「北条時代」をどう教えるか。

「北条時代」をどう教えるか。               保立道久
            『歴史地理教育』2020年11月号
前近代史の時代区分と王権論


 世界各国で自国史の時代を区分する場合、たとえばフランスではヴァロア朝、ブルボン朝などと王朝名を使う。前近代史の時代区分を王権の歴史的変化を中心に行うことは自然なことであろう。しかし王朝は「万世一系」で変わったことはないということを不変を国制イデオロギーの基本としてきた日本では、どうしたらいいのか。私は王朝の不変とはいっても実質上の王権が武家に属した時代を含めて時代区分を考えるべきだと思う。その考え方にそって筋の通った王権論的時代区分を設定する努力をしてみたい。。
 普通の「奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸」という時代区分は、細かな時期区分として元号を歴史用語に使う悪習に支えられ、全体としては王権は不変・一系であるという歴史観を支える仕組みになっている。もちろん、この時期区分は便宜的なものに過ぎないという意見はあるだろう。しかし室町時代という用語は実は「南北朝正閏(せいじゆん)論」以降の足利尊氏は「朝敵」であるという論調の中で、足利時代を室町時代と言い換えたものである。こうして明治期には普通だった藤原時代、徳川時代という言い方も消え、右の地名による区分が常識化した。しかし、この種の曖昧な言葉を子どもに暗記させることは疑問が多い。
 私は「日本前近代の国家と天皇」(歴史科学協議会編『歴史学が挑んだ課題』大月書店。二〇一七年)という論文で、「承久の乱」(後鳥羽クーデター)以降を北条時代、室町時代は足利時代、安土桃山時代は織豊時代、江戸時代は徳川時代としようと提案した。北条時代以降、武家国家の王権は武王(ぶおう)の許にあり、天皇は旧王にすぎないという趣旨である。

北条時代という時代区分

 足利時代・徳川時代と比べて北条時代は了解しにくいかもしれない。しかし、約二〇年の平氏権力と、約三〇年の幕府成立から後鳥羽クーデターまでの源氏権力は、その地域性や軍事的経過は別にしてその本質に段階的相違がある訳ではない。私は、その計五〇年は「山城時代」からの過渡期と考えている。
 源氏将軍期三〇年に対し、その後、北条幕府は一一〇年、四倍近くの間、全国権力として展開した。武家国家の名称は権力をにぎった武家の氏族名でよぶほかないだろう。右の論文で論じたように、これは古墳時代に始まった西国国家が東国権力の成立によって破砕され、新たな軍事国家が形成される過程であった。以降、日本史は関ヶ原から鳥羽伏見まで東西合戦により最終的に決着するようになる。
 北條権力の最大の特徴は、義経・範頼の倒滅、梶原景時・比企(ひき)能員(よしかず)の殺害、頼家、実朝の殺害など、テロにつぐテロの時期を勝ち抜いたという、血にまみれた簒奪権力だったことである。頼朝自身が卑劣な暴力をふるう人物であったから(③)、源氏将軍最後の実朝がテロに倒れたのは一種の宿命であった。
 北条氏は後鳥羽に勝利し、後鳥羽・土御門・順徳の三上皇を配流し、仲恭を廃し後堀河を王位につけた。王統の破壊、全面支配である。そして北條氏と東国領主連合は、西国を占領し所領を獲得していく。これは東国武家社会内部における戦争=テロが全国にあふれ出したものであり、以降続く武家国家にとってはいわば国家暴力の原始蓄積であったということができる。
 以下、①北条時代の王権、②武家荘園制、③社会構成という順で論じてみたい。なお記述は基本的に拙著『中世の国土高権と天皇・武家』を根拠としている*1。

