダメオシをするようなことがあってはならないだろう。
 もちろん、武士論を地域史の教材にすること、中世を通じてその地域の領主であった武士の家柄について具体的な教材を整理することは、中世社会の構造を伝えるためにも是非必要である。そこでは自治体史の史料、武士の「館址」など身近な史料を利用できる場合も多く、「合戦」などのみでない地域社会の日常生活に踏み込むことも可能となる。しかし、その場合にも、質実剛健な農村生活という安易なイメージにひかれることは歴史意識の誤導といわざるをえない。たとえば図①は教科書によく掲載されている『粉河寺縁起』に描かれた長者的武士の屋敷の櫓門の風景である。これも、見様によっては、「簡素な武家造といわれる住居」「領地を守り、奉公をつくすための武芸によって心身を鍛える」などということになるかもしれない。しかし、「腕首を握り」、物を捧げ持って門にむかう民衆の姿は、領主の門前暴力に対する畏怖の感情を表現している。図②の『男衾三郎絵詞』の場面が詞書で「馬庭のつえになまくひたやすな。切懸よ。此門外とをらん乞食・修業者めらは、やうあるものそ、蟇目鏑矢にてかけたてかけたて、おものにせよ」と説明されているように、武士館門前はきわめて暴力的な場所であり、この『粉河寺縁起』の場面は、その門前に畏れ気もなく訪れた「修業者」の「小童」の姿を強調しているのである。貢納物を持参する民衆の姿は、それとの関係で解釈されねばならない。
 別稿でふれたように(『中世の愛と従属』、平凡社)、これらを含めて、中世の絵画史料にはあたかも「広域暴力団の親分」ともいうべき武士の実像を描き出した一連の場面がある。ここで詳しく提案する用意はないが、絵画史料の使用はさらにいろいろ考えられ、たとえば平安時代の「武士の登場」のところで、図③の『後三年合戦絵詞』に描かれた首棚の絵を使って授業することは是非試みる価値があるだろう。そして、鎌倉幕府の成立にふれる時には、奥州合戦でも沢山の首棚が作られたこと、そして、奥州藤原氏の当主・泰衡の首は長さ八寸の鉄釘で打ち付けられたが、それは前九年合戦で頼義が貞任を梟首した時の先例に従ったもので、首役人にもその時の子孫を召し出したというようなことを説明してみたいと思う(参照、川合康「奥州合戦ノート」、楠蔭女子短期大学紀要、『文化研究』三号、一九八九年)。
Ⅲ下人と社会的従属
 第三のテーマは、前近代における社会的な従属と人身的な不自由の問題である。考えてみると、私の子どもの頃には、まだまだ封建的な家族制度や地主制の一部が社会に残っていたと思う。そしてたとえば「安寿と厨子王」「鉢かつぎ」「物ぐさ太郎」「謡曲・隅田川」のような中世の社会的弱者たちの姿を髣髴させるような民話・童話も生き生きとした生命をもって語られていたと思う(なお「物ぐさ太郎」については、保立「ものぐさ太郎から三年寝太郎へ」、『国立歴史民俗博物館研究報告』五四集、を参照されたい)。これと比較すると、現代の子どもたちは、人間が人間に人格的従属するという事実を具体的にイメージすることがむずかしい社会の中に生きている。しかし、人間の人間に対する人身的・肉体的な隷属、人身的不自由という事実を伝えることは、前近代史の歴史教育にとってはどうしても必要なことである。そこで以下、『御伽草子』の「鉢かつぎ」と若干の絵画史料を素材として、中世の従属者・「下人」、特に女性の下人の実像を浮彫りにしてみたい。
 まず「鉢かつぎ」の話であるが、この話は、私の子どもの頃には、桃太郎・花咲爺・猿蟹合戦・一寸法師とならぶような話で、誰でもがよく知っている話だった。しかし、最近、大学の授業で取り上げた経験では、驚いたことに学生のほとんどが話の内容を知らなかった。そこで念のため、あら筋を紹介しておくことにしよう。
  河内国の交野に住む長者の夫婦には子供がなかったが、長谷寺の観音を篤く信仰して  いたお陰で、娘が生まれた。ところが、母は姫が十三になった時、風邪をこじらせて  死んでしまう。その時、母は、「あらむさんやな十七八にもなし、いかなる縁にもつ  けおき、心やすく見おき」たかったものをいいながら、傍らに置いてあった手箱を姫  の頭に載せて、その上から「肩の隠るゝ程の鉢」をかぶせてしまう。この鉢が姫の頭  にくっついてしまい、それも口実になって、後添いの継母に「かたわものをうちに置  きては何かせん」と苛められ、家を追い出され、「めしたるものを剥ぎ取りて、あさ  ましげなるかたびらひとつ」にさせられた姫は、さまよったあげく、河に身投げする  。しかし、鉢が水に浮き、そのおかげで助かった彼女は、結局、長者の家の「湯殿の  火」を焚く下人(下女)に雇われることになる。そして、長者の息子に恋され、二人  で家出しようとした時、頭の鉢が落ちて割れ、中からは金銀財宝・「十二ひとへの御  小袖、紅のちしほの袴」などがあらわれて、遂に幸せな結婚にいたるという訳である  。
 鉢かつぎの説話には、たとえば女性的な富と「手箱」の問題、長谷観音の「申し子」の問題など、さまざまな問題が隠されているのだが、ここでは、女性の身分変更、身分転落を「鉢かつぎ姫」の姿に探ることが第一のテーマとなる。
 さて、上の粗筋から明らかなように、長者の娘から転落した姫の姿は「あさましげなるかたびらひとつ」という服装と「鉢」を被った頭・髪の形によって象徴されている。まず前者の服装であるが、彼女の身分剥奪は「めしたるものを剥ぎ取りて」とあるように、着物の剥奪に表現されている。そして、長者の息子との結婚による身分上昇・復帰が「十二ひとへの御小袖、紅のちしほの袴」に表現されていることからすると、彼女が剥奪された着物、長者の娘として本来着るべき着物が「小袖」と「紅袴」であったことは明らかである。
 彼女がその代わりに着せられた「帷子」とは裏のない単衣の着物のことだが、その姿を想起するのにもっとも都合のよい絵画史料がある。それは図④の『男衾三郎絵詞』に描かれた少女の姿であり、実は彼女も、領主の娘だったが、両親が死んでしまい、継母によって「小袖」を奪われて帷子の「麻衣」一つ着たきりの姿にされ、「遠侍の厩の水」を汲む「水仕」の身分に突き落とされたという境遇であった。前節で『男衾三郎絵詞』の武家屋敷の門前の暴力的な様子をみたが、門の内側には、このような児童労働が存在したということになるのである。
 そして、後者の「鉢」を被った頭・髪の形が象徴するものは、まずは長髪の切断・不在であろう。『男衾三郎絵詞』の少女は、下人につきおとされる時に、髪を切られていじめられたことでも注目される例で、彼女はまず髪を「背中中より切り捨て」られ、さらに「元結際より切り捨て」られて、図④のような髪型となったのである。中世の庶民女性は「我と水をもちて候ほどに、頭に毛も候はず」などともいわれるように(『沙石集』巻三ー二)、頭上運搬労働の便からいっても、貴族的な長髪をたくわえることはできなかった。その姿は、貴族的な価値観からみれば、「物戴きたる者の鬼のようなる」などといわれることになる(『源氏物語』東屋)。それでも普通の庶民女性の髪は、「背中中」まではあるのであるが、彼女の場合の「元結際よりの切断」は普通以下の身分への転落を表現しているのである。