北条時代の王権と「旧王・武王」

 王権については頼朝の武王の地位、日本国惣官(そうかん)(惣守護・惣地頭)の地位が前提になる*2。そのうち関西三七国の惣守護権はすぐに朝廷に返還されたが*3、後鳥羽クーデターを押しつぶした後の摂家・親王将軍の位置は制度上は頼朝のそれに復帰したはずである。
 そのため北條得宗(とくそう)は名目上は王身分はもたなかったが、その「国主」「公方(くぼう)」などの称は武王の実質を示すといってよい。また北條氏は王家を空席にした後に後堀河、次にその子の四条を指名し、四条の夭折をうけて後嵯峨を天皇に指名した。こうして三代続けて北條氏が天皇指名権を握ったことが、王家の自立性を失わせ、北条氏の推薦をもとめて持明院統と大覚寺統が競合する王統分裂をもたらした。こうして旧王勢力が分裂し、武王も形式と実質が重層化するという複雑な体制がうまれたのである。これは足利時代に幕府が京都に移るまでは修復されなかった。
 北條泰時が式目を作ったり、徳政の体裁を整えようとしたのは、まずは血塗られた簒奪王権の実態を糊塗するためであったが、同時に、権力としての体裁が必要になったということであろう。

国家の軍事化と武家荘園制

 国家の軍事化は荘園制土地所有の軍事化に支えられていた。一二世紀までは土地所有体系は(1)都市貴族的所有、(2)領主的所有、(3)地主的所有を組み合わせたものだったが、院政期に(1)(2)が結合して強い軍事的性格をもった地頭領主制が形成された*4。これは(1)の都市的な所有を統合して遠隔地支配の力をもつ広域領主制であった。
 それは頼朝の下で、日本国惣地頭ー地頭―地頭代―又代(まただい)という正員・代官制システムによって運営されるようになった。代官制は主従関係と等置すべきではない能力本位のシステムであるが、これこそが地頭領主制にともなう人的関係であった。
 普通、「鎌倉殿と御家人」という主従関係が決まり文句だが、それは一種の幻想である。そもそも御家人とは単なる主従関係ではなく、地頭領主制の基礎の上に(旧王によっても)公的に認められた軍事身分、名望家身分なのであって、学術的には地頭領主制のシステムの認識こそが先行しなければならない。
 また重要なのは、この時代に東国領主を中心としてだいたい一五世紀足利家西国内戦(応仁の乱)まで続く守護・地頭級の武家の家柄が定まったことである。そもそも、一一八〇年代の源平合戦は日本史上初めての本格的な西国・東国戦争であったが、後鳥羽クーデター戦争は、その二回目であり、完結編である。そこから伝統的な武家貴族の家柄が固定していったのは自然なことであった。
 これは武家国家の通史的な理解において決定的なことである。私見ではこれを院政期における地頭領主制の形成を基礎に、武家荘園制への社会構成の転換が進行した結果と理解している。この武家荘園制は足利時代にいたる武家国家の基礎構造となったものである。