 そして「鉢」というのは、さらにその下の「非人」身分への転落を表現している。図⑤は近世の『人倫訓蒙図絵』からとった「はちひらき」の姿であるが、「鉢開」とは「鉢叩」、女性の場合は「鉢婆」ともいい、中世から近世にかけて、乞食のことを意味した。この絵の「鉢姿」は手に下げた「鉢ふくろ」に物乞のための鉢を入れているのであるが、鉢かつぎ姫の場合は、それが頭にくっついてしまうことによって乞食・非人身分への運命的な固定、そこからの離脱不能が表現されているのである。『御伽草子』は「鉢かつぎ」の「かたわもの」、「久しき鉢が変化して、鉢かづいて化けけるぞ、いかさま人間にてはなし」といっている。
 詳しくは以前述べたことがあるが(保立「秘面の女・露面の女」、『顕すボディ/隠すボディ』ポーラ文化研究所、一九九三年二月)、たとえば清少納言が「似げなきもの」は「下衆の紅の袴」、「短くてありぬべきもの」は「下衆女の髪」(『枕草紙』四三段、二二四段)などといっているように、服装と髪型は女性の身分の端的な表現であった。「鉢かつぎ」は、その事情をもっともよく示している説話であるといってよい。
 さて、「鉢かつぎ」のような説話教材の利用は、本来は国語学・「古文」のカリキュラムとの関係での議論が必要な問題である。絵画史料の扱いと同様、ここではこれについても詳しく検討する用意はないが、ただ先述のような子どもたちの「民話離れ」をどう評価するかという問題との関係で注意しておきたいのは、鉢かつぎ姫が中学・高校の子どもたちと同世代であることである。そこを突破口にして、「鉢かつぎ」の文化的意味を復権することができないだろうか。
 母親が死んだのは姫が十三歳の時である。十三歳というのが数え年のことなのはいうまでもないが、中世の女性は、この年ごろ、初潮と同時に「裳着」「髪上」といわれる「成女式」を経験した(これに対して、男子の元服は十五歳である)。貴族の女性の場合、この儀式は後腰に裳という飾り布をつけ、長髪に正式の結髪・插笄をする美々しいものであった。この格好が図⑥に示した女房装束、いわゆる十二単衣であって、つまり裳着とは少女が初めて女性の正装を着る儀式だったのである(保立「中世民衆のライフサイクル」、『岩波講座・日本通史、中世①』、一九九四年)。彼女らは、成人以降は、外出の時、図⑦のように「被衣」とよばれるマント・ヴェールをかぶるのが普通であった。さらに図⑧のように、その上に市女笠といわれる深笠をかぶることもあり、そうなると女性の顔はまったくみえないことになる。これはイスラムのチャドル、朝鮮のノウルなどと同じ風俗で、日本の女性も、中世にはこういう秘面の風俗をもっていたのである。
 鉢かつぎ姫は、ちょうどこの裳着の年齢の時に、母親から「櫃」の中にいれた「十二ひとえ」と「袴」を与えられ、同時に「鉢」を被せられたということになる。ということは、「鉢」は、彼女が「成女式」の猶予・モラトリアムの中におかれたことの象徴でもあるのではないか。しかも、右にみたような中世女性の秘面の風俗の面からみると、姫の「鉢」がある意味で完璧な「秘面」のスタイルでもあることが重要であろう。「近づきてかの人と契らばやと思へども、頭を見れば濛々として、口より下は見ゆれども、鼻より上は見えもせず」という意味で、娘の容貌は完全に秘匿されるのである。さらに頭と癒着した「鉢」の中に長髪が巻き込まれることによって、娘の長髪も守られることになるのである。 「鉢かつぎ」の説話を読んで誰でも不思議に思うのは、なぜ母親が娘に鉢をかぶせるのか、鉢をかぶった娘の姿は何を意味しているのかということではないだろうか。子供のころ、私もそんな疑問をもったことを憶えている。右の点からみれば、母親の不可解な行為は、時期がくるまで、姫を秘面のままにおいておくという決断を意味した。母は娘の顔を被衣でなく、「鉢」によって守ろうとしたのであり、それによって、鉢かつぎ姫は、顔を見られたことがないという意味では完璧な「秘面性」・処女性を維持したのである。「鉢かつぎ」説話は秘面の文化の存在を背景にふまえることによって初めて理解可能な説話であったといわなければならない。
 中世の女性にとっての秘面の心理はきわめて微妙なものであった。たとえば『枕草子』(第二二段)の「宮仕へする人をば、あわあわしう、わるきことに言ひ思ひたる男」が多いと嘆いている一節は、めずらしく清少納言の本音がみえるようで好感がもてる部分である。しかし、問題は、彼女が、そのような男の気持ちを「(女官の顔を)見ぬ人はすくなくこそあらめ」という点に求め、しかも「げに、そもさることぞかし」、つまりそういう風に思われるのもやむをえないと述べていることである。ここには宮仕の地位、女官という身分にともなう女性の「露面」に対する貴族社会の価値観を知ることができる。
 そしてそのような露面に対する身分的な忌避の心理は、社会の各階層で再生産されていた。図⑦⑧は被衣を着たり、壷装束をした主人とその後にしたがう婢女の図像であるが、このように、婢女が髪を着衣の内側に入れて、顔をあらわにした姿のことを「髪着こむ」といい、それは壷装束にくらべて「賎しい」姿とされていたのである(『源氏物語』、葵、参照、前掲「秘面の女・露面の女」)。中世の庶民女性たちも、自分たちの世界の中では長髪を大事にし、被衣を着る場合があったであろうが、主人筋の女性のそばに仕えたりするような時は秘面と長髪をはばかって「髪着こめた」に違いない。しかし、鉢かつぎ姫は、「鉢」によって最初からそのような俗世間の配慮を超越した立場にいることができたのである。
 以上、結局のところ女性の幸せは「鉢」の中に隠されていたという訳であり、このような前近代の女性観をどう考えるかについては別個の議論をしなければならない。また、「鉢かつぎ」は、青春期の障害・傷痕が結局のところ成功の条件に転化するという点で、たとえばグリム童話のイバラ姫・白雪姫・親指トムなどと同じ趣旨の童話だったということにもなるだろう。子どもたちからは、たとえば、宮崎駿のアニメ『魔女の宅急便』で、主人公のキキが母親から与えられた魔女の黒衣を着て旅立ったのも、十三歳だったというような反応がでてくるかもしれない。
 これらの様々な反応をふくめて問題を論じることは、先述の文学教育などとの関係をふまえたより広い視野が必要であろう。しかし、ともかく歴史学・歴史教育にとっての固有の責任は、鉢かつぎの説話を中世の下人・非人の教材として復権することにある。その上で、広い意味での歴史文化のあり方について考えるところまで問題を広げられれば理想的であると思う。
   さいごに
 以上、「王、武士、下人」を中心に、中世の「婚姻と性」「暴力と戦争」「従属と身体」の問題を考えてみた。率直にいって、これらは、これまでの歴史教育では相当部分がある意味でタブーになっていた問題である。しかし、私は、前近代史をとった場合、これらの問題は、その意味で必ず伝えられるべき歴史事実であると考えるものである。逆にいえばこれらの事実を認識することなくして、子どもたちが前近代社会を学んだとはいえないのではないだろうか。
 冒頭に述べたように、我々にとっての「過去」は、それ自身としては動かしがたい客観性を有する存在である。それ故に、一般的にいって、その教育を考える場合、そこには必ず伝えるべき歴史事実というべきものがあるはずである。もちろん、それらの歴史事実の「確定」は、様々な議論を呼ぶことであろうが、しかし、教育者と研究者の自由な協同の中で、その議論をじょじょに詰めていくこと、それらの歴史事実をどのような順序で、どのような教材を使用して子どもたちに伝えるべきかについて十分な試論を組織すること、歴史学と歴史教育の現状をみると、それはどうしても必要なことだと思う。

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