社会構成と都市

 次に、この時代の社会構成についてふれるが、この時代は、モンゴルのユーラシア制覇の時代であり、これ以降、世界史は佐々木潤之介のいう「帝国の競い合い」の時代に入り*5、これに対応して日本も軍国の時代、武家国家の時代に入った。
 ここに国家的土地所有を軸とする東アジア型の社会構成が軍事的な武家荘園制に展開したのであるが、問題は、この軍事的構成が、中央集権的な官僚制軍事国家ではなく、またいわゆる封建制でもなく、(たとえば足利時代の関東公方など)数カ国を覆うような広域的軍事権力を複数もつような独特の社会構成となったことである。
 これは頼朝の惣地頭の地位の前提となった「国地頭」が数カ国をふくむ広域権力をベースにしていたことに始まるが(③)、北條氏が各地の守護職を集積して同族に配分し、全国を領土的に分割するかのような勢いをみせたのも、その発展形態であった。
 先述のようにこの武家荘園制の基礎には都市的な場に拠点をおいて広域的な支配を展開する地頭領主制が存在した。領主というと地域村落社会に自給的に土着して「質実剛健」な生活を営んでいるなどというイメージが今でも残っているかもしれないが、それは明治時代以来の武士道讃美のイデオロギーにすぎない。領主が都市と農村の関係の中で動く存在であるということは、石母田正の『中世的世界の形成』以来の研究者の常識である。
 院政期における地頭領主制は一〇世紀に成立した国衙(こくが)支配のシステムをほぼ完全に包摂しつつ全国的に展開した。武家貴族の上層は鎌倉・京を拠点とし守護職を梃子として武家荘園制の中枢を握った。その基礎には地頭領主が各地に簇生した都市を拠点として軍事的圧力をもって機動的に活動したことがあった。北条氏の全国支配の手足となった代官、又代たちには、そのような都市を場として活動した相当数の人びとが含まれていた。
 代官制システムはどうしても能力本位の都市的なシステムとなるので、小規模な領主や地主・村落などとは様々な矛盾をもつことになり、地域に様々な紛議をもたらす。すでに一二六三年(弘長三)には、幕府が「切銭(きりぜに)」つまり替銭・割符が「多くもって出来」したことを問題としているなど、商人の活動は従来いわれているよりも早く活発になっており、初期的な産業社会への動きは確実に進んでいた(保立「平安末期から鎌倉初期の銭貨政策」、悪党研究会編『中世荘園の基層』, 岩田書院, 二〇一三年)。
 なお、地方都市は八世紀から発展していたが、この時代の地方都市は、領国支配の拠点となった守護所都市を中心にネットワーク化され、定期市などの形で整序された形を示す。北条権力は都市化の進展にのって地方国家機構を強化し、これが足利時代に連続していった。網野善彦のいう「民族史的転換」は南北朝時代よりも北条時代に始まったといった方が実態に近い。
 このころ村落の側でも生業(なりわい)の稠密化(インヴォリユーシヨン)、村落にあたえられた自然の許容量が狭くなってくる中で自然環境のより深い利用が進み始めたというのはそれに対応している(橋本道範『日本中世の環境と村落』、思文閣、二〇一五)。そういう中で「庄家(しようけ)の一揆」などといわれる民衆的運動が広がり、村落の自治・自律化と地主的な階層の役割の拡大が必然となっていく。社会は大きく軋みはじめたのである。

まとめ

 さて、以上は前記の「日本前近代の国家と天皇」を敷衍したものにすぎない。ただ領主についての知識は、かって「教材としての社会史」(『前近代史の新しい学び方』歴教協編、青木書店、一九九六年)で論じたように、社会生活の構造を考える上で教育にとっても必須のものなので説明させていただいた。
 最近の歴史学では領主制論を軽視する黒田俊雄氏の権門体制論の影響が大きく、この種の議論を目にすることも少ない。黒田理論は王家と武家の分業という制度論理を議論の中心にすえるので、北条時代に武家国家が成立したなどという議論とはもっとも遠いものである。北条時代という提案は、その意味では学会の内部批判なので、その行方は不明であることはお断りしておきたい。
 「テロにつぐテロ」とか「頼朝の卑劣な暴力」とか身も蓋もない論調となった。以前書いたことがあるように(「歴史を通して社会をみつめる」『シリーズ学びと文化④ 共生する社会』東京大学出版会)』一九九五年)、歴史好きの子の多くが武士が好きという困った状況の中で、どのように役に立つものかとも思う。
 以前インタビューをうけた「文化でとらえ直す平安時代の社会」(『歴史地理教育』二〇〇六年七月)ではもう少し楽しいことを話したが、歴史はそうでなければいけないのだろう。けれども政治の現実はいつの時代もどうしようもないもので、それを見切った上で、どう子どもに話すかを考えるほかないのではないか。そのためにもどうしても理論の枠組みと通史がほしい。針金のような概念論だが御許し願う。


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「テロにつぐテロ」というのは堀田善衛が網野善彦さんとの対談で言った言葉。

なお黒田俊雄氏の権門体制論への批判と佐々木潤之介の東アジア論の意味については拙著『日本史学』(人文書院)で述べたことがある。
拙著『中世の国土高権と天皇・武家』は版元の校倉書房の倒産にともない、私のブログで全文公開しておりますのでご参照ください(https://note.com/michihisahotate)。

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